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アルファンドさん、こんばんわ。
決着を付けていただく書き込みをいただくほど、レスが遅くなり申し訳ありません。
バグダッド陥落後は、悲観主義と楽観主義がせめぎ合う精神情況ですっきりせずあまり芳しくありません。
悲観主義は、表層的言動は別として、諸国の支配層は共通価値観で連合しているのではという“深い闇”や終わったことは不問という世界的なムードに基づくものです。
楽観主義は、人は問題解決能力を持っているという確信とラビ・バトラ氏やエンデ氏が「日本で新たな精神性が生まれ変化が起きる」と考えていることに基づくものです。
ラビ・バトラ氏やエンデ氏が予言者や預言者だとは思っていませんが、そう考える何かを日本から感じとっていることについ期待してしまいます(笑)
(ラビ・バトラ氏は、2005年に日本で資本主義を崩壊させるような大変革が起きると託宣しています。日本が先行的に苦境に陥っていることや“先進近代国家”で西欧的価値観が希薄であることがそのような託宣が出てくる根拠なのかなと思っています)
Q:「人間」は何のために存在しているんだ?
アルファンドさんが、えくぼさんの書き込みに触発され、全身全霊、全存在をかけて投げ掛けられた問いに答えることに、とてつもない重みを感じています。
キルケゴールの「ここはどこだ?私は何者なんだ?世界と呼ばれるものはいったい何なんだ?その一員であることを強いられるのなら、その導師はどこにいる?導師に会わせてくれ!」という叫びと同質のものを受け止めています。
この種の問いに真顔で答えられるのは、仏陀か、預言者か、専制支配者か、恥知らずの傲慢者だけでしょう。
そのいずれでもない自分に答えられるはずもなく、霊性や霊感が乏しいことから、問いに関する啓示やひらめきも経験していません。
ここのような場ではなく茶飲み話で出てきたテーマであれば、「意味や目的なんかないと思うよ。生まれ出て死ぬまで、できるだけ心地よく生きればいいんじゃない。どういうことに心地よさを感じるかは人様々だけどね」と応えて終わりにします。
しかし、そう答えるだけではとてもアルファンドさんの今回の問いかけに応えたことにはならないと思い、理念的もしくは価値論論的な「存在意味」や「存在目的」はないと思いつついろいろ考えてみました。
● 「人間」が存在する意味や目的の有無
問いかけから、「人間」というのは個なのか類なのか、そして、「何のために」というのは存在理由なのか存在目的なのかという疑念が浮かびました。
「人間」はなんらかの“創造主体”(神・霊・摂理・法則など)の目的を実現するために創り出された存在なのか?、それとも、「人間」は「人間」として存在することで“超越”的な目的をめざすべき存在なのか?
“創造主体”がある目的を実現する手段として有効な“機械”として「人間」を創り出したのなら、創り出された「人間」も、何のために存在しているかを先験的に知り、それを達成するためにただひたすら生き、「何のために存在しているんだ?」という問いを抱かないはずです。
ですから、「人間」が機械などをつくり出すこととは違って、“創造主体”は、“かく行なえ”という具体的な使命を付与して「人間」をつくり出したわけではなく、“かくあれ”というレベルで「人間」をつくり出したのでしょう。
“かくあれ”は「人間」に与えられたが、“かく行なえ”は、明示されていないか、もともと存在していないかになります。
“かくあれ”は、具体的な思惟内容や具体的な活動内容ではなく、「人間」として感じ思惟し活動する能力を意味しています。
“かく行なえ”は明示的(共通認識)になっていないと思われるので、隠れた“かく行なえ”があるとしたら、“創造主体”は、宝さがしや迷路探索のように、意味や目的を見つけることを存在のテーマとして「人間」に付与したと考えることもできます。
たとえそうであっても、超越的な意味や目的があるのなら、「人間」という存在性になんらかの“ヒント”ないし“発見能力”が内在している、すなわち、“かくあれ”として付与された能力のなかに“かく行なえ”を探し出す能力があると思われます。
「何のために存在しているんだ?」という問いが浮かび上がること自体がその傍証なのかもしれません。
“かくある”「人間」として“かく行なえ”を探し出す能力がないのなら存在意義を知ることは絶望的で、“創造主体”のミスプログラムということになりますから、反目的的に勝手気ままな歴史を刻んでも文句を言われる筋合いはありません。
「人間」に付与された超越的な意味や目的がないか非明示だとしても、「人間」が存在する現実的な意味や目的はあると考えています。
それは、「人間」がとりわけ意味や目的を重視しながら生きていく存在だからです。
「人間」から「何のために」という意味付けや目的設定を削ぎ落とすと、なすべきことが見えなくなり立ち止まった状態になるようです。
欲といわれるものも、生物学的なものではなく、意味性が付与され、目的化されて達成されます。(欲という言葉は、えぐいと思われる目的を正当化するために使われるようにも思われます)
一方、意味や目的が明らかになれば、積極的か強制的かは別として、それを現実化するために無駄とも思える膨大な活動力を注ぎ込みます。
空腹や渇きを満たす飲食にも様々な意味や目的を付与し、手間暇をかけてそれを実現します。
雨露や外敵を避け暑さや寒さを緩和するために棲家をつくりだすだけではなく、なくても用を果たす装飾的な付加への奮闘も厭いません。
性的関係行為についても、本能や欲望というのは嘘としか言いようがないほど意味付けを行ない、その過程で多様な悦楽を貪ります。
なんといっても、「人間」は、宗教・哲学・制度・科学・芸術・祭り・スポーツなど、意味性や目的性に純化された性格のものに膨大なパワーを注ぎ込む生き物です。
このような現状に対しては、禁欲主義やミニマリズムの志向そしてルソーのような「自然に帰れ」という対抗もありますが、それらにもたっぷり意味付けが行なわれています。
他の存在から見れば、「人間」は、生きるためになんと冗長な目的を設定し、それを実現するために回りくどい手法で労苦も厭わない存在なんだということになるはずです。
(30分間の食事のために調理に1時間かけたり、手が込んだ精密なレースを施した女性の下着が存在したり、布を織るための手段として大掛りな機械装置をつくったりします)
このようなことを行なう能力は、選ばれた特殊な「人間」だけが持っているわけでも、「人間」自身がつくり出したものでもなく、類的個である人に先天的先験的に付与されているものです。
そして、その能力は、白紙や無地というたんなる受け皿や機能ではなく、“指向性”を持っているように思われます。
この“指向性”が「人間」に与えられた目的に沿って生きるためのアンテナなのかも知れません。
● 意味や目的が付与された対象
「人間」に歴史超越的で本源的な意味や目的が付与されているのなら、それは誰(何)に対して付与されているのかという問いが生じます。
“創造主体”が意図した目的があり、その付与対象が個だとすれば、原初の人(例えば、性的に分離する前のアダム)だけをつくり出し、目的を達成するまでの寿命を授ければよかったはずです。
それはともかく、個人が考え個人が行動するとしても、個人が考えるための手段を獲得することから始まって行動に至るまで他者との相互関係的活動が不可欠です。
かと言って、類という思考主体や行動主体が無媒介(可視)的に存在するわけではありません。
類というのは個の相互関係的な在り方であり、個と類は、可視的な存在性とは異なり分離できないものです。(個そのものが類性を内在しているとも言えます)
さらに、文字や音声・映像が記録された外的存在が特徴的なものですが、同時性を超えた他者関係性も現実的なものとしてあります。
(文字や音声・映像に限らず、人がつくり出した外的存在は、自覚するか否かを別として、つくり出した人々の意味や目的が対象化されたものとして生身の個とのあいだの(人的)関係性をもたらすものです。言語表現物がもっともわかりやすいものですが、その物と関係をもつというより、見えずにリアクションもないこともあるその表現者と受け手の関係性を媒介するものです)
これらの他者関係性と目的対象化(目的に即して外的存在をつくり出すこと)が歴史の連続性(継承性や遺産)を支えているとも言えます。
このように考えると、感覚的世界の客観性や個人主義が“普遍化”している現状に照らせば異様な話ですが、リアルな存在であるはずの個人には実在性がないのではないかという難問が生じます。(他者から切り離された個人は実在できないという意味)
この思念をもう一歩進めれば、諸個人の相互関係的活動主体と言える人類も、実はそれ自体として実在性がないのではないかという疑念も生じます。
意味や目的を考える手段(言語的思考)だけではなく、その契機も外的存在(自己及び他者を含む)との関係性によって得られ、意味や目的を実現するために働きかける対象も外的存在(主体である自己や他者を除く)です。
(生命体としての維持が外的存在との関係性(摂取)なくして不可能という根源的な問題があります)
そうであれば、「人間」(人類)というものも、それ自体として実在しているわけではなく万物との相互関係的運動存在という宇宙(全自然)的実在だということになります。
全自然から人間を思念的に切り離すことはできても、それは、ある場合(目的の手段考察など)に有効な便宜や方便でしかないということです。
こう考えると、分析や還元という科学的な思考で得られる理解や個人主義とはまったく別次元の実在性(世界)が根源として見え、リアル(実在)と思われていたものがイデア(観念)であり、イデアだと思われていたものがリアルであるという世界観の転倒が起きます。
個人が実在しているという考えは、感覚世界を無思慮に受け入れたり、削ぎ落としてはいけない要素を理性的(科学的)思考で捨象してしまった思念的なものでしかなく、実はリアルなものではなくイデアであるということになります。
(えくぼさんが説明された「宇宙の万物、すべての人間は大霊の中で一体である」ということの我流の表現?)
これまでも、世界は、諸個人が内的に持つ「世界」(イデア)としてだけ存在すると説明してきましたが、リアルだと判断していることはリアルではなく、せいぜいが、リアルと考えられがちなことはリアルを知るための契機(入り口)でしかないということになります。
イデアは、外にあってリアルを生み出すような普遍性や超越性をもつものではなく、リアルそのものの関係性であり、リアルに内在しているはずです。
付与された意味や目的そしてイデアがどこかにあるのならば、付与された対象や存在しているところは、全自然的実在という有機的連関性の一部である類的個であり、現象的存在としてはそれを生身で抱えている個人ということになります。
ぶっ飛んだ言い方をすれば、個=イデアもしくは個=宇宙(全自然)ということになります。
(イデアを霊として考えれば、霊も、自存的にどこかにあるのではなく、万物と不即不離のかたちで存在していると思います。そうであるならば、生身の個人の霊も、身とともに変成しながら不滅なのかもしれません)
● 超越的な目的と現実的な目的の接合点
超越的な目的が付与されているとしたら、「人間」が現実に設定する目的とのあいだに接合点があるのでしょうか?
そのような接合点がないのなら、「人間」はその滅亡の時まで永遠の迷路をさまようことになり、超越的な目的を付与した“創造主体”はドジを踏んだことになります。
その可能性も否定できませんが、その問題では受身でしかない「人間」は、そんなことはなく接合点があるはずだと信じて、主体的能動的に生きていくしかありません。
これは、付与された超越的な目的はわからなくとも、さらには、超越的な目的があるかないかを思い煩わなくとも、全自然的実在としての自己に信を置いて主体的能動的に生きていけば、超越的な目的にも適うはずだということを示唆します。
目的が先験的にはわかっていなくとも「人間」は目的実現的に生きているのですから、現実の目的は何に由来しているのかということが問題になります。
目的を現実化するためのものは理性的思考と身体的活動力ですが、目的そのものを想起させるのは、生物学的欲でもなく、理性(概念的思考力)でもないと考えています。
生物学欲ならば、「人間」の活動の在り様や歴史は違ったものであるはずです。
理性は、別のものが想起した目的を明瞭にしたり、目的を現実化する方法を考えたり、目的のための活動をこなすなど役割を果たすものです。
その別のものとは、経験的に、感応ではないかと考えています。
感応は、生物学的に感じることではなく、それを含みつつ直観的価値判断までを含む実存的感受です。
言葉としては快不快、苦楽、善悪、美醜、幸不幸、義不義などを感じとることになりますが、言葉になったものは、感応そのものではなく、感応の内容を説明したものでしかなく、感応そのものは過程的区分は難しいとしても言語的なものではないと考えています。
(価値判断であっても、理性的思考を経た判断ではなく、直観ないし情に基づくものを感応と考えています。イヤなものはイヤという理屈じゃない即自的な判断です)
感応は、物質ではありませんが確かなものですから無ではなく、思いやることはできても観測が不能という意味では物理学的な無です。
(感応とともに生じる電気的化学的生体反応は物質的ですが、それは感覚のある種の説明にはなるとしても、ここで言う感応ではありません。理性的思考も無ですが、理性的思考の成果は言語表現として外化することができます)
感応は、他者からの規定性がありながらも、他者と共有できない絶対的個性です。
他者の感応を推し量ったり、感応の内容を言語表現で他者に説明することはできても、実感として共有することはできません。(感応に触発された芸術表現も感応の外化そのものではなく、いわゆる共感や同情は別の個の理性的判断を基礎にした個性的感応です)
また、感応は追憶することはできても保存はできないものですから、個々の感応は一過性で流れ去るものであり、新たな感応への渇望をもたらします。
一過性で保存もできず、ある営為から得られる感応も固定でもないことから、感応そのものが目的だとすると、成就するということはありません。
物質主義にも思える「人間」も、実のところは、物理的には無である感応を目的として、自己を含む物理的な力を相互関係的に駆使していると言えます。
物に執着しているように見えても、その物から得られる自己の感応に執着しているというのが実態です。
(物へのこだわりは、自分を駆り立てているものが何かさえわからないという悲喜劇の現われです)
「人間」にとって、自己の身体を含む物質はあくまで手段であり、物質的には無である感応を得ることが目的です。
「人間」は、物質的には無であるより好ましい感応を得るために物質的な活動にいそしんでいると言えます。
感応は、絶対的個性であると同時に変動する個性です。
かつて好ましい感応を得た営為が、今度は不快な感応をもたらす可能性があるということです。(その逆もあり得ます。「世界」や価値観の変化、そして生体的変化、さらには世界の変化もそれに影響します。どんなにうまい食べ物でも満腹時には忌避の対象になります)
何にどう感じるかという感応の在り方は、感受性に規定されると考えています。
感受性は、感覚や理性といった何か個別の能力に還元できるものではなく、自己身体・他者・非人間的自然との相互関係性(全自然的実在性)のなかで個が形成し続ける能力です。
理性は、概念化する思考力であり普遍的了解を得ようとするものですから、その成果は感受性に影響を与えますが、感受性とは性格が異なります。
感覚で感応するというのであれば、同じ状況に置かれた人は似たような感応をするはずですが、感覚的感応には類性があるように思われますが、価値判断的な感応には驚くほど個人的差異性がありますから、そんなことはないはずです。
類的個という生身が保持する「世界」と実在の世界の接点が感受性だと思っています。
(このように規定した感受性が、スピリチュアリティーに類するものなのかどうかは不明です)
理性の成果である知識や論理そしてつくり出した外的存在(人工物)は、他者が生み出したものを利用できるという点で譲渡性や共有性がありますが、感応は、譲渡性がなく他者代替性もないものです。
それぞれの個の感応は質が違うのですから、“平等”・“普遍性”・“多数決原理”といったものは意味をもちません。
感応は、差異性・多義性・個別性に特徴があり、だからこそ、他者関係性という個の在り方に一つのより良き感応の源泉があるとも言えます。
差異性・多義性・個別性を基礎にした感応に、地域特性・民族特性・分化特性といった個を超えた類似性がある(と判断できる)のは、「人間」として“かくあれ”の同質性や協働(相互関係的活動)、そして、活動的に関係する自然の類似性に由来すると思っています。
言語の同一性はその過程で形成されるものであり、言語は概念的なものですから「世界」の類似性にもつながります。
「世界」の類似性が支える感応の類似性は、スムーズな協働関係が取り結べるかどうかで判断できると考えています。
「人間」は、個性的で共有できないものであるより良き感応を得るために協働します。
「世界」の変容が感受性を変容させ、世界の変容が感受性を変容させ、感応が次なる感応を生じさせる感受性を変容させます。
そして、一つ一つの感応が内なる「世界」を変容させ、「世界」が世界に働きかけることに向かう目的を設定させ、それが現実化することで世界を変容させると同時に「世界」を変容させます。
全自然的実在である類的個が感応と概念思考を融合させて掴み取ったものが「世界」だろうと考えています。
個にとっての世界は、外なる世界ではなく、内なる「世界」です。外なる世界が内なる「世界」から離れてあると思念するのは、内なる「世界」の理性的判断です。
相互関係的に目的を実現する協働を行なうためには、諸個人が内に持つ「世界」のすり合わせて、共同意志や共通認識を形成しなければなりません。
● より良き感応をめざしたものとしての歴史
より好ましい感応を得ることを目的として「人間」が存在し歴史を紡いできたと考えると、それが類的なものではなく階層的なものとして追及されてきた歴史過程があるように思われます。
現実を見ても、「人間」が、自己がより好ましい感応を得るために他者を手段化する階層と、他者がより好ましい感応を得るために自己の活動力を提供する階層に分化されています。
支配−隷属の関係は、このような感応獲得における対立関係ということもできます。
より良き感応への渇望と悪しき感応の排除を目指す“利己的”階層とより良き感応を制限され悪しき感応を押しつけられる階層という分化が、支配−隷属の関係の内実だと思っています。
この支配−隷属関係の持続が、全自然的実存としての類的個の在り様を歪めていると考えています。
“労苦”と考える生産的労働から“自由”になった支配層は過程性がないまま成果から得られる感応を享受し、支配層に隷属する人々は、活動を他者の目的のために行なったり、活動成果のある部分を奪われるという構造が、十全な類的個から半端な個に変容させ、諸個人がもつ「世界」をそれにふさわしいものにしていると思っています。
支配層も、労働の成果である物質的に豪奢な暮らしを求めるだけではなく、精神的充足も手に入れようとします。精神的充足に対する希求は多忙を極める隷属者よりも強いものがあります。
(物質的ないし快楽的感応に食傷したり意味を見出せなくなったごく少数の支配層は、精神的充足のために財産を譲渡し隠遁の道を選ぶこともあります。食傷したり意味を見出せなくなっても特権を捨てない人が多数ですが)
支配−隷属の関係は、たぶん、生存必需品に“過剰な余剰”が発生したことが端緒なのでしょう。
備蓄程度の余剰であれば、軍事機構・官僚機構・聖職者及び学者・文化的建造物の拡大は厳しく制限されます。
統治制度・純化された知的活動・文化的活動が拡大するということは、“過剰な余剰”が拡大していることに他ならず、「人間」の相互関係的活動の分裂が拡大することでもあります。
(“過剰な余剰”が、悪しき感応の総体的な低減や良き感応の総体的な増大につながらなかったわけはわかりませんが、支配−隷属の関係は、内部発生というより外部共同体との関わりで生じたと思っています)
文字も、有史と同義ですからそれほど古い出現ではないように、言語とは違って“かくあれ”にとって不可欠なものではなく、支配−隷属関係や商人の確立に伴ってつくり出されたものだと考えています。
(知識の累積や伝播で有用であることを認めても、文字を生み出したことが“進歩”だというのは錯誤です。濃密な相互関係性においては文字を媒介とした意志疎通は不要であり、「人間」の諸能力と文字とは無関係です。“死んだ”文字よりも“生きている”言語で相互関係をもつほうが能力の涵養に資します)
人格神による啓示宗教や哲学も、信仰や理性的価値付けで人を納得させ動かさなければならない支配−隷属関係状況のなかで生み出された(生じた)ものだと考えています。(宗教的「世界」や哲学的観念そのものは支配−隷属関係に先立つ根源的なものだと思っています)
いわゆる文明の発生とは、支配−隷属関係の確立に他なりません。
類的個の分断という文明史に入って以降、感応を理解しよりよき感応を得るための手段である理性や知性が、逆に感応を抑圧し「世界」を歪めるようになったと思っています。
他者を利己的なより良き感応のために手段化する状況が続くなかで、支配者も隷属者も、類的個や全自然的実在であるとの「世界」を見失い、個人間の対立・自然の手段化(人間と自然の対立)・肉体と魂の分裂(物質的労働と精神的労働の分裂)・感応の否定と理性の称揚・共同体(国家)間対立などに結びついていったと考えています。
隷属者は支配者の感応追及の手段として自己の身体的活動力を提供し、支配者はその立場の維持とより良き感応の追及にいそしみ、支配者の執事たちは、支配者のそのような目的を支える活動に励みます。支配者の執事たちは、いわゆる知的活動従事者ですから、生身の身体をもって自然に働きかけることが余技となるため、観照的で理性的な思考に傾きます。隷属者にしても、現実の在り方と折り合いを付けなければなりません。
なかなか踏み切れないとしても、悪しき感応のみを強いられた個は自死を選択することもできるので、他者の絶対的手段化は困難であり、限定的な良き感応の獲得を認める一報で隷属的在り方を納得させる観念を要請します。統治理論や宗教は、支配層の自己正当化や隷属者の納得に大きな役割を果たしています。
(「パンとサーカス」政策から隷属は神の御心に適うとし死後の永遠性を信仰で得られるとしたパウロ主義キリスト教から近代価値観まで)
肉体と霊魂の二元論や外なる超越的な人格神そして哲学などは、類的個が支配−隷属に分断された歴史が形成した「世界」の表出だと思っています。
支配−隷属の関係は、指導−被指導の関係とは次元が異なります。
理性的思考活動の成果である知識や論理は他者が生み出したものを利用できる譲渡性や共有性がありますから、指導−被指導の関係は、「人間」が全自然的実在として誕生した時からあったはずです。
そして、指導−被指導の関係は、固定的な関係性ではなく、ある関係的活動では指導的役割を果たした人が、別の関係的活動では指導を受けるというものです。
指導−被指導の関係においては、尊敬や納得はあっても、強制や隷属はありません。
近代文明では、より好ましい感応を得る手段として貨幣が普遍化しました。
(血統的身分も貨幣という基盤に支えられるようになり、商人的条件が普遍化したということができます)
物質的感応や精神的的感応を得るための奴隷(=手段)も、買い取り・債権・戦争を通じてではなく、ある時間を隷属の身に置くことで残りの時間により良き感応を得ようとする人々を時間買いすることで済むようになりました。
これにより、支配−隷属関係は貨幣保有の量的差異性に隠れるようになり、あの人のために自己の活動力を譲り渡しているという現実意識は薄れるようになりました。
身分という人間的異質性ではなく、貨幣という同質の量的多寡が感応の主要な条件になったことこそが、「平等」価値観の支えであり、「民主主義」の基礎だと考えています。
主要な生存(感応)維持手段である土地から離れることが「自由」だとも思念されるようになりました。
感応の特性である差異性・多義性・個別性も、感応を得る主要な手段となった貨幣の均質性のなかに覆い隠されてしまいます。
様々な相互関係的活動が、ただ一つ貨幣を得るためのものに抽象されてしまう様相を呈しています。
様々な相互関係的活動がより多くの貨幣を得るという目的に集約されるようになりました。
何より、(経済)社会が、資本(集積された貨幣)の自己増殖運動として表現できるところまで達しています。資本の増殖論理に反する判断や活動はそれを行なうものやそれに従属している人たちを窮地に陥れます。
人格的超越神の観念が貨幣の普遍化により奇妙な物神のかたちで現実化し、貨幣が支配者であり、生身の人々はすべてそれに隷属するという関係性が現れています。
消費物ですらない貨幣が絶対的支配者になることで、「人間」は主要な相互関係的活動に具体的な意味性や目的性を見出さなくなり、ただ抽象的な“お金稼ぎ”という意味性と目的性に還元されるようになりました。(1億円の札束よりも小さな田を耕すことのほうが実在的な意義があることさえわからなくなっています)
宗教や哲学そして科学的理論も、このような現実に呑み込まれるか、それにただ反発するかになっています。
そのような隷属関係から自由になれるのは、支配者である貨幣をあり余るほど保有している人たちだけです。
貨幣が人を支配する力を持っているはずもないのですから、圧倒的な量の貨幣を保有している人たちが支配していることは確かです。
生身で感じ取る感応であればその追及も自ずと抑制が働きますが、貨幣獲得については、価値観による抑制がなければ、食傷することもなく貪欲に疾走する危険が付きまといます。
そのような現実でも近代価値観・法律・統治者・国旗・国歌などで統合性や一体性を追及しなければならないというのは、支配層の利権を維持し拡大するためだとしても、類的実在性が生き残っていることの証でしょう。
類的実在性が国家という抽象的支配構造に呑み込まれ、個人は“自由な”個として貨幣獲得競争に翻弄され、家庭などごく限られた時空間で類的実在性を生きています。
(家庭も、そのような場ではなく、貨幣の再分配の場になっているようにも見えます)
あれこれ書いてきましたが、ここで書いた内容は、私の楽観主義を根源的に支える思念の表明なのかもしれません。
リアルである全自然的実在性と生き生きとした多様な個性的感応をここまで押し潰している文明が類的個の在り方として継続するとは到底思えないからです。
そして、そのような現実の代償であった物質への執着も、世界的なデフレ不況のなかで徐々に断ち切られようとしています。
感応の良し悪しを理念や理論で誤魔化し、良き感応の機会を奪い悪しき感応を押しつける状況を継続することはできません。(先進国国民が手に入れた物質的代償が削減されることで、空虚な理念や理論が通用しにくくなります)
多くの人々が生きる目的は自分しか感じ取れない感応をより良いものにする(心地よく生きる)ことであり、それは自分が全自然的実在であるという「世界」を持つことを通じて達成できると考えれば、たかだか数千年しかないと思われる文明は瓦解に向かうと確信しています。
そして、好ましい感応を得るための活動であれば、その過程で生じる好ましくない感応も糧とするはずです。
世界的なデフレ不況や「対イスラム戦争」が短期の過渡的悲惨な災厄として決着をつけられ、全自然的実在として個人が無理なく生きられる開かれた地域共同体に移行するのはそう遠い先の話ではないと思っています。
その時まで生きているかどうかはわかりませんが、そのような「世界」を多くの人が好ましいと判断し、人類の“共食い”や破滅も起きないのなら、超越的な目的にも適った在り方だということでしょう。