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三菱こそフリーメーソンの牙城だ! No.4
http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/605.html
投稿者 サム 日時 2003 年 6 月 26 日 11:05:27:

大恐慌の発生も計算済み

 この株式市場の崩壊と、金融引き締め政策(デフレ政策)は国際的銀行家によって予め
計画されていたものだった。1929年2月6日、イングランド銀行総裁のモンタギュ−
・ノ−マンはワシントンへやって来て、財務長官のアンドリュ−・メロン(1855〜1
937、財政家、メロン・ナショナル・バンク社長を経て、3代の大統領のもとで財務長
官)と会談した。1929年8月に連邦準備制度理事会は金利を6%に引き上げた。その
翌月、イングランド銀行は金利を5.5%から6.5%に引き上げた。この時すでに株の
暴落は準備されていたのである。
 しかし、全ての大銀行は不況を成功裡に乗り切ったのだ。J・P・モルガンとク−ン・
レ−ブ商会は両方とも、儲かりそうな株の事前通知を送る人々の「選別リスト」を持って
いた。この選別リストに載っていたのは、銀行家仲間、卓越した事業家、有力な都市の政
治家、共和党及び民主党の全国委員会委員、及び外国の指導者たちであった。彼らは来る
べき暴落の通知を受け、ジェネラル・モ−タ−ズ、デュポン等のいわゆる一流の株を除い
た他の株は全て売却した。これらの株価も記録的な安値まで沈んだが、その後すぐに持ち
直した。
 以前の恐慌の時と同様に、事情通のウオ −ル街と外国の相場師たちは、確実優良・一流
証券をその実体価値の何割かの価格で手に入れることが出来た。1929年の大恐慌では
、マリ−ン・ミッドランド・コ−ポレ−ション、リ−マン・コ−ポレ−ション及びエクイ
ティ・コ−ポレ−ションのように、割安な債券や証券を手に入れた巨大な持株会社の形成
も見られた。1929年にJ・P・モルガン商会はスタンダ−ド・ブランズという巨大食
品トラストを組織した。トラスト経営者にとっては、彼らの持株を増したり統合したりす
る無比の機会であった。
 1920年の農業不況は、州法銀行や信託会社が連邦準備制度に加盟することを断った
ために引き起こされた。1929年の大恐慌は、アメリカのほとんど全ての権力を少数の
巨大なトラストの手の中に集中するために引き起こされたのだ。
 1929年9月1日にはニューヨーク証券取引所上場株式の時価総額は896億682
7万6854ドルだった。32年の7月1日にそれは156億3347万9577ドルと
なった。価値総額にして740億ドル、率にして29年ピ−クの実に82%が株式市場か
ら消滅した。それはアメリカ国民一人当たりにして616ドル、アメリカが第一次世界大
戦に費やした戦費のおよそ3倍の大きさだった。
 名目GNPは1929年の1031億ドルから32年には580億ドルに(44%)下
落した。同じ期間に工業生産は46%、国民所得は51%、企業売上は50%、輸出は3
6%それぞれ下落した。30年に失業者は430万人に達し、1年後にはさらに倍加して
800万人に及んだ。この数字は6人に1人が失業していることを示す。32、33年に
は遂に1200万人を越え、失業率は約25%に達した。職を維持できた者も、賃金カッ
トを甘受しなければならなかった。製造工業部門では、29年に週当たり賃金25ドルで
あったのが、32年には17ドルまで下落している。30年にセ−ルスマンの賃金はほと
んど半減した。しかも、消費者物価指数は20%程度しか下がっていない。そのため、大
衆の購買力は低下し、不景気にいっそう拍車をかけた。
 1930年から、大都会の路上に靴磨きや、りんご売りの姿が目立つようになった。自
動車工業都市デトロイトでは、職を失った労働者がプラカ−ドを立てて職探しにやっきに
なっていた。レストランの前には、残飯を求めて長蛇の列が出来た。ごみ箱をつつく姿も
珍しくなかった。メロンの皮、魚の頭、腐敗した肉ですら、探索の対象となった。
 さらに大恐慌は、新しい種類の放浪者を大量に生み出した。少なくとも2万5000の
家族と20万人以上の青少年が放浪の旅を続けていた。実際には、100万人を越える放
浪者がいたと推定されている。おんぼろ自動車を持つことも出来ない極貧の家族の中には
、綿花農場での職を求めて、ア−カンソ−からテキサスを経てリオ=グランデにいたる9
00マイルの道程を歩いて行く者もあった。
 恐慌勃発の翌30年3月6日には、早くも失業者による歴史的なデモンストレ−ション
が開始された。アメリカ共産党・青年共産同盟・労働組合統一同盟が組織したデモであり
、参加者は全米で100万人を越えた。ニューヨーク11万人、デトロイト10万人、シ
カゴ5万人、ピッツバ−グ5万人、ミルウオ −キ−4万人、フィラデルフィア3万人、そ
のほか、ロスアンゼルス、ボストン、サンフランシスコ、シアトル、デンバ−などの都市
でも、大集会が開かれた。
 暴動も起こった。何百もの商店が襲われ、各地で小規模な騒乱が相次いだ。1932年
3月7日の朝、デトロイトでは共産党に先導された3000人がディアボ−ンにあるフォ
−ドのリバ−・ル−ジュ工場へ向かって行進を開始した。彼らはフォ−ド工場へいくつか
の要求を突きつけようとしていた。行列はデトロイトを事もなく通過した。しかし、行列
がディアボ−ンに入ったとたん、武装した市の警官隊が現れ、デモ隊に引き返すよう命令
した。デモ隊が命令を無視すると、警官隊は群衆に催涙ガス弾を発射し、デモ隊はこれに
石や凍土片を投げつけて抵抗した。警官隊がフォ−ドの工場内に退却すると、消防隊がデ
モ隊めがけて放水した。警官隊は再び催涙ガスを発射し、今度は実弾射撃も加わった。デ
モ隊の一人が射殺されたのにひるんで、群衆は近くの空き地に退避した。そこへ警官隊が
射撃を浴びせたため、さらに3人が死に、50人が重傷を負った。
 1932年5月、オレゴン州ポ−トランドで、およそ300人の退役軍人(ベテラン)
たちがワシントンへ向けての行進を開始した。「ボ−ナス遠征軍」と名付けられた一行は
、次第に、退役軍人ボ−ナスを半額前貸しするのではなく、全額即刻支払う案を支持する
姿勢を鮮明にし、貨車を乗り継ぎ、東へ首都へと向かっていった。退役兵士たちは愛国者
であり、保守主義者であった。オレゴンのボ−ナス軍が20日かかって大陸横断を果たし
ワシントンに入った時には、彼らは有名人になっていた。同じような行進が各地からワシ
ントンに集結し、ボ−ナス軍はおよそ2万人の群衆に膨れ上がっていた。ボ−ナス軍は、
ワシントンにボ−ナスを手にするまで留まると気勢を上げた。
 ボ−ナス軍はペンシルバニア通りの政府の空きビルや橋を隔てた向こうのアナスコ−シ
ア・フラットに建てたバラック小屋で生活を始めた。男も女も子供もいた。議会で審議さ
れていたボ−ナス法案が否決されると、オレゴンのボ−ナス軍からは、無料乗車券をもら
って帰路につく者も相次いだ。政府は次第にボ−ナス軍に立ち退きの要求を強めていった
。そして、7月25日を期限にすべての政府管轄地からの退去が命ぜられた。
 7月28日の朝、警官隊は半ば倒壊した軍の建物からベテランを退去させた。作戦は昼
までに無事完了したが、アナスコ−シアその他のキャンプからベテランたちがワシントン
市内に集まり始めた。警官隊とボ−ナス軍の小競り合いとなった。ボ−ナス軍は次第に数
を増し、数千人に達した。警察は連邦軍の出動を要請した。
 フ−ヴァ−大統領の承認のもとに、合衆国陸軍参謀総長ダグラス・マッカ−サ−将軍が
軍隊を率いて出動した。後の連合国最高司令官ダグラス・マッカ−サ−を知らない日本人
はいないだろう。日本敗戦後の1945年8月30日、レ−バンのサングラスにくわえパ
イプで厚木飛行場に降り立った、あのマッカ−サ−である。200騎強の騎兵がサ−ベル
を抜き、5台の戦車と300人の歩兵が群衆に襲いかかった。ほとんど無抵抗の群衆を軍
隊が力ずくで建物から排除し、バラックを焼き払い、夜中までかかって追い散らした。マ
ッカ−サ−はワシントン全市からボ−ナス軍を追放したのだ。
 他方、1920年代に慢性的な不況状態にあったアメリカ農業が受けた打撃も深刻であ
った。29年に約120億ドルであった農業収入総額は、32年には約52億ドルに激減
した。農産物価格は底をつき、農民は反抗的になっていた。29年から33年までに、約
101万9300人の農民が差し押さえ、競売などで財産を失った。農民の中には、抵当
物件を取り立てようとする銀行代理店を襲撃する者もあった。
 西部、中西部、南部の農村地帯では、農民の組織化が進み、それはやがて、全国組織へ
と発展していった。32年12月、ワシントンに26州からの代表248人が集まり、全
国農民救済協議会を組織した。この協議会は、農業協同組合連盟、農民教育協同組合同盟
、農民休日協会そのほかの農業団体を中心に、全国農民行動委員会を作り、困窮した農民
の救済運動に乗り出した。
 全国農民行動委員会は、強制競売阻止の大衆行動、中小農の債務の棒引き、地代と租税
の軽減、農民必需品価格の引き下げ、黒人抑圧制度の撤廃等の要求をかかげて活動した。

 それにしてもこの大恐慌は正に狂気の沙汰としか言いようがなかった。
 「飢餓と余剰の並存という信じられない光景がそこかしこに展開した。失業者たちはす
りきれた洋服しか着ていないというのに、農民は1932年に1300万梱の綿の売れ残
りを抱えていた。子供たちは段ボ−ル底の靴をひきずって学校へ行っているというのに、
マサチュ−セッツ州の靴工場は年の内六ヵ月は閉鎖しなければならなかった。食事に事欠
く人間が大勢いるというのに作物は畑で腐っていた。
 カリフォルニアでは売れ残りのオレンジに石油をかけて燃やしているというのに、アパ
ラッチ山脈のある地方では村民のすべてがタンポポその他の雑草で飢えをしのいでいた。
アイオワではとうもろこしが余りにも値が安いため、郡部の裁判所では暖炉の薪がわりに
燃やされたが、干ばつに見舞われた北西部では多数の牛や羊や馬が餓死していた。酪農家
が売れない牛乳を排水溝に流しているというのに、失業中の親は育ち盛りの子供に何とか
一パイントの牛乳でも飲ませてやりたいと必死だった」(林敏彦著『大恐慌のアメリカ』
岩波新書)
 不況が長引き、有り余る豊富の中にこれほど多数の人が欠乏を感じているのは、社会経
済システムが狂っているからに他ならなかった。

 1931年5月にオ−ストリア最大の銀行クレディット・アンシュタルトが支払いを停
止した。金融恐慌はヨ−ロッパ全土に広がり、ハンガリ−、チェコスロバキア、ル−マニ
ア、ポ−ランド、そしてドイツの銀行が取り付けに見舞われた。6月にはドイツのハイン
リッヒ・ブリュ−ニング首相が、緊縮的政策を受け入れるよう国民に説得する目的で、ド
イツは賠償支払い能力の限界に来たと言明した。資金は争ってドイツから逃避し始めた。
ドイツの銀行は軒並み取り付けに見舞われ、ライヒスバンクは4日間で4億ライヒスマル
クの金を失った。
 6月20日にはフ−ヴァ−が、他の重要な債権国が同調するならば、アメリカは32会
計年度に期限の来るすべての国際債務の支払いを1年間猶予するというモラトリアムを提
案した。フ−ヴァ−・モラトリアムには最終的には各国の同意が成立したが、それはよう
やく7月6日になってからであった。その間に、債権者たちは先を争って流動性を確保し
ようとした。ドイツではすべての銀行が短期間ながら閉鎖され、閉鎖が解かれた後も外国
資金は凍結された。
 ヨ−ロッパ大陸の金融恐慌は、イギリスに波及した。ヨ−ロッパの小国の商業銀行が、
ドイツの外国資金凍結によって失った金準備をポンドを売って回復しようとした。イギリ
スからの資金引き揚げの速度はますます速まった。9月21日、イギリスは金の支払いを
停止して金本位制を離脱し、ポンドを切り下げた。
 同時に今度はアメリカから金が大量に流出し始めた。ドイツやイギリスで損失を蒙った
各国の銀行が、金準備を確保するため、また、損失を埋め合わせるため、アメリカの銀行
預金を解約して金に替えたのである。連邦準備はこの金所有権の国外流出に古典的手段で
対応した。連邦準備銀行は公定歩合を2週間に2%ポイント引き上げた。大恐慌の中での
金融引き締めは、狂気の沙汰だった。
 では、ドイツの戦時債務に対するこのフ−ヴァ−・モラトリアムの真の狙いはいったい
何だったのだろうか。フ−ヴァ−・モラトリアムの背後には、国際的銀行家たちがいた。
ドイツはスポンジのようにアメリカの資金を待ち望んでいた。この計画はフ−ヴァ−が大
統領になる前から開始されていた。フ−ヴァ−の大統領選出は、ク−ン・レ−ブ商会の重
役であるワ−バ−グ兄弟の影響によるものであり、彼らが選挙費用を賄った。その見返り
として、フ−ヴァ−はドイツの債務繰り延べ(モラトリアム)を約束したのだ。
 フ−ヴァ−・モラトリアムはドイツを援助する意図で行われたのではなかった。ドイツ
の戦争債務の繰り延べは、ドイツが再軍備の資金を得るために必要であった。1931年
に国際的銀行家たちは第二次世界大戦を期待しており、侵略者(ヒトラ−)なしの戦争は
あり得なかったからだ。
 フ−ヴァ−はまた、ロスチャイルド家の秘密代理人として、世界中のいろいろな場所で
多くの鉱山開発を行い、ロスチャイルドの主要企業の一つであるスペインとボリビアのリ
オ・チント鉱山の管理者として報酬を与えられていた。フ−ヴァ−とエミ−ル・フランク
(ベルギ−の大銀行ソシエテ・ジェネラルの重役)はベルギ−救済委員会を組織して、第
一次世界大戦中のドイツに食料を供給した。
 大恐慌に対するフ−ヴァ−の対策は以下の通りであった。
 「ウオ −ル街崩落のあと、彼は、実業界・労働界の指導者をホワイト=ハウスにまねき
、協力を依頼している。実業界の指導者は、フ−ヴァ−の要請をいれて、賃金水準を維持
し、生産水準を引き下げないことに同意した。労働界の指導者も、ストライキをやらない
と述べた。農業界にたいしても、農産物価格を適当な水準に維持するため、生産制限を自
発的におこなってほしいと訴えた。しかし、これらの要請がいつまでも支持されるはずも
なかった。すでにみたように、30年から生産は落ち込み、失業者が増大した。31年8
月、USスティ−ルが賃金カットに乗りだしてから、労使間の協調にも亀裂が生じ、労働
争議が激発した。農業政策もさして効果はなかった。自発的な生産制限は、全国的規模で
実施されたときにのみ効果を生む。しかし、個々の農民は、従来の所得水準を維持するに
は、むしろ生産の増加をはからざるをえなかったのである。
 1931年12月、フ−ヴァ−大統領は、起死回生の法案を議会に提出した。復興金融
公社法案である。この法案は、政府が5億ドルの資本を投下して、復興金融公社を設立し
、銀行・保険会社・鉄道・農業不動産会社などに救済貸付をおこなうことを目的としてい
た。この法案提出は、政府のビジネスへの介入に消極的であったフ−ヴァ−にしては、画
期的な措置であったといえる。しかし、結局は、大銀行や大産業を救済するのに役立った
だけで終わった。32年7月、復興金融公社の貸出状況を議会に報告する義務を負わせる
法律が通ったが、それにもとづいて調査したところ、総額1億2600万ドルの貸出のう
ち、半額以上が、三大銀行への貸出しであることが判明したのである」(中村政則著『昭
和の恐慌』小学館)
 経済状態の悪化を反映して、連邦政府の歳入は29年から32年にかけて半減したが、
歳出は5割の増加となった。その結果、連邦財政赤字は32年には27億ドルに達した。
これはその年の歳入総額より40%以上も大きな数字であり、政府の負債残高は年間歳入
の10倍にまで膨らんだ。
 フ−ヴァ−は均衡予算への復帰を訴え、増税政策を採用した。フ−ヴァ−は退役軍人の
ボ−ナス、公共事業、福祉事業、失業保険などを連邦政府の国債発行によって賄うことは
、すべて国の信用に傷がつくとして拒否し、大不況からの回復を財政面から支援する道を
閉ざしてしまった。いまや大統領フ−ヴァ−は、繁栄の象徴から貧困の象徴へと転落した
。失業者は公園や空き地に木切れやダンボ−ルで作ったバラック小屋の集落を、皮肉をこ
めて「フ−ヴァ−村」と呼んだ。新聞紙は「フ−ヴァ−毛布」、引っ張りだされた空っぽ
のズボンのポケットは「フ−ヴァ−の旗」と呼ばれた。
 1932年2月13日、ミシガン州のカムストック知事は全州550の銀行に8日間の
「銀行休日」を宣言した。デトロイトの中心的銀行、フォ−ドの庇護下にあるガ−ディア
ン国法商業銀行と第一デトロイト国法銀行が経営危機に陥ったとの判断からであった。
 ミシガンの銀行休日の直後、オハイオ全州に取り付け騒ぎが起こった。2月20日から
の1週間で金融恐慌は全国に広がった。2月と3月で閉鎖された銀行の数は3610行に
のぼった。そして、3月4日、ル−ズヴェルトの大統領就任の日、最後まで残っていたニ
ューヨーク州とイリノイ州が銀行休日を宣言したことによって、全米すべての州で銀行が
閉鎖された。21年に3万1076行あったアメリカの銀行は、合併や倒産によって33
年までにその半数以上にあたる1万6305行が姿を消した。33年中に払い戻しを受け
られなくなった銀行預金残高は36億ドル、その年のGNPの6%を超える大きさだった

 こうして不況のどん底でアメリカ国民が絶望感にうちひしがれている時に登場したのが
、ル−ズヴェルトのニュ−ディ−ル政策だった。「ニュ−ディ−ル」という言葉は、「ト
ランプのカ−ドを新しく配り直す」「新規巻き返し」「新しい対策」という意味である。
1932年の大統領選挙でのフ−ヴァ−の対抗馬は、ニューヨーク州知事のフランクリン
・D・ル−ズヴェルトであった。1921年、39歳の時、ル−ズヴェルトは小児麻痺に
かかり、以来車椅子の生活を余儀なくされた。大統領選挙の結果は、ル−ズヴェルトの圧
勝であった。
 1933年3月4日の大統領就任式で、ル−ズヴェルトはキャピトル・ヒルを埋め尽く
した大群衆とラジオの前の国民に語りかけた。
 「我々はこの国の置かれた状況に正直に直面することを恐れてはなりません。この偉大
な国は、これまで耐えてきたように耐え忍び、やがて復活し、繁栄するでありましょう。
したがって、まず第一に私は、我々が恐れなければならないのは恐れだけである−退却を
前進に変えるために必要な努力を萎えさせる名状しがたい、理由のない、条理の立たない
恐れだけである、という堅い信念を述べさせていただきます」
 「両替商たちは既に我が文明の殿堂の高座から敗走しました。我々は今こそその殿堂に
古来の真理を回復することが出来るのです」
 「幸福は、単に金銭の所有にあるのではなく、成就の喜び、創造的努力の心のふるえに
あるのであります」
 「そしてそこには、十分だが健全な通貨の準備がなければならない」
 ル−ズヴェルトは私利を求めて経済を破滅させた両替商(国際的銀行家)たちを非難し
、金銭的利潤よりも崇高な社会的価値があることを説いたが、彼自身がその銀行家たちの
エ−ジェントであることは述べなかった。
 ル−ズヴェルトの政治経歴は奇妙な事情から始まった。昔の学生時代の関係から、第一
次世界大戦中の海軍次官として彼は何人かのグロ−トン校とハ−バ−ド大学の同室の友を
含む海軍の同性愛者の大組織の告発を先回りして妨害したことがあった。このことが、旧
家であり著名なニューヨークの一族のベシ−・マ−ベリ−が主宰するニューヨーク−パリ
間を何度も往復してきた裕福な国際的な同性愛者グル−プに好ましい行為として目にとま
った。
 ベシ−・マ−ベリ−は、後に民主国民党の有力者となった。彼女はまたル−ズヴェルト
夫人エレノアを仲間に引き入れた。フランクリン・D・ル−ズヴェルトが車椅子の生活を
余儀なくされて落ち込んでいたので、エレノアはベシ−に相談した。ベシ−はル−ズヴェ
ルトをニューヨークの議員に推すことにした。彼女の力で目的は達成され、ル−ズヴェル
トは後に大統領となった。
 フランクリン・D・ル−ズヴェルトは、1920年代にアメリカで巨額の外国債券を発
行した評判の悪い国際銀行家であった。この債券は償還不能となり、アメリカ市民は巨額
の損失をこうむった。『ニューヨーク重役名簿』には、ル−ズヴェルトが1923年と2
4年にユナイテッド・ヨ−ロピアン・インベスタ−ズ社の取締役社長であると記載されて
いた。この会社は巨額のドイツマルク債の発行をアメリカで引き受けたが、それらはすべ
て償還不能となった。『プア−ズ重役名簿』は、彼を1928年のインタ−ナショナル・
ジャ−マニック・トラスト・カンパニ−の重役として記載していた。フランクリン・D・
ル−ズヴェルトはまた、合衆国における外国証券の取引を行うイギリス−アメリカ部隊で
ある連邦国際銀行の顧問でもあった。
 フランクリン・D・ル−ズヴェルトが合衆国大統領に就任した時、彼はポ−ル・ワ−バ
−グの息子で、国際手形引受銀行副頭取及び他の会社の重役のジェ−ムズ・ポ−ル・ワ−
バ−グを予算局長に任命した。
 ル−ズヴェルトはW・H・ウッディンを財務長官に任命した。ウッディンは国内最大の
産業資本家の一人であり、アメリカン車両鋳造会社や多数のその他の機関車関連の工事会
社、レミントン兵器会社、ザ・キュ−バ・カンパニ−、コンソリデイテッド・キュ−バ鉄
道及びその他の大企業の重役であった。後に、ウッドロ−・ウィルソンをホワイトハウス
に送り込む手助けをしたハ−レム不動産の経営者の息子であるヘンリ−・モ−ゲンソ−・
ジュニアがウッディンの後任者となった。
 以上の任命は、ル−ズヴェルトが、その非難した当の産業資本家、両替商(銀行家)の
側に立つ人物であることをよく示している。
 就任式の夜、ル−ズヴェルトは財務長官ウィリアム・ウッディンに5日後までに緊急銀
行法を起草するよう命じた。翌5日の日曜日、ル−ズヴェルトは側近と協議の上、初の大
統領令を発した。その第一は、3月9日に特別議会を召集すること、第二は、夜12時を
回ってから発表されたが、1917年の「対敵通商法」というおぼつかない権威を拠り所
に、3月10日まですべての銀行を閉鎖し、金の輸出、銀の輸出、及び外国為替の取引を
すべて禁止するというものだった。これによって、アメリカの銀行制度は完全に機能を停
止した。3月9日に開かれた特別議会で、「緊急銀行法」が発効した。ル−ズヴェルトは
直ちに、新しい権限に基づいて、銀行休日を無期限に延長するとの大統領令を発布した。

 しかしこの「対敵通商法」は、その合法性に関して疑問がある。このような法規は平和
状態には適用できない。議会は、軍事措置として以外は、国の憲法や法律を一時停止する
権限はなく、その場合でさえ、その権限は軍事的必要事に限られているからだ。
 ではこの「緊急銀行法」はどのような結果をもたらしたのであろうか。
 「1929年には3万以上の州規模ないしは全国規模の銀行があった。その数は193
2年には1万9163に減っていたが、前述の指令の結果、4541の銀行あるいは残存
銀行の約3分の1が永久に閉鎖し、43億5679万9000ドルに達する彼らの預金は
凍結され、その大部分はなくなった(1936年度通貨会計検査官報告、112ペ−ジ参
照)。こうして大統領は、法律と合衆国憲法を非道に犯して、閉鎖銀行の数千人の株主お
よびその銀行の数百人の預金者の財産を仮借なきまでに消滅させ、後日その著書『われわ
れの道』のなかでその成功を自慢している。
 この指令の効果は、デフレをさらに深め、事態をますます悪くしたことである。それは
幾千人の預金者の生涯をかけた預金を凍結し、彼らを安楽な身分から窮迫状態へと一転さ
せた」(ジョ−ジ・ア−ムストロング著『ロスチャイルド 世界金権王朝』徳間書店)
 この銀行閉鎖から救われたのは、連邦準備銀行が安全を保証した銀行だけであった。3
月12日の日曜日の夜10時、人々はラジオから流れてきたCBSアナウンサ−の声に耳
をそばだてた。「大統領がお宅にお邪魔して、暖炉のそばに腰を下ろし、少し炉辺のおし
ゃべりをされたいそうです」。かの有名なル−ズヴェルトの「炉辺談話」が始まった。
 「明日月曜日から、連邦準備銀行のある12の都市の銀行を皮切りに、既に財務省が調
べて大丈夫だと分かっている銀行を開けます。それから火曜日には、ちゃんとした手形交
換所のある町の健全だと分かった銀行が、すべての業務を再開します。それから水曜日に
は・・。いいですか、もしあなたの銀行が最初の日に開かなくても、もうそこは開かない
のだと決して思わないで下さい。明日開く銀行も、それから後で開く銀行も、全く同じな
のです。お金はマットレスの下に置いておくよりも銀行に預けた方が安全だと私が保証し
ますよ。・・」
 この「炉辺談話」は大成功だった。翌日再開された銀行はどこも取り付けには見舞われ
なかった。それどころか、ニューヨーク連邦準備銀行では、加盟銀行に払い出した金額が
1800万ドルだったのに対して、その日の終わりまでに帰ってきた現金は2700万ド
ルに上がった。他の地域の連邦準備銀行でも同じことが起こった。人々はタンス預金を銀
行に預けにきたのである。しかし、再開されず閉鎖されたままの銀行もあったことは、先
に述べた通りである。人々の預金が安全性を保証された特定の大銀行に集中したであろう
ことは、想像に難くない。
 ル−ズヴェルトは議会に「緊縮財政法案」を提出した。ル−ズヴェルトはフ−ヴァ−時
代に膨らんだ連邦財政赤字の建て直しのために、連邦支出を大幅に削減する権限を要求し
た。ル−ズヴェルトは、議員、大統領を含む全ての政府職員の給与を15%まで削減し、
軍人恩給を削減し、いくつかのベテラン(退役軍人)の特典を廃止し、政府の科学研究と
統計サ−ビスへの支出を削減するつもりだと説明した。軍人恩給の削減に対してはベテラ
ンたちから直ちに強硬な反対の声が上がった。彼らはフ−ヴァ−の拒否権を覆してそれを
獲得したのだった。議会は緊縮財政法とヴォルステッド法(ビ−ル・ワイン解禁)の二つ
を承認した。
 ル−ズヴェルトの緊縮財政・デフレ政策は明らかに失敗だった。不況に対する療法は、
連邦準備制度のデフレ政策ではなく、通貨と信用を膨張させて、公正かつ穏当なインフレ
−ションを招来することにあった。ル−ズヴェルトはその療法を承知していたので、就任
演説でこの方策を取ると約束したのだ。ル−ズヴェルトは口先とは裏腹に、景気を回復さ
せるつもりなど始めからなかったのだ。
 1933年6月16日、「グラス・スティ−ガル法」が発効した。グラス・スティ−ガ
ル法は証券と銀行の分離、連邦準備制度の強化、預金者保護のための「連邦預金保険公社
(FDIC)」の設立、要求払い預金への利子の禁止などを主な内容としていた。
 33年銀行法(グラス・スティ−ガル法)の中で最も大きな論議を呼んだのは、FDI
Cについてであった。「政府による保険は機能したためしがない」「結局健全で業績のよ
い銀行が不健全で危険な銀行を助けることになる」「自由かつ独立独歩のアメリカの銀行
制度への根本的挑戦だ」。一時は成立が危ぶまれたが、結局FDICは1935年に設立
された。これは、小銀行に対する大銀行の力を増大させ、大銀行が小銀行を調査する一つ
の口実を与えることになった。
 次いで銀行法は1935年に改訂され、連邦準備の政策決定権限はさらに強化された。
金融政策の決定権は従来の連邦準備委員会を改組した「連邦準備制度理事会」に移り、財
務長官と通貨管理局長はその委員会からはずされた。
 この法律は連邦準備制度理事会の役員の任期を14年もしくは大統領の任期の3.5倍
の長さに延長した。これが意味することは、理事会に敵対するかもしれない大統領は、自
分に好意的な多数派を理事会に任命することが出来ないということである。そのために、
大統領がホワイトハウスに着任する前に採用された金融政策は次の大統領の希望に関係な
く継続されるようになった。
 1935年の銀行法はまた、1933年のグラス・スティ−ガル法の条項の一部を廃止
した。この条項は、銀行が所有する企業にその銀行が資金を貸し付けることを禁止するこ
とだったので、元来の趣旨は良いものであった。1935年銀行法により、連邦準備銀行
は今や産業に直接貸付することを認められ、巨額の貸付を実行するだけの規模を持たない
会員銀行と競合することになった。これは、J・P・モルガンが投資銀行業に戻ることが
できることを意味した。
 1935年銀行法によれば、連邦準備制度理事会の新議長と新メンバ−は、大統領によ
って任命されると規定されている。そして、ル−ズヴェルトはマリナ−・エクルズを理事
会議長に指名し、全く新しい理事陣を任命した。
 エクルズはユタ州の銀行家であり、ファ−スト・セキュリティ−ズ・コ−ポレ−ション
の社長であった。この会社は、エクルズが1920年から21年までの農業不況の時に安
く買った多数の銀行からなる一族の投資信託会社だった。エクルズはまた、ペット・ミル
ク・カンパニ−、マウンテン・ステイツ・インプリメント・カンパニ−及びマルガメイテ
ッド・シュガ−のような企業の重役でもあった。大銀行家としてエクルズはル−ズヴェル
トを操作していた有力者グル−プとうまがあった。
 当初の連邦準備法は準備制度加盟銀行に対し、連邦準備銀行に下記のような準備金を保
有することを要求した。すなわち、地方銀行及び小都市の銀行は、その預金の7%、準備
都市(商業中心地と目される都市で、そこに所在する国立銀行は一定率の準備金を維持す
るよう規定されている)の銀行は10%、中央準備都市では13%である。
 1935年銀行法は、「有害な信用の膨張・収縮を防止するため」、前述の準備金要件
を倍加する権限を連邦準備制度理事会に与えた。1936年8月26日に、連邦準備制度
理事会はこれらの準備金条件を50%引き上げた。さらに、1937年1月30日、次の
決議を採択した。
 「1937年3月1日の営業開始より各加盟銀行が維持すべき準備金要件は連邦準備法
第19条に定められた要件の75%増しとする。さらに1937年5月1日の営業開始よ
り各加盟銀行が維持すべき準備金要件は連邦準備法第19条に定められた要件の100%
増しとする」
 この通貨の引き揚げ、信用の収縮はデフレを惹起した。これまでの赤字財政によって1
937年初めに「繁栄」が戻ったかに見えた時、ル−ズヴェルトは財政支出を大幅に削減
し、連邦準備銀行はマネ−サプライの増加を引き締めたのだ。こうして、一旦回復に向か
ったかに見えたアメリカ経済は、1938年には再び厳しい「リセッション」に見舞われ
た。新聞は「ル−ズヴェルト不況」という言葉を使い始めた。またまた飢餓線上をさまよ
う人々が出現した。
 ニュ−ディ−ルの期間を通じて連邦財政支出がGNPの10%を超えた年は2回しかな
かった。ニュ−ディ−ルの財政政策は、連邦財政赤字の規模で見る限りGNPの5%に達
することは珍しかった。ニュ−ディ−ルの財政赤字は小さすぎて、アメリカ経済を旧来の
成長軌道上に復帰させる力にはならず、回復の足を引っ張るブレ−キにしかなっていなか
った。ニュ−ディ−ルは、総需要政策としては失敗だった。
 それでは、この大不況からの脱出はどのようにして可能になったのであろうか。戦争で
ある。アメリカが大不況から抜け出して1929年までの長期的成長軌道上に復帰したの
は、日本軍の真珠湾への奇襲が起こった1941年になってからであった。
 1939年9月1日、ヒトラ−はポ−ランド進撃を開始し、第二次世界大戦が始まった
。1941年3月、三期目を始めたばかりのル−ズヴェルトに、議会は連合国に軍事物資
を供給するための武器貸与法を許した。必要な資金は国債の発行によって賄われる。巨大
なスケ−ルで軍事生産が開始された。その年の1月には3.3億ドルに拡大していたアメ
リカの輸出は、さらに4.6億ドルに増加した。12月7日(日本時間12月8日)には
、日本軍の真珠湾攻撃が起こった。この卑劣な奇襲によって、アメリカ国内の参戦反対派
の声は沈黙させられた。
 1942年の連邦軍事支出はGNPの14.4%に急上昇し、連邦財政赤字はGNPの
13.5%となった。43年には連邦財政赤字はGNPの30%に達した。44年には連
邦・地方政府を合わせた全ての政府財政支出の合計は、アメリカ経済全体の58.2%を
占めるに至った。総生産は40年から45年までに59%拡大した。アメリカは、テクノ
ロジ−と資源の許す限りの潜在的生産力を、戦争動員のためにフル稼働させた。武器貸与
プログラムによって、40年から45年までの間に総額500億ドルにのぼるアメリカの
軍事物資がイギリスをはじめとする連合国に供与された。これは1933年から39年ま
でのニュ−ディ−ルの財政支出総額よりも大きかった。
 結局のところ、ル−ズヴェルトがデフレ政策を転換し、大量国債発行によるインフレ財
政を実行したのは、第二次世界大戦によってだったのである。ル−ズヴェルトは戦争が開
始されるまで、たらたらと不況を長引かせたのである。アメリカの失業率は1941年の
9.9%から1944年には1.2%へと下がっていった。大量失業経済は一転して労働
力不足経済へと姿を変えたのである。

 ニュ−ディ−ル政策といえば、一般的には農業調整法(AAA)、全国産業復興法(N
IRA)に基づいて作られた全国復興局(NRA)と公共事業局(PWA)、民間国土保
全部隊(CCC)、テネシ−峡谷開発公社(TVA)、公務管理局(CWA)が有名であ
る。
 しかしTVAなど、「既に電力は供給過剰気味だ」「新たな電力を一体どこに売ろうと
いうのか」「この法律はアメリカ社会にロシアのアイデアを接ぎ木しようとするものだ」
、などの強力な反対の声が保守派の議員の間から上がっている。今から考えると、この時
既にル−ズヴェルトは来るべき戦争時の電力需要を見越していたのだと思われる。
 結論として、ニュ−ディ−ル政策は首尾一貫性を欠き、総需要政策としては失敗であっ
た。しかし、1933年の証券法、グラス・スティ−ガル法、34年の証券取引法、19
35年銀行法は、連邦準備銀行による政策コントロ−ルを確立し、その後レ−ガン時代に
至るまでのアメリカの金融制度の基礎を定め、他のいかなるニュ−ディ−ル立法よりも成
功したものとなったのである。

ロスチャイルドもまたダミーだった

 先に、日本の外債を発行した銀行団は、パ−ス銀行、香港上海銀行、横浜正金銀行、ロ
スチャイルド商会、ロスチルド商会、ウェストミンスタ−銀行、ベアリング・ブラザ−ズ
商会、モルガン・グレンフェル商会、シュレ−ダ−商会、J・P・モルガン商会、ク−ン
・レ−ブ商会、ナショナル・シティ−商会、ファ−スト・ナショナル銀行であったと書い
た。この内、ベアリング・ブラザ−ズ商会、J・P・モルガン商会、ク−ン・レ−ブ商会
、ナショナル・シティ・バンク、ファ−スト・ナショナル・バンクについては、既に説明
した。残る、パ−ス銀行、香港上海銀行、ロスチャイルド商会、ロスチルド商会、ウェス
トミンスタ−銀行、モルガン・グレンフェル商会、シュレ−ダ−商会について、次に説明
しなければならないだろう。
 ロスチャイルド家については既に様々な研究書が出ているので、今更筆者がくどくどと
説明するまでもないだろう。ざっと触れておく程度にしよう。
 一族の創始者であるマイヤ−・アムシェル・ロスチャイルドは、コイン売買業者として
フランクフルトに小さな店を開いた。それ以前はバウア−として知られていたが、赤い楯
の上に一羽の鷲を描いた看板を掲げることによって商売を宣伝した。この看板はフランク
フルト市の紋章を応用したものであり、鷲の爪から彼の5人の息子を意味する5本の金の
矢が広がり出るようにあしらわれていた。この看板ゆえに、彼は「ロスチャイルド」また
は「赤い楯」という名前をつけたのである。
 アメリカ植民地での反乱を鎮圧するため、ヘッセン選帝侯はイギリスに傭兵を貸すこと
によって大金を稼いだ時、ロスチャイルドはその資金の運用を委託された。彼は、自身と
選帝侯両者に素晴らしい利益をもたらし、他の顧客を引き寄せた。彼はユ−デンガッセ1
48番地の「緑の楯」として知られる5階建ての、それまで住んでいた家より大きな家に
移った。この家はシフ家と共同で使用された。
 五人の息子たちはヨ−ロッパの主要都市に支店を出した。長男アムシェル・マイヤ−が
ドイツ家を継ぎ、次男サロモン(ザロモン)・マイヤ−が隣国オ−ストリアのウィ−ン、
三男ネイサン(ナタン)・マイヤ−がイギリスのロンドン、四男カ−ル(カルル)・マイ
ヤ−がイタリアのナポリ、五男ヤ−コプ・マイヤ−(後にジェ−ムズと改名)がフランス
のパリに散る形で、ヨ−ロッパ全土の主要都市をおさえた。
 1804年、三男ネイサン(27歳)がイギリス・ロスチャイルド商会創設
 1817年、五男ジェ−ムズ(25歳)がフランス・ロスチャイルド商会創設
 1820年、次男サロモン(46歳)がオ−ストリア・ロスチャイルド商会創設
 1821年、四男カ−ル(33歳)がイタリア・ロスチャイルド商会創設
 兄弟の中でも最も成功したのは、ロンドンのネイサンとパリのジェ−ムズであった。
 「イグナシアス・バラの『ロスチャイルド家のロマンス』という本には、ロンドンのロ
スチャイルドがどのようにして富を築いたかが書いてある。
 彼は、ヨ−ロッパの運命が不安定な状態にあったワ−テルロ−へ行き、ナポレオンが戦
いに負けそうなのを知り、ブラッセルへ急いでもどった。オステンドで彼はイギリスへの
船を借りようとしたが、ひどい嵐のためにだれも船を出そうとしなかった。船を借りるた
めに、ロスチャイルドは500フラン、次に700フラン、そして最後に1000フラン
を提示した。ある船員は、『2000フランだったら連れて行ってもいい。それだけあれ
ば、万が一のときでも女房にはなにかが残る』といった。嵐にもかかわらず、彼らは海峡
を渡った。
 翌朝、ロスチャイルドはロンドン取引所のいつもの持ち場にいた。彼の顔が青く、ひど
く疲れた様子が他の人びとにもわかった。突然、彼は大量の有価証券を売りはじめた。取
引所はとっさにパニックに襲われた。ロスチャイルドが売っている。わが国がワ−テルロ
−の戦いに負けたことをロスチャイルドは知っている。ロスチャイルドと彼が知っている
すべての代理店は、有価証券を市場に投げつづけた。災難を止めることはできなかった。
同時に彼は、だれも知らない秘密の代理店を使って、ひそかにすべての有価証券を買って
いたのであった。
 たった一日で、彼は100万ポンド近くの利益を確実にした。このことが次の諺となっ
た。『連合国はワ−テルロ−の戦いに勝ったが、実際に勝ったのはロスチャイルドだ』
 1915年4月1日付けのニューヨーク・タイムズ紙は次のように報じた。すなわち、
1914年にネイサン・マイア−・ド・ロスチャイルド男爵は、彼の祖父についてのワ−
テルロ−の物語は真実ではなく中傷であるとして、イグナシアス・バラの本を即刻発売禁
止にするよう法廷に訴え出た。法廷はその物語は真実であると裁定し、ロスチャイルドの
訴えをしりぞけ、彼に法廷費用の全額支払いを命じた。この物語にかんするニューヨーク
・タイムズ紙の記述には、『ロスチャイルドの全資産は20億ドルと推定される』とある
」(『ユ−スタス・マリンズ著『民間が所有する中央銀行』面影橋出版)
 この話は有名であるが、フランス家の当主ギイ・ド・ロスチャイルドはその著『ロスチ
ャイルド自伝』の中で別の話を書いている。
 「伝説とは反対に、ロスチャイルド家の財産はナポレオンの敗北に結び付くものではな
い(伝書鳩がロスチャイルド家に対して誰よりも早くワ−テルロ−の戦いの結末を知らせ
、そのことによって同家が莫大な株式取引の利益を得たという、伝説。最近、ロンドンの
証券取引所の行った入念な調査は、ワ−テルロ−の前または後の英国の公債の相場はいか
なる変化も受けていなかったこと、およびネイサン・ロスチャイルドの打った『大博打』
という話は完全な誤りであることを、証明した)」(『ロスチャイルド自伝』)
 イギリスへ船で渡ったのか、伝書鳩が知らせたのか、真実は闇の中ではっきりしない。
伝説だけが一人歩きしている感があるが、ネイサンが戦争でぼろ儲けしたことだけは確か
であろう。しかし筆者は世間でいうように、この世の支配者はロスチャイルドであるとは
思っていない。例えば、イギリス最大の商業銀行はバ−クレ−ズ銀行だが、バ−クレ−家
の先祖はスコットランドの名家の出身でクエ−カ−教徒のロバ−ト・バ−クレ−である。
例えば、ネイサンの孫娘ハンナ・ロスチャイルドはプリムロ−ズ家に嫁いでいるが、プリ
ムロ−ズ家もスコットランドの名門貴族である。例えば、別のネイサンの孫娘アニ−・ロ
スチャイルドが嫁いだヨ−ク家の先祖であるフィリップ・ヨ−ク(ハ−ドウィック伯爵)
はイギリスの首席裁判官であった。例えば、イングランド銀行を創設した大蔵大臣チャ−
ルズ・モンタギュ−(ハリファックス伯爵)、例えば、ソサエティ・オブ・フレンズ(ク
エ−カ−教団)を創設したグレイ伯爵、アイルランドのダブリン出身のギネス財閥、同じ
くアイルランド出身のブラウン家。
 ロスチャイルド、ロスチャイルドと騒ぐ前に、これらのイギリス、スコットランド、ア
イルランド出身の貴族、名家、財閥の分析がしっかりとなされなければならないと考える
。ではユダヤの陰謀は存在しないのかというと、そうではない。結果から判断すれば明ら
かである。現代世界におけるユダヤ人の高い地位を考えてみて欲しい。これをユダヤ人の
優秀さのせいにしたり、はたまた単なる偶然であると考える人は、本書を読み進めるのは
やめた方がいい。時間の無駄である。陰謀の中心にユダヤがいることは確かだが、それは
ロスチャイルドではないということだ。例えば、こんなエピソ−ドがある。
 「18世紀中葉のロンドンにおける最も重要なユダヤ人の一人はサンプソン・ギデオン
であった。彼は英国宰相ウオ ルポ−ルの友人であり、国家財政に資金を調達した。彼の金
融操作は当時においては巨人の様な規模とみなされたスケ−ルで実行された。『南海泡沫
事件』の勃発に続く危機の時期、大衆は一度ならずギデオンを白眼視した。しかし彼は岩
の如く確固としており、スフィンクスの如く頑固だった。当時彼はロバ−ト・ウオ ルポ−
ルに対してその私的関心についてばかりでなく宰相としてのウオ ルポ−ルを物質的に援助
したり世論が沈静化し、信頼をとり戻すのに寄与し、かうした事を通してかなりの援助を
行ったと言われている。」
 1745年「王位をねらふ者」チャ−リ−王子の指揮の下、スチュア−ト家が反乱を起
こし、「王位をねらふ者」の軍隊がロンドンまで迫った時、パニックが起きて大量の在庫
商品が売りに出された。サンプソン・ギデオンはそれらを最も多く買い取った。イギリス
政府公債は投げ売りされ、それらのうちのかなりの量がギデオンに買い占められた。ユダ
ヤ人と親密な著名な歴史家ジョン・フランシスはこの事に関し次の様に記している。
 「先程述べた大反乱の時代に、『王位をねらふ者』の成功に比例して公債の値が下って
行った。ある時期にはそれは非常に低価格になった。ギデオン氏は自分の可能なかぎりす
べての種類の公債を購入した。友人達はそれを容易ならざる事と見なして忠告し、親切に
も彼の没落を予言したが無駄であった。機敏なヘブライ人は答えた。『もし王位をねらう
者がロンドンにやってくれば彼は私の勘定を支払ふであらう。さもなければ私は大金持に
なるであらう。』
 我々は歴史的事実を承知している。ギデオンは莫大な財産を蓄積し、準男爵となり、そ
の子孫は時に貴族に加へられた。」
 ジョン・フランシスの記述からはユダヤ人達が十八世紀初頭より英国金融市場を支配し
てをり、ユダヤ人、サンプソン・ギデオンは十八世紀中葉に於て、約百年後にゴ−ルドス
ミス家、ロスチャイルド家、リカルド家によって演じられたのと同じ役割を演じていたと
いふ事実について知る事が出来る。1745年におけるイギリス政府の危機はユダヤ人集
団にとっては有利な商取引だったのである。ギデオンは1745年に自らの財産を二倍に
増やした。(『ユダヤはいかにして英国を金権支配国家に変えたか−歴史的探究−』歴史
修正研究所・刊)
 このギデオンは新約聖書の国際ギデオン協会のギデオンである。国際ギデオン協会は聖
書を無料で配っている。サンプソン・ギデオンはシナゴ−グへの出席をやめ、その息子を
英国国教会教徒として育てた。キリスト教徒になったふりをしていたが、彼はシナゴ−グ
への献金をやめず、ユダヤ人として死んだ。18世紀にサンプソン・ギデオンが演じた役
割を、19世紀にそっくりそのまま演じたのが、言わずもがなネイサン・ロスチャイルド
であった。つまり18世紀にはロスチャイルドならぬ、サンプソン・ギデオンの大英帝国
乗っ取りが喧伝されていたのである。
 このことはいったい何を意味しているのであろうか。サンプソン・ギデオンもロスチャ
イルドも、世界の真の支配者から目を逸らすために利用された、というのが筆者の結論で
ある。ギデオン家はポルトガル出身である。ロスチャイルド家はドイツのフランクフルト
出身であった。ヨ−ロッパ大陸から渡ってきたユダヤ人がイギリスに住み着き、イギリス
の金融を乗っ取った、というのが双方に共通した命題である。サンプソン・ギデオンもロ
スチャイルドも共に、我々陰謀研究家の目をイギリスからヨ−ロッパ大陸に逸らせる役割
を演じていることに注意しなければならない。つまり、真の黒幕はヨ−ロッパ大陸から渡
ってきたのではなく、最初からイギリスに存在していた、ということになる。
 これと同様に、陰謀研究家がはまっているイルミナティについても、我々は注意しなけ
ればならない。イルミナティは1776年にドイツで結成された。イルミナティはフラン
ス革命を背後から操った秘密結社、世界的陰謀の総基締めといわれている。イルミナティ
とロスチャイルドの関係も取り沙汰されている。ここでイルミナティが果たしている役割
が、ロスチャイルドと同じものであることにお気付きだろうか。イルミナティもやはり、
我々の目をイギリスから逸らす働きをしている。「イギリス・フリーメーソンは大陸系フ
リーメーソンと異なり、政治的陰謀とは無縁である」、というのがイギリス・フリーメー
ソンの主張である。これはつまり、イルミナティ以前に陰謀は存在していて、ヨ−ロッパ
大陸ではなくイギリスがその中心であった、ということを意味している。
 それでは、世界の真の支配者とはいったい誰なのであろうか。これは非常に難しい問題
である。筆者自身もその答えの持ち合わせはない。しかしヒントはある。陰謀は10、1
1世紀の修道院改革、特にシト−会と密接な関係があり、1066年のノルマンディ−公
ウィリアムによるイングランド征服以来、イギリスが陰謀の中心であったということであ
る。
 ネイサン・ロスチャイルドは1836年に死んだ。ヨ−ロッパの諸国からぞくぞくと大
使たちがネイサンの葬儀に参列し、国葬並みの一大セレモニ−となった。当時、すべての
ロンドン市民が見物に集まったといわれた。ネイサンは急病になり、毒殺を思わせる発作
に見舞われた。医者たちは原因を突き止めることが出来ず、彼は数時間後に死亡した。誰
がこの偉大なユダヤ王を毒殺したのであろうか。それともこれはある種の魔術の儀式(死
んだと見せかけて、実は生きていた)だったのであろうか。ネイサンの死後、ロスチャイ
ルド家の統括権は彼の弟ジェ−ムズに移った。このジェ−ムズがフランスに開いたのが、
ロスチャイルド商会(フランス語読みでロチルド商会)であった。
 簡単に済ますといったが、少し説明が長くなった。これで、ロスチャイルド商会とロス
チルド(ロチルド)商会の解説にかえさせて頂く。次はウェストミンスタ−銀行について
の説明である。五大商業銀行の一つ、ウェストミンスタ−銀行の正式名はナショナル・ウ
ェストミンスタ−銀行で、イギリスの商業銀行の第2位。創業メンバ−の一人デヴィッド
・サロモンズは、ネイサン・ロスチャイルドの妻の姪と結婚している。重役陣には、ロス
チャイルド閨閥の名が認められる。
 次はモルガン・グレンフェル商会である。モルガン・グレンフェル創業者のエドワ−ド
・グレンフェル(系図10)が、J・P・モルガンと手を組み、イギリスで創設したのが
モルガン・グレンフェル商会であった。ロンドンのJ・S・モルガン商会が1910年に
改組してできたのが、モルガン・グレンフェル商会である。
 次にシュレ−ダ−銀行について。シュロ−ダ−銀行は、ドイツのシュレ−ダ−家がイギ
リスに渡って分家をつくり、ナチス時代を経て分家の方が銀行家として生き残ったため、
ウオ −ル街で英語読みのシュロ−ダ−銀行として知られるようになった。
 ワ−バ−グ一族と同じく、フォン・シュロ−ダ−家はドイツのハンブルグで銀行業を開
始した。クルト・フォン・シュロ−ダ−は1889年に生まれ、1788年創設のケルン
銀行及びJ・H・シュタイン商会のパ−トナ−であった。1933年にナチスが権力を握
ったのち、シュロ−ダ−は国際決済銀行のドイツ代表に指名された。クルト・フォン・シ
ュロ−ダ−男爵はテュッセン男爵と共に、ナチスの財政支援を行った。シュロ−ダ−男爵
は、ITT(国際電信電話会社)の資金をヒムラ−のSS(ナチス親衛隊)に集中させる
パイプ役を演じた。
 1938年にロンドンのシュロ−ダ−銀行は、大英帝国におけるドイツの金融代理店と
なった。シュロ−ダ−のニューヨーク支店は、1936年にロックフェラ−家と共にウオ
−ル街48番地にシュロ−ダ−−ロックフェラ−社として合併された。シュロ−ダ−のカ
−ルトン・P・フラ−がこの会社の社長となり、アヴェリ−・ロックフェラ−が副社長と
なった。彼は何年にもわたって、J・ヘンリ−・シュロ−ダ−(イギリス家)の陰のパ−
トナ−であり、ベクテル社という建設会社を設立した。この会社の社員は、レ−ガン政権
で国防長官(ワインバ−ガ−)及び国務長官(シュルツ)として指導的な役割を演じた。

 ヒトラ−は、1933年1月4日にケルンのシュロ−ダ−男爵邸での会談に招待された
。2時間の会談の終わりに、前首相パ−ペンは両者が対等の地位を占めるヒトラ−=パ−
ペン内閣を提案した。ドイツの指導的な産業資本家や銀行家たちは、ヒットラ−に資金援
助することにした。1933年1月30日、ヒトラ−はドイツ首相に就任した。1933
年1月4日の会議に出席したのは、ニューヨークの法律事務所サリヴァン・アンド・クロ
ムウェルのジョン・フォスタ−・ダレス(1888〜1959)とアレン・W・ダレス(
1893〜1969、CIAの前身OSSのベルン事務所長)のダレス兄弟で、彼らはシ
ュロ−ダ−銀行を代表していた。ダレス兄弟はしばしば重要な会議に姿を現した。彼らは
、パリ和平会議(1919)では合衆国を代表した。ジョン・フォスタ−・ダレスはアイ
ゼンハワ−政権の国務長官として在職中に亡くなるが、一方のアレン・ダレスはCIA長
官を長年務めた。アレン・ダレスは後にJ・ヘンリ−・シュロ−ダ−商会の重役になった
。彼もJ・ヘンリ−・シュロ−ダ−も、親ヒトラ−を疑われることはなかった。ヒトラ−
をドイツの首相にして、第二次世界大戦を始めさせることが、国際的銀行家の目的であっ
た。
 一方、イギリスにあってナチスにイングランド銀行の支持を与えたのが、前出のイング
ランド銀行総裁モンタギュ−・ノ−マンである。ナチスの哲学者アルフレッド・ロ−ゼン
ベルクはロンドンで、ノ−マンと話をした後、シュロ−ダ−銀行の常務取締役であるF・
C・ティアクスと会っている。ティアクスはイングランド銀行理事でもある。
 「1934年の初頭、シティ−の金融家たちの選ばれた一団が、窓のない壁の後ろのノ
−マンの部屋に集まった。それは、ラザ−ル・ブラザ−ズのパ−トナ−のサ−・ロバ−ト
・キンダ−スレイ、チャ−ルズ・ハンブロ−、F・C・ティアクス、サ−・ヨシア・スタ
ンプの面々であった。ノ−マン総裁は、ヨ−ロッパの政治情勢について話した。ナチ・ド
イツという名の新しい勢力が、大きな『安定した戦力』として定着していた。ノ−マンは
、共同作業者たちにヨ−ロッパの財政支援計画にヒットラ−を加えるよう助言した。反対
する者はだれもいなかった」(『民間が所有する中央銀行』)
 J・ヘンリ−・シュロ−ダ−はイギリスのイギリス−ドイツ友愛会のメンバ−であり、
友愛会に資金をつぎ込んだ。その結果、ヒトラ−は、多くの著名な政治家や金融業者から
なる大きな親ドイツの第五列をイギリスに有すると確信したのである。しかし事実は、ネ
ヴィル・チェンバレンの融和政策も、ウィンストン・チャ−チルの戦争政策も、共に大衆
を欺く派手な演技に過ぎなかった。日本の憲政会と政友会、アメリカの民主党と共和党、
イギリスの戦争党と融和党の対立等、すべて大衆用の見世物であった。こうして国際政治
をコントロ−ルして、所期の目的を達成するのが、秘密結社の心理操作技術なのである。

 次に香港上海銀行である。香港上海銀行はサッス−ン家が設立したものである。サッス
−ン財閥は、18世紀に中東のメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、トルコ治
世下にあって財務大臣を務めるほどの政商となっていた。1792年にこの一族の子供と
して生まれたデヴィッド・サッス−ンは、イラクのバグダッドで活動していたが、183
2年にインドのボンベイに移住した。サッス−ン一族はアヘンの利権を狙ってインドに移
住したのである。
 サッス−ン一族は、イギリスと清朝中国のアヘン戦争によって財産を膨らませ、インド
から香港・上海への本格的な進出を始めた。1864年、サッス−ン家がリ−ダ−となっ
て香港上海銀行が設立された。初代デヴィッド・サッス−ンの五男ア−サ−が、香港上海
銀行で最大株主となった。デヴィッドの孫エドワ−ド・サッス−ンは、ジェ−ムズ・ロス
チャイルドの孫娘アリ−ン・ロスチャイルドと結婚している。別の孫ヨ−ゼフ・サッス−
ンは、グンツブルグ男爵の娘と結婚している。系図12を見て欲しい。グンツブルグ家は
「ロシアのロスチャイルド」として最高の評価を得てきた。一家は15世紀の古い時代ま
で家系をたどることができる。
 1833年にキエフ地方のユダヤ人家庭に生まれたホレス・グンツブルグは、71年に
男爵位を授けられた。その3年後に、ロシアの鉄道融資に多大な貢献をしたその父親ヨ−
ゼフにも男爵位が与えられた。以後、アレクサンドル2世によって一家には代々この爵位
が認められるようになった。ペテルブルグに設立されたグンツブルグ銀行が、ロシア全土
の金融中枢として機能し、鉄道ばかりでなくウラル、アルタイ、シベリアに及ぶ金鉱開発
の総本山となっていった。
 『高橋是清自伝』の中に、高橋是清がパリで公債を募集した際に、フランス工商銀行の
重役ジャック・ド・グンツブルグ男爵の便宜を受けたことが記されているが、この男爵は
恐らく先のグンツブルグ一族であろう。ドイツでの公債募集はハンブルグのマックス・ワ
−バ−グが引き受けた。ロンドンで公債募集に便宜を図ったのが、サ−・ア−ネスト・カ
ッセル、ロ−ド・ロスチャイルド、アルフレッド・ロスチャイルドである。サ−・ア−ネ
スト・カッセルはドイツからイギリスへ移民し、後のエドワ−ド7世であるウェ−ルズ皇
太子の私設銀行家となった。カッセルの孫娘はマウントバッテン卿と結婚し、カッセル家
と現在の英国王室を直接の姻戚関係にした。シフの親友でもあるカッセルは、機関銃のマ
クシムを兵器商ヴィッカ−スに合併させた。アルフレッド・ロスチャイルドはネイサン・
ロスチャイルドの長男ライオネル・ロスチャイルドの子供である。
 最後に不明のまま残ったのが、パ−ス銀行であった。現在、イギリスにこの名の銀行は
存在していないので、合併したか名前を変えて営業していると思われる。目下、鋭意調査
中である。

 連邦準備制度に関連して、一人興味深い人物を取り上げてこの章の締め括りとしたい。
 1912年、下院銀行通貨委員会の小委員会であるプジョ−委員会が開かれた。プジョ
−委員会の特別弁護人としてサミュエル・アンタ−マイアは独演公聴会を開いた。彼は、
ウッドロ−・ウィルソンの大統領キャンペ−ン資金のおもな寄付者の一人であり、ニュー
ヨークでもっとも富裕な企業弁護士の一人でもあった。彼は、1926年の『紳士録』の
自叙伝のなかで、かつて単一の法律取引から77万5000ドル受け取ったことがあると
述べている。それは、1億ドルの市場価値のある、ユタ銅会社とボストン・コンソリデイ
テッド・アンド・ネバダ社の合併を成功させたことによるものであった。
 結局、プジョ−委員会の茶番劇は、通貨創造者たちに対する周知の反対者は、ただの一
人も出席もしくは証言を許されることなく終了した。マネ−・トラストに反対しているラ
フォレット上院議員とチャ−ルズ・オ−ガスタス・リンドバ−グ下院議員は決してあらわ
れることはなかった。
 公聴会の最後で銀行家たちとその系列新聞は、独占を打破する唯一の方法は現在議会に
提出されている銀行と通貨に関する法案、すなわち一年後に連邦準備法として成立するこ
とになる法案を立法化することだと主張した。アンタ−マイア−の名声と権力は、彼の死
亡記事がニューヨーク・タイムズ紙の第一面に六段を要したという事実が物語っている。
『紳士録』の彼のリストは、過去13年間で最も長かった。
 筆者がここで特にアンタ−マイアを取り上げたのは、アンタ−マイアがアメリカのサム
の息子殺人事件と関係があるからに他ならない。サムの息子・カルト集団は、アンタ−マ
イア公園の森の中にある小屋で集会を開いていた。
 「水路を一マイル程北へ行くと、アンタ−マイア公園の敷地の一部に達する。1903
年に有名なサタニスト(悪魔崇拝者)で資産家のサミュエル・アンタ−マイアはこの土地
を購入すると、イギリスから石や彫刻を輸入し公園を飾りたてた」(有賀裕士著『悪魔の
生贄殺人』第一企画出版)
 中央銀行と悪魔崇拝とは奇妙な取り合わせだが、金貸しと魔術はどちらもユダヤ人の専
売特許であることを考えれば、不思議はないのかもしれない。



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