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(回答先: 東北人さんへ ―徳川幕府の対皇室政策― 投稿者 Silent Tears 日時 2003 年 6 月 16 日 22:02:26)
ずいぶん下になってしまいましたが、京都の庶民の生活史の一端、生活的情報をありがとうございます。実はこういう資料が一番大事ですね。
で、以下の情報も貴重です。
「出典は不明なのですが、維新後に明治政府が国内全域の児童に対して意識調査を行ったところ、一番偉い人は「旧藩の殿様」で二番目は「オイナリサン」だったそうです。」
これは、やはり、天皇の存在について全日本的にはほとんど知らされておらず、家庭内で話題にすらされなかった可能性を示唆している資料ですね。出典がわかるといいのですが。
このように私は徳川幕藩体制の、天皇家についての全日本レベルでのメディア戦略・情報操作体系がどのようなものだったか、非常に関心があります。庶民に何を知らせ、何を知らせないようにしたのか(基本的にはまったく知らせないようにしていたと思われるのですが)。京都御所の周辺に住む庶民への情報操作はいったいどのようなものであったか、です。天皇の存在をまったく知らなかった日本人にとって、天皇制とはなんだったのでしょうか。近代天皇制と呼ぶものと同様な意味で、実態的水位として天皇制が幕藩体制でそんざいしたといえるのでしょうか。近代のそれと比べるとき、「天皇制」と呼ぶべきものがあったといっていいのか、躊躇します。天皇制というとき、あくまで近代という文脈の中でしか認知できないものではないかとか、という疑問がぬぐえないのです。現代、天皇制を議論する場合の認識として、江戸以前の庶民が、現代の庶民が持つ情報の位置と同じものをまったくもていなかったことの意味は今後の議論でも非常に重要になると思えます。権力ゲームにいそしむ連中の姿はある程度わかるのですが、庶民が歴史形成にどうかかわったのか。一人の偉大な天皇が新時代を切り開いた、自体の期を画したといった、お上だけがヒロイックに歴史を展開していったといわんばかりの歴史観でいいのか、非常に危惧し、また疑問に感じています。司馬遼太郎の作品を見ても小数エリートのヒロイックな活動で、日本の歴史が展開していったという見方に陥ってしまう自分がとてもあやういんです。私もついつい、竜馬がどうした、松陰がどうしたという、歴史展開の契機を個人に帰せしめて行く意識の鋳型に知らぬ間にはめられ、その延長で、やはり、特定個人の天皇がこれこれをしたから、国の歴史がこうなった、だから偉大だ式の見方に傾きやあすいんですね。司馬史観というのは、権力者・エリートの側から見る歴史観に属するという意味で、非常に距離を置いた取り扱いが必要ではないかという思いをもっています。
「 さて、最後に。私は天皇制は認めますが天皇の権力は認めません。
もし天皇が「政治をやりたい」と言い出したら。
「国民に対する謀反である」
としてその天皇を引きずりおろし、別の皇族を天皇につけます。」
ああ、そういう位置づけでみていらっしゃるのですね。非常に興味深いですね、それも。
ご本の紹介ありがとうございました。機会を見て閲覧したいと思っています。
今一度、今回の貴重な生活的情報ありがとうございました。
あなたのいつも味のある投稿に感謝していますよ!