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Ddog氏は、「たこ氏のような推測が流布されている背景(http://www.asyura.com/0306/dispute11/msg/357.html)」において、「天皇の責任問題を未だに利用しようとする、韓国北朝鮮中国の主張に加担する反日思想」とされています。裕仁を含む一定のグループ(国際金融資本の手先か否かは議論しませんが、少なくとも戦後において親米を鮮明にした指導者層)の戦争責任を免責すべく構築された論理の無理が、リアルな認識を妨げ、「韓国北朝鮮中国の主張」との間に、埋めることのできない溝を作っているのではないかと思っております。
同氏の当該文章へのコメントは別にし(多忙のため来週になるかも知れません。ご了承ください)、裕仁個人に関して、戦後に形成された神話を検証しましょう。たとえば、同氏の説明にあるような、「聖断」などの少数例を除いては、天皇は政治決定にかかわらなかったとの神話が定着しつつあるようです。現代史の記述でも、そのような誤解を誘導するような文章が見られることがあります。あえて文献を示さないまま(実際には雑多なソースからの造文)、流布されている東條内閣の成立についての描写を挙げ(誤解を招く歴史記述の例示です)、それにコメントしてみたい。
(1941年9月から10月)
「9月6日の御前会議は、10月上旬までに対米交渉がまとまらない場合の対米(英・蘭)開戦を決定した。10月に至って、なお対米交渉を継続しようとする近衛首相と、交渉打ち切りと開戦を主張する東條陸相が衝突し、近衛内閣は閣内不統一のため総辞職した。木戸内大臣は、9月6日の御前会議の決定を白紙還元することを条件として東條を総理に推薦し、10月18日、東條内閣が成立した。」
ここでは、東條内閣の成立は、木戸の意向に基づくとされている。現実にも、木戸が東條を推薦したことは事実らしい。しかし、この説明から、東條内閣の成立が裕仁の意向と関係ないとするなら、(説明文の作者が意図的に誘導した)誤解である。
この説明をよく読むと、健全な感覚なら違和感を抱くはずである。「9月6日の御前会議の決定を白紙還元」とあるが、この「御前会議」は、最高戦争指導会議に天皇の列席を求めた正式の会議である。内閣から首相・外相のほか、大本営からは参謀総長・軍令部総長が出席している。内大臣に過ぎない木戸が、天皇の意を体せずに、「白紙還元」など、命じ得るはずもない(内大臣は天皇秘書官で、内閣や大本営を構成する者ではないので、最高戦争指導会議のメンバーでもない)。「木戸内大臣は、..白紙還元することを条件として..」は意図的に歪められた記述である。
首相の人選を説明する前に、旧憲法下での内閣改造の手続きを説明したい。旧憲法下では、首相ほかの国務大臣は天皇が任命する。首相候補者に対し、天皇が組閣を口頭で命じ(組閣の大命)、首相候補者が閣僚名簿を作成した段階で、正式の上奏に基づいて親任式(「官記」と称する辞令書交付の儀式)が行われる。組閣を命じる段階では、正式の上奏によるものではない。そのため、「元老」や「重臣」などの正式の官でない者の「推薦(上奏ではない)」による首相人選が慣行とされていた。
これらの事実に照らすと、東條の人選は、裕仁の意思であったと推測される。常時天皇に近侍する内大臣である木戸は、裕仁の意を体して東條の「推薦」を行っているのである。以前から天皇との対立で内閣が崩壊することがあったが、この時期には首相の人選にも天皇の意思が強く反映されるようになったと考えるべきである。
実際、上記の説明文では省かれているが、この時の内閣更迭では、前首相の近衛は、辞職に際し後任の首相に東久爾宮稔彦を推薦している。しかし、「(戦争責任を問われる可能性があるので)戦時に皇族内閣は不適」との裕仁の内意が伝えられ、これを断念している。裕仁は、東久爾宮稔彦の首相任命には同意せず、東條には同意しているのである。
いずれにしても、天皇は首相の人選という重大な政治決定に深く関与している。