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1. 昭和期の諮詢機関についての当方の事実誤認
たこ:Ddog氏は、「開戦直前明治の枢密院(明治維新の功臣で構成)は西園寺公望だけであった」とされています。文意が明瞭ではありませんが、「諮詢機関が多数ありは、正確ではない」は明確に事実に反します。Ddog:輔弼する枢密院の機能が著しく機能が低下していたことを主張したかったが、原文にも書いたが、記憶に頼り資料を検索しなかった。確かに、「諮詢機関が多数ありは、正確ではない」は明確に事実に反することを認めます。
2.大権問題についての、たこ氏の事実誤認
たこ;「大権」は、天皇の憲法上の権能に関する当時の呼称です。国務大臣を含む官吏の任免など、すべてこの大権によりますから、極めて頻繁に発動されています。
Ddog:大日本帝国憲法10条「天皇ハ文武官ヲ任免ス」とあるが、明治22年の帝国憲法発布より、総理大臣の推薦によらないで勝手に平大臣を任意に罷免したり、任用したことは一度もない。田中内閣についての顛末は3で。憲法上大権の発動は可能であったが、立憲政治の原則として、望ましくないとしてまして、総理大臣にたいしても、発動されなかった。
宇垣内閣の組閣時、(陸軍が大臣を推薦せず、内閣が流れてしまった。)陸軍に対し大権を発動し組閣するよう可能であったが、天皇は発動しなかった。昭和14年、日独伊三国同盟の交渉の折、陸軍の意をうけ、独伊が第三国と交戦時日本が参戦することを表明し、本国の訓令なしに重要な決定をし、統帥権の逸脱と、板垣陸相を激しく叱責されたが、大権を行使されなかった。そのうえ、突如独ソ不可侵条約が結ばれ、一時同盟が棚上げとなり、天皇のお言葉は完全に無視されてしまった。
ここで、立憲君主は、ただ悪く表現するとメクラバンを押すだけの役割であったのであろうか。
立憲君主制は、「君臨すれども統治せず」ではあるが、具体的に理解するには、難しい。
天皇は実際には、天皇の意思の現われとして、「御内意」とか「ご希望」をしばしば述べている。木戸日記等の資料でもそのことは確認できる。
しかし、この「御内意」とか「ご希望」と、それぞれの機関が上奏し裁可された、正規の命令「勅令」とは区別されなくてはいけない。
「勅令」は絶対命令であるが、「ご内意」「ご希望」は御希望であって、ご希望が受け入れられる、、無視される場合も多かった。
議会が可決すれば、御前会議ですら、天皇に拒否権がないのである。
事例1ご希望がかなわなかった代表的例として、昭和十三年日華事変の拡大で、武官長に対し、「外国新聞の記者を官邸に呼び、杉山陸軍大臣自ら、帝国に領土的野心がないことをはっきり言ったらどうか」とのご希望を述べたが、完全に無視された。しかもこれは憲法上の命令違犯ではなかった。なんの制約もないご希望である。
事例2五.一五事件で、暗殺された犬養首相の後継について、天皇は、西園寺に七項目の御希望を述べた。
1首相は人格立派なるもの
2現在の弊を改善し陸海軍の軍規を振粛するは、一に首相の人格如何による。
3協力内閣単独内閣はあえてとうところにあらず。
4ファッショに近き者は絶対に不可なり。
5憲法は擁護せざるべからず。しからざれば明治天皇に相済まず。
6外交は国際平和を基礎とし、国際関係の円滑を務ること。
7事務官と政務官の区別を明らかにし、振粛を実行すべし。
以上のような、人選をしてほしいと、希望を述べたが、誰をどうしろと命令していない。西園寺は多くの候補者の中から斎藤海軍大臣を奏身請した。ただこれがどれだけの影響力政治力があったかは定かでない。
事例3、今の今上天皇、皇太子明仁親王がお生れになった時に、新聞が恩赦を発表した、天皇は天皇の大権に属することで、自分はなにも承知していない、としたが、恩赦は実行された。天皇の希望な無視された。
事例4広田外相のときに、日本文化PRセンターを欧米各国に設立する希望を述べたが、広田外相が動いても、予算は議会で可決されなければなにも動かず、天皇の希望は、まったく無視された。専制君主であるなら、そんなことを許されない。北朝鮮の例をみれば、わかりやすい、将軍さまのご意向を無視することは死を意味する。それゆえ、天皇の「ご内意」「ご希望」の法的根拠と実効性と、勅令を区別すべきである。
事例5 昭和8年熱河作戦のおり、中国との衝突につながるおそれがあるので、奈良侍従武官長に直接中止がを命ずるようとした。
「軍の態度に疑念あり。日支両国はまさに平和をもって相処すべく、兵威をもって相見るべきでなく、兵をきわめ、武を汚すことは立国のみちでない。統帥最高命令により、これを中止させることはできないか」鈴木侍従長も同様な記録をのこしているが、「国策の仕事は内閣の仕事」で天皇が議会で信任されている内閣の国策の決定を覆せば、どのような「紛擾(ふんじょう)」をおこすか予測がつかない。もし強行すれば、「立憲君主」といえなくなるだろうと、断念した。立憲君主を自己規定していた天皇には、断念せざるをえなかった。
もし、立憲君主制を踏み出し、天皇が内閣の決議を覆したと考えた場合、それに続く日華事変も勃発しなかったかもしれない。そして、太平洋戦争も突入しなかったかもしれない。しかし、二二六事件を引き起こしたその首謀者磯辺朝一ら、青年将校たちが、二二六事件に代る行動を起こしていたかもしれない。彼らが勝手に「体して」いた「大御心」と天皇の実際の意思が大きく乖離することに気付いた場合、秩父宮を担ぎ出し、昭和天皇を退位させられていたかもしれない。それは歴史のifにすぎない。
たこ:もっとも、これは事実上の決定権を意味しませんから、その所在は検証を要します。 そして、私見は「天皇が政策決定に関わることがないと、推測されるたこ説」ではな く、天皇は主体的に政策決定に関与しているとしております。
Ddog:君臨すれど統治せず、立憲君主制の原則を天皇は、常に自己規定していた。天皇自ら、「天皇機関説」のもっとも最大の信者であったと、山本七平「昭和天皇の研究」祥伝社刊は分析している。たこ氏は「大権」「勅令」と「御意見」「御内意」との明確な区分と理解に欠けているため「天皇は主体的に政策決定に関与しているとしております。」と断言したのであろう。
3. 田中義一内閣の総辞職についてのたこ氏の事実誤認
たこ:児島襄の文を読むと、「責任ヲ明確ニ取ルニアラザレバ許シ難キ」との発
言によって
内閣を総辞職に追い込んでいますから、・・・
Ddog:「責任ヲ明確ニ取ルニアラザレバ許シ難キ」と田中首相に陸軍に対し徹底的に調査するよう「御意見」を伝えた。田中首相も聖旨にそうことを奉答した。ところが、翌日白川陸相が、調査したところ、幸い陸軍内に犯人はおりません、ただ警備の責任をとって、関東軍司令長官村岡中将を「依願予備役」、(首謀者である)河本大佐の「停職」、水町少将と参謀長の斎藤中将の「譴責」をといった、田中首相に希望を出されたのと、白川中将陸相の天皇の意思をまったく無視し、翌日奏上したことに激怒された。当然白川陸相にその場で、「かつて、総理が上奏したことと違うではないか、それで軍規が維持できるのか(軍自ら部下の統制がとれていない)」と叱責された。鈴木侍従長に「総理の言葉は二度と聞きたくない」ともらし。鈴木侍従長は、田中総理に天皇に指示を「解セザルシカ、或イハ解セザル風ヲ装フテ白川陸相ニ勧メ」と問い、天皇の怒りをつたえ、田中首相も愕然となり、自ら総辞職したのであって。けっして天皇が罷免したのではない。 逆に天皇の意思が日常的に無視されることが多かったことをいみしする。天皇もここまで無視されたなら、立憲君主として激怒するのもあたりまえである。立憲君主は、正規の手続きを経て上奏されたものは、裁可するが、天皇が納得できないことに対して、不満を述べることはあっても、それは「勅命」「大権の発動」と区別されるべきだ。
4. 裕仁の「戦争反対」は明白であろう。
2. 3で取り上げた事例の外に、昭和十六年九月御前会議において、「よもの海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」明治天皇が37年に詠まれた歌.昭和天皇が御引用された.その他は、終始意見を述べられなかった。などの事例から、昭和天皇のど意思は明白であった。これを、天皇の保身の為の宣伝であると、近衛文麿のごとき亡国の輩と同じく保身したと、疑うようでは議論にならぬ。
5. 「教育係乃木将軍」
天皇の教育担当として、天皇が立憲君主を自己規定するに至った影響を与えたのが、人物が二人いる。明治九年にイギリス留学(専攻は化学)をし東宮ご学問所の副総裁であった杉浦重剛。倫理学、帝王倫理学を昭和天皇に教授。そして、興味深いのが歴史を担当したのが、白鳥庫吉教授。かれはあの戦後の歴史学によくも悪くも影響を及ぼした津田左右吉の師である。白鳥博士の歴史教育は皇国史観とかけ離れた合理的歴史教育を行った。神代史は神話であって歴史でない」と教育した。津田博士がはじめて天皇を象徴と規定した。この事実も知ってほしい。
6. 戦争の政策決定への積極的関与の「信憑性がある証拠の提出」たされた、近衛文麿内閣の総辞職と、東条内閣組閣について。昭和天皇の平和希求の態度とからめて説明。
Ddog:まず、たこ氏は東京裁判史観の持ち主であるので、東条英機即戦争推進派、近衛文麿は最後まで和平の道を探っていたとするのは、事実誤認である。近衛文麿こそ日本を対米英戦争においやった首班であろう。
昭和天皇は、近衛の親ファシズム的は態度、反米英思想の持ち主であことに、強い危惧を抱いていた。立憲君主であるので、当然内閣を承認したが、松岡洋介とともに、天皇が(2.の事例でもわかるが)危惧していた三国同盟を結び、立憲君主政治をないがしろにする幕府的組織体制翼賛会を結成したのは、近衛文麿内閣である。そして、軍部よりの暗殺を恐れるがため、軍部の走狗としての役割が大きかった。昭和十二年「大本営政府連絡会議」を立ち上げ、後の戦争指導会議であった。近衛はしかもこの会議で、天皇の発言を封じる「日本の憲法は天皇親政の建前」で、天皇は連絡完了の立会人にすぎないと、美濃部教授の天皇機関説以上の実質の機関説においやり、天皇の発言を封じた罪は重い。
たこ氏:(実際には雑多なソースからの造文)、流布されている東條内閣の成立についての描 写を挙げ(誤解を招く歴史記述の例示です)、それにコメントしてみたい。
(1941年9月から10月)
「9月6日の御前会議は、10月上旬までに対米交渉がまとまらない場合の対米(英・蘭 )開戦を決定した。10月に至って、なお対米交渉を継続しようとする近衛首相と、交渉打ち切りと開戦を主張する東條陸相が衝突し、近衛内閣は閣内不統一のため総辞職 した。木戸内大臣は、9月6日の御前会議の決定を白紙還元することを条件として東條 を総理に推薦し、10月18日、東條内閣が成立した。」ここでは、東條内閣の成立は、木戸の意向に基づくとされている。現実にも、木戸が 東條を推薦したことは事実らしい。しかし、この説明から、東條内閣の成立が裕仁の 意向と関係ないとするなら、(説明文の作者が意図的に誘導した)誤解である。
Ddog:当時木戸と近衛の緊張関係を説明せねばならない。近衛は、度々天皇に木戸の罷免を内奏している。天皇はこれを拒否し続ける。天皇も立憲君主制をないがしろにし、対英米戦争に邁進する近衛をなんとかしたいと思っていたと推測されるのも事実である。木戸も同意見であったのは認めるところである。
そこで、軍部を抑える為に、天皇は「御内意」を木戸内大臣に伝えたかどうかは確定できないが、立憲君主の自己規定をおく昭和天皇が、帝国憲法を無視するような行動は、とらなかったといえよう。木戸や鈴木侍従長奈良武官主導かは証明できないが、東条は、主戦派といっても彼は極めて官僚てきな軍人で、近衛とちがい、天皇をないがしろにしないであろう期待があった。
以下
引用部分
http://web.sfc.keio.ac.jp/~s01428ms/text/daitoua-1941.htm
大東亞戦争論:二六〇一/1941年大日本帝國政府
7月2日の『情勢の推移に伴う帝國國策綱領』において、「自存自衛の基礎を確立するため、南方進出に歩を勧め、なお情勢の推移に応じ北方問題を解決す。」との文章がある。これについては軍務局の石井秋穂中佐が後日記した『石井回想録』にて「軽率にソ連に飛びかかるまい、という主義を明らかにしたまでのもの。」と述べている。つまり、米國と事を交えようとしたのではなく、ソ連を主敵として北方に進撃しようとする陸軍の強行派を牽制するものに過ぎなかったということだ。さらに「幕僚達の大半は南部仏印進駐を南方進出の限度とするという認識であった。」とし、現在いわれているような帝國主義・膨張主義によって南部仏印進駐を行ったのではないことがわかる。そして『國策綱領』はさらに「対英米戦を辞せず。」と続くが、これについては「景気付けのようなものだった」としている。戦争指導班も「仏印進駐に止まる限り、禁輸なしと判断す。」としていた。要は、帝國は日米決戦を行う気はなかったのだ。しかし南部仏印進駐によって、合衆國による戦略物資の全面禁輸がおこなわれた。帝國の見通しはまことに甘かったといえる。
この、帝國にとって予想外だった対日全面禁輸を受けて、帝國は対米決戦を本格的に考慮し始める。この時記された、前述の軍務局石井秋穂中佐による『南方戦開始案』には、「帝國ハ直チニ開戦ヲ決意シ作戦準備ヲ進ムベシ。」とある。これについて「今度は現実の問題であり、白黒を明らかにせざるを得ない隅に追いつめられた感じでいっぱいである。」と後に日記に記している。
日米決戦を覚悟してからも、帝國はいかなる外交スタンスをとればいいのか測り兼ねていた。戦争指導班は「南進断行必至なるも之が決意は困難なる見通し多し」としていたものの、仮想的の亞米利加に戦争の意図があるのか、また味方である三國同盟の國際真偽はどの程度のものなのか、そうした事を全く把握できていなかった。
そうした状況で、海軍は『帝國國策遂行方針』にて「戦争を決意することなく戦争準備を進め、この間外交を行い、〈十月中旬に至るも〉外交打開の途なきにおいては実力を発動(〈〉は補足)」という、この状況では極めて妥当な戦略を決定した。
9月6日の御前会議にて、昭和帝は戦争必至の現状を憂い「四方の海 皆同胞と 思ふ世に などあだ波の 立ち騒ぐらむ」と明治帝による歌を詠んだ。これを受け、軍務局の武藤局長は「此れは何がなんでも外交を妥結せよ、との仰せだ。一つ外交をやらなければならない。」とし、石井秋穂中佐も「もはや対英米戦争はありえず、仏印の兵力を北方に向けて重慶攻撃という事態になろう、作戦当局はぬかりの無いよう。」とした。しかし軍務局の服部作戦課長は「今の内にやっておかぬと動けなくなる。陸軍大臣は毎日毎夜でも参内して天皇陛下に開戦の必要を上奏することだ。」とし、結局は天皇の意思に反すると知りながらも、帝國上層部は差し迫った状況に「現実的」に対応せざるを得なかった。
この頃、及川海相と東条英機陸相、武藤章陸軍軍務局長と岡海軍軍務局長など、陸海軍の様々なレヴェルで、何とか避戦しようとして、互いにそのことを言い出すよう主張することがあったが、両者ともに面子がつぶれることを恐れて結局は何も出来ずにいた。
軍部の設定していた「政戦の転機」である10月15日を経ても状況は好転せず、日本はいよいよ戦争へ向かって突き進む。
10月20日に内大臣である木戸幸一は近衛文麿を更迭し、東条英機を首相に据えた。これは、優柔不断の近衛内閣ではなく主戦派と目された東条を首相にすることで主戦派を押さえ、戦争回避を成そうとしたためである。
このように戦争回避を常に検討し、努力してきた大日本帝國だが、結局11月26日のハル・ノートによって日米決戦を余儀なくされる。
以上引用。
たこ:天皇が主体的に政策に関与していることは、伝えられる裕仁発言の断片からも明白で す。もちろん、伝えられる発言は、裕仁が平和主義者であったことをアピールし、軍 部を抑えようとしたものに限られます。これと現実の歴史の推移を照らし合わせると 、裕仁は、戦争の抑制のみならず、その積極的な推進にも、政策を決定すべき権力者 のひとりとして関与していることは明白です。
Ddog:たこ氏は東条が開戦論者で、東条を起用する天皇は、積極的な開戦論者であると推理した。そして、天皇の意思が明治天皇より避戦にある数々の証言をことごとく無視するか知らないとして、しかもその多くは、天皇を統治の道具にしか思わないGHQと吉田茂の宣伝、空想にすぎないとしている。しかし、数々の証言歴史的推移、天皇の人格形成の推移、すべてを検証すれば、情報操作であると立証できない。それどころか、積極的アジアの侵略者であること弾劾することは不可能である。たこ氏はじめ、多くの天皇責任論者は、「天皇の御内意」「御希望」と、「勅令」「大権の発動」の区別が認識できないために、昭和天皇の責任について言及されたわけです。
歴史的推移を書き込むのも疲れるので、今日のレスは主に、山本七平「昭和天皇の研究」祥伝社刊を参考にしたので、反論したくば、一度熟読されたらいい。
ついでに、参考資料をつけておく。
http://www.glocomnet.or.jp/okazaki-inst/hyakuisan52.html
土壇場の日米交渉】
戦争を欲したルーズベルト
(産経新聞2002年6月1日掲載)
真珠湾攻撃は、ルーズベルト米大統領が仕掛けた罠(わな)に日本が嵌(は)まったものかどうか、今でも日米では、この論争が繰り返し行われています。
事前に知っていたかどうかなど細かい議論はさておき、それはルーズベルトが望んでいたものだったことは間違いありません。
キッシンジャーは『外交』の中で、ルーズベルトがアメリカをいかに巧みに参戦に持っていき、その結果自由世界を救ったかを、讃嘆の眼(まなこ)で観察し、ルーズベルトは、ハル・ノートが出た時、日本がこれを受諾する可能性がないと知っていたに違いないと書いています。そして、もし日本が攻撃を東南アジアだけに限定し、ヒトラーが対米宣戦をしなければ、ルーズベルトの仕事はもっと難しかっただろうが、結局は何とかして参戦しただろうと言っています。
一九三七年支那事変勃発(ぼっぱつ)の三カ月後、ルーズベルトは、いわゆる隔離演説をします。当時の米国の深い孤立主義の中で、用語には注意して、今や世界に蔓延(まんえん)している無法という疫病を隔離するという言い方をしていますが、その後のオフレコ発言等と併せて今読み直してみると、日独伊等に何らかの圧迫を加える意図を明らかにし、国民に対して来(きた)るべき戦争に備える覚悟を要求している演説です。
≪日本追い込む米国≫
ルーズベルトは、その後世論の啓発につとめ、三九年には世論の圧力を受けた形で、一月には航空機等の対日禁輸、七月には日米通商航海条約の廃棄通告までいきました。石油禁輸をすれば、日本は支那事変を続けられないことは、その頃から指摘されていましたが、これが四一年に真珠湾攻撃に日本を追い込む切り札となります。
米国世論も徐々に変わり、四〇年五月には、まだ国民の64%がナチ撲滅(ぼくめつ)より平和が大事だと思っていたのに、真珠湾攻撃直前には、32%と、完全に賛否が逆転していました。
ただ、それならば、ルーズベルトはどうせ戦争に持ち込む気だったのだから、何をやっても無駄だったと考えるのは単純に過ぎます。
ルーズベルトが内心何を考えていようとも、独裁者ではないのですから、内外の情勢、国民世論の制約があります。たとえば、スペインのファシスト政権は第二次大戦直後の危機的な時期を生き延び、冷戦のお陰で同盟国扱いとなります。ソ連はバルト三国とポーランドの半分を併せ、フィンランドを侵略して国際連盟から追放されますが、米国との衝突を避けつつ、三十六年後には、ヘルシンキ宣言で国境線の現状維持を認められるところまで漕ぎ着けています。
日本には、真珠湾攻撃を避ける方法があったでしょうか。一つの機会は、米国の民間宗教団体が斡旋(あっせん)した四一年四月の日米了解案です。この案に政府 、統帥部両方の全員が賛成したにもかかわらず、ヨーロッパから帰った松岡洋右が、これを潰(つぶ)した経緯は、これも言うのも恥ずかしいような松岡の個人的こだわりでした。
松岡洋右という人は、国際政治の判断の粗雑さからいっても、その性格の殆(あや)うさからいっても、その責任を問うのに価(あたい)しない低レベルの人物です。
むしろ、こんな人間を国際連盟脱退以来、虚名を博しているという理由で外相に起用し、しかもそれをコントロールもしない近衛文麿の責任が問われるべきでしょう。
しかしこの調停案は、ハル米国務長官が日本側の主張ばかり取り入れているのに失望したといいつつも交渉の緒口(いとぐち)とすることを了承したもので、米国側から抜本的な修正案が出ることは必至で、当時の日米両国の事務当局の意見の相違を考えると、とうてい交渉でまとまるようなものではありませんでした。
≪潰れた日米トップ会談≫
唯一のチャンスは近衛・ルーズベルト会談だったように思います。近衛は、グルー駐日米大使に対して、ルーズベルトに会えさえすれば、自分は彼が拒否できない提案を持っている、合意が成立すれば、自分は天皇陛下にお願いして陸軍に命令していただくつもりだ、と知日派のドーマンを通じて洩(も)らしています。
提案の内容はわかりませんが、それは当然、中国本土からの撤兵を中心とする提案でしょう。陸軍大臣は東条英機でしたが、国威の発揚とか抽象的な理念に酔う人ではなく、詔勅が出れば、これを実施させるのには一番適任だったかもしれません。
しかし、この提案は、まず事務的に話を詰めてからという、ホーンベックなどの国務省の意見で潰(つぶ)れます。撤兵などということは、詔勅なしで各省の稟議(りんぎ)でできるはずもないことですから、事務的になると交渉成功の可能性はなく、戦争しかありません。
その後双方が考えた暫定案は、戦争を数カ月先延ばしにしただけでしょう。ちょうどドイツ軍の前進がモスクワ前面で阻(はば)まれた時なので、日本が政策を転換するチャンスだったという説もありますが、スターリングラードの破局まで、あと一年もあり、皆春季攻勢に期待していたのだから駄目でしょう。
あとは、どうせ戦争しかないなら、真珠湾攻撃などせずに、もう少し賢い方法がなかったかという日本側の戦略の問題だけしかありませんでした。
土壇場の日米交渉】
戦争を欲したルーズベルト
(産経新聞2002年6月1日掲載)
真珠湾攻撃は、ルーズベルト米大統領が仕掛けた罠(わな)に日本が嵌(は)まったものかどうか、今でも日米では、この論争が繰り返し行われています。
事前に知っていたかどうかなど細かい議論はさておき、それはルーズベルトが望んでいたものだったことは間違いありません。
キッシンジャーは『外交』の中で、ルーズベルトがアメリカをいかに巧みに参戦に持っていき、その結果自由世界を救ったかを、讃嘆の眼(まなこ)で観察し、ルーズベルトは、ハル・ノートが出た時、日本がこれを受諾する可能性がないと知っていたに違いないと書いています。そして、もし日本が攻撃を東南アジアだけに限定し、ヒトラーが対米宣戦をしなければ、ルーズベルトの仕事はもっと難しかっただろうが、結局は何とかして参戦しただろうと言っています。
一九三七年支那事変勃発(ぼっぱつ)の三カ月後、ルーズベルトは、いわゆる隔離演説をします。当時の米国の深い孤立主義の中で、用語には注意して、今や世界に蔓延(まんえん)している無法という疫病を隔離するという言い方をしていますが、その後のオフレコ発言等と併せて今読み直してみると、日独伊等に何らかの圧迫を加える意図を明らかにし、国民に対して来(きた)るべき戦争に備える覚悟を要求している演説です。
≪日本追い込む米国≫
ルーズベルトは、その後世論の啓発につとめ、三九年には世論の圧力を受けた形で、一月には航空機等の対日禁輸、七月には日米通商航海条約の廃棄通告までいきました。石油禁輸をすれば、日本は支那事変を続けられないことは、その頃から指摘されていましたが、これが四一年に真珠湾攻撃に日本を追い込む切り札となります。
米国世論も徐々に変わり、四〇年五月には、まだ国民の64%がナチ撲滅(ぼくめつ)より平和が大事だと思っていたのに、真珠湾攻撃直前には、32%と、完全に賛否が逆転していました。
ただ、それならば、ルーズベルトはどうせ戦争に持ち込む気だったのだから、何をやっても無駄だったと考えるのは単純に過ぎます。
ルーズベルトが内心何を考えていようとも、独裁者ではないのですから、内外の情勢、国民世論の制約があります。たとえば、スペインのファシスト政権は第二次大戦直後の危機的な時期を生き延び、冷戦のお陰で同盟国扱いとなります。ソ連はバルト三国とポーランドの半分を併せ、フィンランドを侵略して国際連盟から追放されますが、米国との衝突を避けつつ、三十六年後には、ヘルシンキ宣言で国境線の現状維持を認められるところまで漕ぎ着けています。
日本には、真珠湾攻撃を避ける方法があったでしょうか。一つの機会は、米国の民間宗教団体が斡旋(あっせん)した四一年四月の日米了解案です。この案に政府、統帥部両方の全員が賛成したにもかかわらず、ヨーロッパから帰った松岡洋右が、これを潰(つぶ)した経緯は、これも言うのも恥ずかしいような松岡の個人的こだわりでした。
松岡洋右という人は、国際政治の判断の粗雑さからいっても、その性格の殆(あや)うさからいっても、その責任を問うのに価(あたい)しない低レベルの人物です。
むしろ、こんな人間を国際連盟脱退以来、虚名を博しているという理由で外相に起用し、しかもそれをコントロールもしない近衛文麿の責任が問われるべきでしょう。
しかしこの調停案は、ハル米国務長官が日本側の主張ばかり取り入れているのに失望したといいつつも交渉の緒口(いとぐち)とすることを了承したもので、米国側から抜本的な修正案が出ることは必至で、当時の日米両国の事務当局の意見の相違を考えると、とうてい交渉でまとまるようなものではありませんでした。
≪潰れた日米トップ会談≫
唯一のチャンスは近衛・ルーズベルト会談だったように思います。近衛は、グルー駐日米大使に対して、ルーズベルトに会えさえすれば、自分は彼が拒否できない提案を持っている、合意が成立すれば、自分は天皇陛下にお願いして陸軍に命令していただくつもりだ、と知日派のドーマンを通じて洩(も)らしています。
提案の内容はわかりませんが、それは当然、中国本土からの撤兵を中心とする提案でしょう。陸軍大臣は東条英機でしたが、国威の発揚とか抽象的な理念に酔う人ではなく、詔勅が出れば、これを実施させるのには一番適任だったかもしれません。
しかし、この提案は、まず事務的に話を詰めてからという、ホーンベックなどの国務省の意見で潰(つぶ)れます。撤兵などということは、詔勅なしで各省の稟議(りんぎ)でできるはずもないことですから、事務的になると交渉成功の可能性はなく、戦争しかありません。
その後双方が考えた暫定案は、戦争を数カ月先延ばしにしただけでしょう。ちょうどドイツ軍の前進がモスクワ前面で阻(はば)まれた時なので、日本が政策を転換するチャンスだったという説もありますが、スターリングラードの破局まで、あと一年もあり、皆春季攻勢に期待していたのだから駄目でしょう。
あとは、どうせ戦争しかないなら、真珠湾攻撃などせずに、もう少し賢い方法がなかったかという日本側の戦略の問題だけしかありませんでした。