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2003年6月20日 金曜日
◆人間の公共心を根こそぎにする憲法
民衆における公共性の欠如は、最近の(読売新聞とギャラップ社とが共同で行なった)世論調査に如実に現れている。それによれば、「最も信頼する公共機関は何か」という問いにたいしてアメリカ人が「教会」を挙げているのにたいし日本人は「新聞」と答えているのだ。新聞(をはじめとするマスメディア)によって国柄・国益がないがしろにされるという事態がこれだけ長きに及んでも、敗戦日本人はプレスから公共性についての教えを得んと構えている。「アメリカン・デモクラシーにおける第一権力はプレスである」(A・ド・トックヴィル)という指摘は日本の戦後民主主義においてはるかに正鵠を射たものになるといってよい。
敗戦日本人の教会は新聞である。そうであればこそ、憲法第二十条における「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という規定が(最高裁にあってすら)新聞好みに解釈され、公僕が玉串料を公費から払ったことすらが違憲とされるのだ。その国の歴史にあって最も長くかつ安定して持続してきた宗教の儀式によって政治に聖的な装いを与える、という常識が敗戦日本では通用しないのである。それが新聞の教戒によるというのなら、役所が新聞購読料を公費で払うことのほうが憲法違反だといいたくなるではないか。
政治の本質は公的な価値の実現であり、宗教の本質は聖的な価値の探究である。互いに支え合うべき両者を完全に分離すれば両者とも倒れる。そのことから何が起こるか。歴史を物語として構成するという人類の英知が失われる。なぜといって、歴史物語は価値への志向なしには紡ぎえないものだからである。いわゆる教科書問題が持ち上がらざるをえないのは、こうした価値観の放螂によって歴史観や国家観を破壊するという経緯のなかに戦後教育があったからにほかならない。慰安婦の強制連行があったかなかったかということ以上に問題なのは、その確たる証拠がまだ挙げられていないにもかかわらず、強制連行があったと思い込んでしまう、もしくはそう思うことを欲する、のはなぜかということである。自国の歴史の流れに確信を持ちたくないからである、それを持つための歴史物語を人々が共有したくないからである。
歴史に懐疑をさしはさむな、といっているのではない。懐疑を抱くにはそのための前提を選ばなければならず、論理的には無数にありうる前提のなかからどれを選ぶかに当たってどうしても確信が必要になる。そしてその確信は、おのれの私的な欲望のなかに胚胎するのではなく、その欲望を可能ならしめている歴史への信頼のなかから生まれてくるのである。日本国憲法の大罪は、日本の歴史の流れを切断して新生日本を創造せんとしたアメリカ占領軍の押しつけの意志のなかに、というよりそれを押し戴こうとした敗戦日本人の意志のなかにこそある。抜本的に改革さるべきは、歴史の流れを根本的に変更できる、また変更すべし、とする敗戦日本人の反歴史および脱歴史の姿勢そのものである。そうした姿勢の立脚点として利用されている日本国憲法はできるだけ早く忘れ去るべき代物としかいいようがない。
◆ 改憲ではなく廃憲を
国家の根本規範は国民の規範意識のなかからしか出てきようがない。逆に憲法によって国民の規範を規制しようとするのはいわゆるコンストラクティヴィズム(設計主義)である。極論と聞こえるのを承知でいえば、憲法学者がいるということがむしろ奇妙なのだ。いやいても構わないが、その主たる仕事は国民の(歴史的に形成されきたる)規範意識を分析し解釈することに当てられるべきで、成文憲法の字義解釈によって国民の規範意識に箍をはめようとするのは、本質的に、法匪のやり方にすぎない。
この種のやり方が許されるのは、政治権力の横暴に制限を課す、それが近代憲法の役割であると考える場合だけである。その場合には、憲法の条文を盾にして権力を掣肘するのが憲法学者の任務となる。だが、そんな憲法観が妥当なのは、民衆政治がまだ発展途上にある段階だけである。ひとたび民衆政治が、ということは「世論の支配」が確立されれば、政治権力は民衆によって選出され交替させられるということになる。このとき、憲法は規範意識にかんする民衆のための民衆による民衆の確認以外の何物でもなくなる。
問題は、おのれらの規範意識を成文憲法によって定めてもらおうとする敗戦日本人の他律的な態度にこそある。国民が自分たちの規範意識について自律的に感得し思考し議論し確認するならば、その国民が(おおよそ)共有するに至った国家規範にかんする解釈体系が憲法なのである。そして五十年前の(二十人足らずの米国人がたった六日問で書きなぐった)成文憲法がその解釈体系にそぐわないならば、変更されるべきは憲法の文章であって国民の解釈のほうではない。その意味では、(条文の字義解釈ではなく規範の意識解釈としての)解釈改憲であって一向に構わないのだ。
戦後日本人は、そろそろ、おのれらの規範意識のなかで日本国憲法を廃棄すべきではないのか。日本の国柄、日本国の国益、日本人の人柄、それらを自律的に考え直すためには、この憲法の成文は、批判の対象ではありえても、思索の基礎にはなりえない。むしろ、イギリスにならって、成文憲法なんかは廃止したほうがよいのではないか。それよりも、国民が白分らの歴史的なるものとしての規範意識について確認するプロセスが、つまり、家族に始まって職場や地域を経て議会に至るまでの、国民の個人性と集団性そして私人性と公人性の綾なす会話、議論、討論のプロセスが大事なのである。
民衆によるセルフ・ガヴァメント(自治)、それが民衆政治である。しかし民衆がオートノミー(自律)を失うなら、自治の自己否定となる。日本国憲法における国民主権も地方自治もおしなべてこうした自己矛盾のなかに放り込まれている。少なくともその憲法が敗戦日本人における規範意識を他律的なものにする根拠となっているかぎり、その矛盾は解かれない。しかもこの憲法は、拙い日本語によって表現されているにもかかわらず、高度に体系的な人権思想を展開している。つまり、いったん人権という思想的前提を受け入れてしまえば、容易には脱け出られない規範体系になつている。
一般に、人工的に作成された観念体系はそうしたものなのである。再確認させてもらうと、この体系の矛盾は前提そのもののうちにある。歴史の英知、慣習の常識そして伝統の良識を総体として投げ捨てた民族はけっして自律的ではありえず、それゆえその自治は、せいぜいのところ、それらを投げ捨てさせた主人(つまりアメリカ)の支配下での奴隷の楽園をもたらして御仕舞ということである。
主人を呪う奴隷の気分でこんなことをいっているのではない。そもそも現在のアメリカは、軍事力のこともある程度含めて、主人たるの力量に欠けている。人権思想にしたって、それはアメリカの理念論もしくは弁護論にすぎないのであって、その現実はむしろ、人は不平等のただなかに生まれ落ちる、という人類に普遍の原則を体現している。情けないのは、アメリカ的理念の純粋型ともいうべき現憲法をヴァーチャル・リアリティ(仮想の現実)として生きつづけてきた敗戦日本人のこの半世紀間である、そのトラウマ(消えることなき精神の外傷)である。かくなる上は、「日本国憲法だって?・そんなものがあるとは知らなかったぜ!」ととぽけてみせてもいいのではないか。(P181−P186)
西部 邁 著 「アメリカの大罪」 小学館文庫:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4094057110/qid%3D1056071297/250-9109231-9544245
日本においての世論の形成は、テレビや新聞が大きな勢力となっている。新聞やテレビから情報を貰い、さらには結論まで押し付けられて世論が形成されているようだ。そのテレビや新聞から平和憲法を守るべきだと、識者から解説されると国民の多くがその通りと思う。さらには小学校の頃から、平和憲法こそ日本が世界に誇るべきものと先生から教えられれば、生徒の誰もがその通りと思う。
しかしその憲法がどのような経緯で作られたかを検討してみれば、その正当性に疑問がもたれてくる。戦後のドサクサ紛れにGHQから提示されたものを、そのまま国会にかけて成立させたものに、正当性はあるだろうか。当時は国民から政治家に到るまで敗戦のショックから虚脱状態にあり、多くの政治家や各界の要人が公職を追放されていた。
新聞なども戦前における戦争を扇動した罪悪感から逃れるために、左翼的な論調に終始するようになった。憲法を守れと言う革新陣営と、憲法改正をいう保守陣営がねじれ現象を起こしているのは戦後体制がそのまま続いているからだ。つまり日米安保と平和憲法とがセットになっている体制から少しも変わりがない。
つまり左翼陣営が護憲を主張すればするほど、日米安保体制は強固になることに左翼は気がつかないのだろうか。逆に自主憲法が制定されると自主防衛が可能となり、日米安保体制に変化がおきるだろう。だから日本とアメリカの間に楔を打つには憲法改正を主張したほうが理屈は通る。しかし最近の中国は日本がアメリカの支配下にいたほうが安心だと見ているようだ。
国会においては自民党においては改憲論者が多数派となり、民主党においても改憲論者は半数近くもいる。しかしながら憲法改正案が出ないのは、出されると自民党も民主党も党が割れてしまうからだろう。国民の間では憲法と聞いただけで耳を塞いでしまう人がほとんどだ。今までの教育とマスコミの洗脳が効いて世論形成できないのだ。
このまま日本は奴隷の楽園状態でいいのか考える時なのだ。このまま放置していくと本当に奴隷の楽園と成り果てるだろう。それでも良いと国民は考えているのか、どうもよく分からない。国民全体が思考停止状態となり自分の意見を言おうとしない。そして政治や憲法そのものに興味がない。
アメリカ軍による戦後の占領は7年間もの長きにわたりおこなわれ、その間に戦犯の裁判も数々の改革も全てアメリカから押し付けられた。本来ならば日本自身の手で戦犯を裁くべきであったが東京裁判という報復劇により片付けられたため、戦争の真の清算が行われなくなってしまった。
大東亜戦争の真の清算が行われなければ、新しい憲法を作ろうにも何処が悪かったか分からないわけだから、作りようがない。天皇に戦争責任があったのか一つとっても結論は出ていない。結論が出ていないから現在の憲法のように天皇の地位が曖昧なのだ。
我が子に伝える誇りある近代史:http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/kindaishi.htm#4_5