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GLA高橋信次の著書(『心の発見』など)は虚偽とまちがいだらけ
前述したように、信次の著作の検証を『心の発見・現証編』の目立つ部分に限って
開始しましたが、今まで書いた部分を知った時点で、いったん打ち切りました。
ところが、同書の「科学編」や「神理編」をよく読むと、同様のまちがいや矛盾や
虚偽が、予想を越える頻度で出てきました。
私はさらに、ためしに『心の発見』三部作を読み比べてみました。これまで挙げた
「現証編」のまちがいや虚偽など、氷山の一画でした。同じエピソードのことを書い
ているのに、「神理編」と「現証編」の間に、あってはならない「矛盾と相違」が
あったりしたのです。それは「記憶違い」「勘違い」「校正ミス」などでは、とう
てい説明できないような、ひどいものです。
なぜ、夢中で読んだ若い頃に、こんなずさんな記述に気づかなかったのかと、悔や
みながらチェックしました。その矛盾や虚偽やあやまりの数は、すぐにわかるものだけ
で七十箇所を超えています。『心の発見』(神理編・科学編・現証編)を読み比べた
だけでそうなのです。
他の著書や講演へも調査の手を広げれば、信次の記述の過誤は、おそらくきりが
ないでしょう。(それは同時に、信次のゴーストライター役をつとめた当時の三宝
出版社長・堀田和成氏---現在、「偕和会」会長---、ならびに三宝出版編集部が、
信次の過誤を修正しえなかったことを意味します)
それでは、これより『心の発見』のひとつひとつのエピソードの真偽を確認した
結果を、ご紹介いたします。信次の没後、二十五年間、だれも確かめなかったがゆえ
に、盲目的に信じられてきたことの多くが、矛盾と誤りである証拠を、ここに発表
させていただきます。
検証のテキストは、いうまでもなく『心の発見』三部作が中心です。『真創世記』
も『人間の絆』もそれぞれ「三部作」ですから、佳子はキリスト教の「三位一体」
を暗示しているつもりなのでしょうか? まあ、これは蛇足です。本論に戻ります。
さて、『心の発見』は、最初『縁生の舟』という書名で出版され、それが好評を
博したので、昭和46年、シンパでもあった『経済界』主幹の佐藤正忠氏のところ
から、『心の発見』と名前を変えて再刊されました。「神理編」「科学編」「現証編」
の順番で「第1刷」が発行
されたわけです。
(該当の版は、現在は古本屋でしか入手できません。なお佐藤正忠氏は、当時から
さまざまな宗教を渡り歩く一種のフリークのような傾向があったようです。同氏は
また「GLA=God Light Association」の名付け親だそうです。それまで、信次の
会は、「大宇宙神光会」と呼ばれていましたので、「もっとかっこよくてアピール
するものがいい」ということで、「神光会を、英語にして頭文字をとればいいじゃ
ないか」と提案したのだそうです。)
現在のように「三宝出版」から出すようになったのは、その後からです。版権が
ひきつがれ「改訂新版」として出されて以降、今日にいたるわけです。この「経済界」
版と「三宝」版では、本文にはまったく変わりはありません。変更されたのは、カバー
と奥付などの出版社サイドの体裁だけです。
「経済界」版『心の発見』で目をひくのは、三部作全部のカバーのそでの「注意書き」
です。
「*本編はSF的興味心だけで読まれると危険です」
霊的現象をあつかっているので、好奇心や興味本位で読むとあぶないことになると、
いわば「DANGER」表記がされてあります。そのような表記をする以前に、まず危険な
要素のないようにするのが、著者として為すべき努めではないかと思うのですが。
くりかえしますが、「経済界」版と「三宝」版は、現在にいたるも同じです。本文
もそのままで、内容に修正・改変はありません。ですから、「経済界」版のカバーで
警告された「危険さ」もそのまま現在の「三宝」版に引き継がれているはずです。
しかし、今も発売中の「三宝」版『心の発見・神理編』には、その「警告」はありま
せん。
30年前には「この本は好奇心で読むと危険です」と警告がついていたのに、なぜ
そういう大事なことを読者に知らせなくなったのか。いったいいつ誰が、興味本位で
読んでも大丈夫だと、判断したのでしょうか。著者の信次自身でしょうか?
さて「興味本位で読むと危険です」と、当初ことわり書き入りで発行された「心の
発見・神理編」ですが、これは奥付では1971(昭和46)年1月15日発行と
いうことになっています。ちなみに「科学編」は同年5月10日、「現証編」は遅れて
1973年4月20日発行という事になっています。
「GLA高橋信次の著書は虚偽とまちがいだらけ1〜5」総目次
<目次1>
☆ 『心の発見』は矛盾だらけ
☆ 義弟と先祖の矛盾の日
☆ 「ワン・ツー・スリー」と「フワイ」出現の断層
☆4日間で体重8キロ減った信次の怪
☆アインシュタインは正法者?
<目次2>
☆消えた守護霊
☆妻と妹と観音様と
☆ 仏教びいきの過去世記憶
<目次3>
☆ 偽りの「大黒天」
☆ 不空三蔵とミロクの混乱
☆ いいかげんな「本体・分身・転生周期」説
<目次4>
☆「悪霊ばらい」も自己暗示劇
☆ 諸天善神、みなでたらめ
☆ 講演者としての高橋信次の汗
☆「悪霊ばらい」も自己暗示劇
<目次5>
☆自己の教義と矛盾する信次の死
☆信次の思いつき妄言録
☆ 「ウソはつきません」という最大のウソ
以下より「本編」です。
「GLA高橋信次の著書(『心の発見』など)は虚偽とまちがいだらけ1」
<目次1>
☆ 『心の発見』は矛盾だらけ
☆ 義弟と先祖の矛盾の日
☆ 「ワン・ツー・スリー」と「フワイ」出現の断層
☆4日間で体重8キロ減った信次の怪
☆アインシュタインは正法者?
☆義弟と先祖霊の矛盾の日
「神理編」でも「現証編」でも、冒頭は、信次がなぜ「霊道」を開き「さとりを求める」
ようになったか、その説明からはじまります。子供時代の思い出話から、問題の「守護
霊・指導霊」との出会いまで、いろいろ書かれています。
しかし、驚いたことに、同一の思い出話・回顧談のはずが、「神理編」と2年後の
「現証編」とでは、内容が異なっていました。私は読み比べて、はじめて気づき、最初
はさすがに愕然としました。それは、次々に調べるうちに、やがて憤りに変わり、最後
には呆れかえるという経験をするまでになりました。
「神理編」「現証編」両書とも、信次は「10歳くらいのとき、心臓が停止して幽体離
脱する現象に、半年あまりみまわれる。そこから「もうひとりの自分」の正体への探求が
はじまる」とあります。
それで、少年信次は、近くの神社に毎朝毎晩おまいりして、神様にお願いする行為を
はじめるわけですが、それはどう書かれているでしょうか。
「神理編」P21
「村はずれの小さな白山神社という社に、雨の日も風の日も、雪の日も欠かさず日参し、
朝夕六時の2回、社の掃除と瞑想にふけり、祈願したものである。10歳から13歳の
3年間、それは続いた」
ところが、「現証編」を読むと、この「神社日参の期間」がことなっているのです。
「現証編」P14〜15
「いつのまにか、この社が私の家のようになり、私は勉強道具を持ちこんで勉強する
ようなこともあった。2年過ぎ、3年すぎた冬のある夕方・・・(中略)・・4年、
5年とお参りは続いたが、神との対話は何の返事ももたらさなかった」
「神理編」では「3年間」だった「神社日参」が、ここでは5年以上になっています。
どちらが本当なのでしょう。やむなく、講演会の記録を見てみましょう。
信次は、昭和45年8月の講演会でこうしゃべっています。
「小さな神社の庵の中で、その時から約6年間、雨の日風の日、私はその場所で、心と
いうものの心身調和を図っていったのであります」
ご覧の通り、この4ヶ月あまり後に発売された「神理編」の「3年間」という記述
と異なります。こうした著書どうしや講演会の発言との、説明不能な食違いは、まだ
まだ出てきます。
これが、信次の「自己矛盾」の最初の一歩です。「神理編」と「現証編」との間の
食い違いは続きます。
「神理編」P35〜36
「1968年2月5日午前1時のことであった。私はローソクに火を点じ、心の調和を
はかり、1日の反省と感謝の心で禅定にはいっていた。
すると2センチくらいの高さだった炎が・・・たちまち22センチくらいの高さに
なった・・・炎は・・・次第に蓮の華に似てきた・・・家族も従業員も、ただあっけ
にとられて見守っている。やがて、私の前に肉体的先祖と称する14代前の先祖が
名乗りでてきた・・・その先祖は、私に語りはじめた・・・『私はあなたの先祖、
竹之丞半九郎友幸である…』」
つまり1968(昭和43)年2月5日午前1時に瞑想したら、ロウソクの炎が
大きく蓮の華の形になるという奇跡現象がおこり、いあわせた妻と従業員もびっくり
した。その上、信次のご先祖さま「14代前」の「竹之丞半九郎友幸」が、霊体で
姿をあらわして語りかけてきた・・・というわけです。
しかし、同じ現象が「現証編」ではこう書かれています。
「現証編」P52〜53
「2月3日午前1時のことであった。突然、燈明の高さが25センチになった。本来
なら3センチのものがである・・・今度はそれが蓮の華に変化し・・・私は、妻や
弟を起こしてこの現実を確認させた・・・ただぼうぜんとこの現象に注目をする
のみであった」
「2月5日」と「2月3日」の日付の差の不可解。炎の大きさ、たちあった人間の
描写も「いあわせた妻と従業員」「妻や弟を起こして確認させた」とちがう。しかも、
ここでは「先祖の霊」は登場しません。
それらしき霊が登場するのは、「現証編」では、このあと「7月3日」です。
しかし、「14代前」や「竹之丞半九郎友幸」という語句は、「現証編」では、
なぜかどこにも出てきません。
この程度は、まだ序の口です。不可解なことはまだ続きます。
信次が、「指導霊ワンツースリー(以下「123」)」と「守護霊フワイ・シン
・フワイ・シンフォ(以下「フワイ」または「フワイ・シンフォー」)」とまみ
える問題の日のくだりです。
「神理編」P39〜40
「1968年7月6日。私は・・・「もうひとりの自分」をようやく発見できる
段階にきた。あるとき義弟から「ぜひ私にも(霊的)現象を見せてくれ」という
希望があった。義弟は・・・小さいときから神仏の話は、私からずっと聞いてきた
ので、私の研究についても別に否定することもなかった」
そんなわけで、「兄の霊的研究に否定的でない」つまり、そういうことに違和感
を覚えない肯定的な義弟を霊媒にして、信次は「光を入れる」。すると、義弟は
外国語をしゃべりだしたというのです。同ページでは、義弟は理系で語学は不得手
であったが、霊媒状態で語る外国語はちがっていた、ということが書いてあります。
その内容はといえば、こうです。
「神理編」P40
「しかし、しゃべっている外国語の発音は、全く正確であった。しゃべっている
のは紀元前1300年前、エジプトに生まれたワンツースリー(通称)と名乗る
指導霊で・・・・」
よく読むと、おかしな話です。信次は古代エジプトの紀元前1300年代の言葉
をどうやって、「発音はまったく正確であった」と判断したのでしょう? 専門の
学者がいあわせて、そうだと確認したのでしょうか。あるいは、信次がその方面の
エキスパートで精通していたのでしょうか? 不可解な話です。いったい、どんな
規準で「全く正確」などと断じたのか。その根拠は、どこにも明示されてはいません。
これが本当なら、信次は、「紀元前1300年前の古代エジプト語」の発音を
正確にヒアリングできたということになります。事実なら大変な考古学上の大発見、
大功績となりそうなものですが、いまだかつて、信次や関係者の異言や過去世解説
が考古学者をうならせ、学術的成果を上げたという話をききません。
よく解釈しても、「全く正確な発音のはずである」という域を出ない思いこみ話
でしかないようです。
さて、この「義弟に光を入れてしゃべらせる」日のことが「現証編」では、どう
書かれているでしょうか。
「現証編」P53〜54
「7月3日のことであった。私の義弟はおよそ霊的な話に耳をかたむける人間では
なく・・・その話ももちろん信じることはなかった。彼もいろいろな霊的現象を目撃
したが、『私には信じられない』と常に否定の立場にいた。しかし、『もしほんとう
なら私にもできるだろうか』ということで・・・深夜、実験することにした」
また「日付」が異なっています。前者は「7月6日」後者は「7月3日」。
しかも、義弟の心霊現象への態度が違う。「神理編」では義弟は、「兄から神仏
の話を、幼時より聞きなれていて、別に否定はしない」方だったはずです。
「現証編」では、同一人物なのにもかかわらず「常に否定の立場にいた」などと、
逆の態度に書かれている。「日付」「義弟の態度」、いったいどちらが本当なの
でしょうか。あるいは、両方とも事実ではなかったということなのでしょうか。
そうして深夜の実験をして「午前1時、光を入れる」と、義弟の口から「昔の侍の
声が出てきて語りだしたのだった」。繰り返しますが、この「昔の侍」は、「神理編」
で「2月5日」に現れた「14代前のご先祖・竹之丞半九郎友幸」のことでしょう。
「神理編」では「2月5日」に「霊体」で現れたはずの「先祖の侍の霊」が、なぜ
「現証編」では「7月6日」に「義弟に憑いてその口を借りて」現われる形に変わって
しまっているのでしょうか。
「先祖の侍の霊」の出現の時期と形のこの食違い。真冬の2月はじめに起こったはず
の現象を、夏の暑い盛りに起こったと書くことは、「とりちがえ」にしては、あまり
にもひどすぎるものです。
例によって、「昭和45年8月」の講演会では、この義弟に光を入れる「実験」の
くだりが、こう語られています。
「7月の6日の日でございます。神信心のカの字も知らない弟に、光をやると同時に、
霊気がつくようになり、この世ともつかない世界へ自分が行ってしまいました。霊気が
つき天然色の姿を見、こういうような坂道にこういうような碑があり、このような
松の木、土地は赤土である。そして犬塚のように光っている。お寺があるが、ここは
どこだろう。
霊視で見ますと、中尊寺であります。それもやはり、弁慶というかって義経時代に
出た坊が、そのような姿を見せております。私は、心にもない弁慶が、弟に現象化さ
れているのであります」
「神理編」P36では、「義経」のことが語られたのは、「2月5日」で、信次の霊視
した先祖「竹之丞半九郎友幸」が語ったことになっています。ところが、講演では、
「7月6日」に「義弟が幽体離脱して」語ったことになっている。さらには、幽体
離脱して「中尊寺」を見たことは、「神理編」にも「現証編」にも書かれていません。
これほどの「神理編」と「現証編」、ならびに「講演」との「相違・食い違い」を
いったいGLAや信次の信者のみなさんは、どう説明できるのでしょうか。これは
どれかがつくり話か、あるいはどれも、その場かぎりの「創作」であるとみなすのが、
一番自然ではないでしょうか。
☆ 「ワン・ツー・スリー」と「フワイ」出現の断層
義弟を霊媒に、信次の前に「指導霊123」と「守護霊フワイ」が現れた日付や、
その後の状態を検証してゆきましょう。
「神理編」P40〜41
「7月6日の夜・・・123と名乗る指導霊で、なまりのある日本語だったが・・・
義弟の口を通して、私が考えていることと同じ理論をしゃべるのである・・・不明な
問題についてももっともわかりやすく説明した。私はそれを聞いていて、まったく
疑問を持つことが不可能であった」
「123」が「義弟の口を通して、私が考えていることと同じ理論をしゃべる」場面
は、信次自身がすでに「神理」の教義を、独力でつくっていたことを証明しています。
「神理編」のP43-44で、「結果を恐れぬ安らぎの境地に達した」あと、「私は筆をとり
神理の一編を書きはじめた」とあるのが証拠です。だいたい、自分が考えているとおり
のことを、人がしゃべったからといって、その内容に「疑問を持つ」人間などいません。
「その通り」とうなずくのが普通です。疑問を持つ必要がないのです。
「神理編」では自発的に「神理の一編を書く」ことをはじめた信次ですが、「現証編」
P75では「指導霊123は、正しい人生のあり方と、神の子としての証について、私
に本を書く事を指示したものであった」とことなる記述になっています。自発的に書
いたのか、指示されて書いたのか、ここにも食違いが生じています。「現証編」の記述
が、実は虚偽ではないかと疑う理由です。
このあと、「神理編」P41では、守護霊フワイが現れて、「7月9日」に「7月9日
から三日間ですべての方針を正せ」と、信次に大反省を迫ります。そのため、「わずか
4日で8キロもやせ(梅仙人注:この8キロ痩せたというのも疑わしいので後述)・・・
食事ものどを通らず、家庭は凍結したような環境に変わってしまった」ほど悩み苦しみ、
追い詰められました。そして、ついに三日目に「結果を恐れぬ安らぎの境地に達した」
ことで、新しい自分に生まれ変わり、使命を悟ることになりました。
こうして「神理編」における最終的な信次の「悟達の日付」は「7月9日」から
3日目の「7月11日」ということになります。
これが「現証編」ではちがっているのです。
まず、「現証編」P61「7月3日から食事がのどを通らない状態となった」とあり、
「神理編」の「7月9日から4日間で8キロやせた」という記述と矛盾しています。
「現証編」では、フワイたちが現れたのは「7月7日」、大反省を迫られるのは
「7月8日」です。「今日から3日間の猶予を与えるから悟れ。宇宙のどこへ逃げても
死んでもつかまえてやるから、覚悟して悟れるようにしろ」(P65)などと宣告されて
しまいます。
そして悩みぬいたあげく「ついに最後の三日目の12日がきた」(P65)とある。
しかし、「12日が3日目」ならば、「三日間の猶予をやるから悟れ」という宣告は、
さかのぼって「7月10日」にあったはずです。「悟れ宣告」が「7月8日」なら、
3日目は「7月10日」と書くべきところなのにです。
「神理編」と「現証編」の相違のみならず、同一の本の中での、この日数計算の
つじつまのあわなさはなんなのでしょうか?
果たして事実上の「立教日」といっていい、高橋信次の「悟った日=安らぎの境地
に達した日=使命を悟った日」の日付は、「神理編」の「7月11日」が正しいので
しょうか。それとも「現証編」での「7月10日」? はたまた「7月の12日」なの
でしょうか。悟りを得て使命を自覚した瞬間、そこに守護霊・指導霊の励ましと祝福の
メッセージが与えられたとありますから、「悟った瞬間」は、一瞬であって三日間に
またがるわけがないのです。いったい、信次は何日の何時ごろに悟ったというのでし
ょうか。
いったいどれを信じればいいのでしょうか。こんなに大事な、信次にとって、人生
最大のエポックメイキングな日付が、なぜこんなにぞんざいな書き方しかされないのか。
そんなに大事な日なら、こんないいかげんな記憶にはならないのが普通ではないでしょ
うか。やはり、これは「でっちあげ」の可能性がありそうです。
「神理編」と「現証編」の間での、「いったいどうなっているんだ」といいたくなる
相違は、信次のこの「悟った日」の件に関してまだあるのです。まず、信次の悟達する
瞬間と直後の描写を見ていただきましょう。
「神理編」P43
「暖かい心を取り戻すために、私はようやく義弟を支配している(指導霊)123と
対決することを決心した・・・私はすでに結果をおそれぬ安らぎの境地に達していた。
そのとき、『おまえはついに自分自身の使命を知ることができた・・・しっかりと
自分の使命を果たしなさい』と123は、私の心の中をすっかり読みとっていた」
ここでは、信次に「よく自覚した。使命を果たせ」と告げたのは「義弟の肉体に
かかって、その口を借りた指導霊123」であるという点を、まず御記憶下さい。
では「現証編」の同じくだりを検証しましょう。
「現証編」P71
「家に帰り妻に『今から123やシンフォーと対決をして、もし悪魔ならば善に変
えてやろうと思う』と語った。すると、私の心の中からシンフォーの声がした。
それは『今のような心を忘れるな・・・執着を捨てた心というものは・・・中道
を心のものさしとした、自らの智慧と勇気と努力の中から生まれるのだ』と語り出した。
ああ、やはり私の心を知っていると、私は思った・・・この現象は、あやまりもなく
義弟と同様な現象であり・・・言葉はシンフォーのなまりのあるそれであった」
この記述だと、「悟った」ことを認めてくれたのは「フワイ・シンフォー」であり、
しかも義弟を介さず、信次自身の「胸の奥から声がきこえた」ことになります。
しかも、そのフワイ・シンフォーは、「神理編」の123のように「使命を果たせ」
などとはいっていません。
この「悟った」直後の信次の状態に関する、「神理編」と「現証編」との間の、
ウソのようなちがいはなんでしょうか。
「悟った」信次に対して語りかけたのは、義弟にかかった「指導霊123」なのか、
信次の胸の奥からの声だけの「守護霊フワイ」なのか、どちらなのでしょう?
もし両方起こったのなら、「123からは義弟を通じて、かくかくしかじかの
メッセージをもらい、フワイ・シンフォーからは私自身の心を通じて言葉が与えら
れた」と、どちらの本にも記せるはずです。
しかも「神理編」では、この「悟った」日ののち「義弟から123が出ることは
なく、直接、123からもフワイからも私に通信されるようになった」(P44)と
書かれています。
ということは「フワイ・シンフォーの声が胸の奥から語りかける」前に、「現証編」
でもまず「義弟の口を借りて語る123」のシーンがなければおかしいことになります。
ところが、ごらんのとおり、「現証編」では「123」が義弟の口を借りて「使命
宣告」したことなど、まったく書かれていません。あたかも、最初から「フワイ」の
「胸奥からの声」が、まず信次の「悟った」ことを認めたかのように記されているのです。
さらに変なのは、「神理編」では、いま紹介したように、信次の悟った日以降、
「義弟を霊媒とすることなく、自分で直接メッセージを受け取れるようになった」と
書かれているのに、「現証編」ではそれと異なる後日談になっています。
「現証編」P72・74に、「悟った」ことを祝福するフワイの「心の中からの声」のあと、
「義弟が帰ってきた・・・123が義弟の口を通じて・・・シンフォーがいった言葉
と同じことを伝えたのであった」とあるのです。
すなわち、「悟った」あとも義弟は「霊媒」をやっているわけです。
それどころか、「現証編」P74-75にて、こう続きます。
「その後、義弟にはアインシュタイン博士の霊が出、極微の世界と極大の世界について、
その関連をしばらく説明し、不変的な問題について説明されていった」(P74)
「七月末ころまで義弟を通して語っていた、次元のことなる世界からの通信は、使命の
一段階が終わったのか、送られてはこなくなった・・・代わって・・・私に対しての教
えも、指導霊や守護霊たちから、直接おこなわれるようになった」(P75)
このように、「現証編」では、信次の悟達以後も20日あまり、義弟の「霊媒行為」
は続いたとあります。「神理編」の記述と、どちらが正しいのでしょうか。まったく
おかしな記述の食い違いです。
それにしても、「現証編」での義弟さんとは、いったいどんなお方なのでしょうか。
「霊的なことには否定的」だったのに、「光」をいれられて、たちまち霊媒になり、
義兄・信次のほとんど専属霊媒として、アルバート・アインシュタイン博士までより
つかせてしまうとは。
☆ 4日間で体重8キロ減った信次の怪
「神理編」において、前述したように、信次は守護霊フワイに「3日間で悟りを開け」
と命じられ、下記のように窮地に立たされたと書いてあります。
「私の悩みはなみたいていではなかった。特に神仏をまつらないにもかかわらず、
また祈る場所にも時間にも関係なく霊的現象がおこった。私はわずか4日で8キロ
グラムもやせてしまった」(「神理編」P41)
読者のみなさんに、注意を喚起したいのですが、上の「わずか4日で8キロもやせ
てしまった」という記述を、よく考えて下さい。なにげなく見過ごしてしまいそう
ですが、本当に大の健康な中年男性が、いくら人生の一大事の悩みに見舞われたと
しても、4日間に「体重8キロ」もやせられるものでしょうか。
少し考えてみれば、わかりますが、高橋信次が語っているような状況下で、4日間
で「8キロ減量」が医学的に起こりうるのか、疑問が生じます。特にダイエットを
した方や、病気で体重の減った経験のある方なら、おわかりになると思います。
なんらかの理由で激やせしたとしても、「4日で8キロ減」は通常は考えにくい
はずです。
いろいろ調べてみましたが、大病で起きあがれず、脱水症状にでもなっていない
かぎり、「4日間で8キロ減」は無理のようです。相当きついダイエットでも
「4日間で5キロ」が「健康を害さない限度」とされています。私自身の経験か
らいっても、その時間では1〜2キロがせいぜいです。
「8キロ減」になると、最短でも 「1ヶ月」もっと長ければ「3ヶ月」あるいは
それ以上、個人によってはかかるというのです。それを「4日間」で減らしたと
いうことは、まぎれもない「病気」の状態としか考えられません。重篤の病人で
脱水症状になっていてもおかしくない。とうてい立っていられる状態ではなく、
家族につきそわれて病院で横たわっていなければ不自然です。
いくら過大な苦悩を負って、ほとんど食欲がなくなったとはいえ、4日間の間、
ほとんどのまずくわずで、あちこちに出かけ、複数の人に悩み事を相談して歩ける
状態ではないはずです。
ところが、高橋信次は、「悟り」をもとめて高野山修行僧をたずねたり、上野
寛永寺住職に、相談しにいったりします。七月上旬の夏の炎天下にです。さらには、
タクシーに乗って上野寛永寺から千葉中山寺におもむき、帰途は電車にゆられて、
大森の自宅まで2時間かけて戻ってきたりもしています。
(「神理編」P41。「現証編」P66〜69)
さらに、この悩み苦しんだ3日間(あるいは4日間)についても「神理編」と
「現証編」に、記述の食い違いが見られます。
まず、期間が「神理編」では「4日間」、「現証編」では「3日間」になって
います。この日付の不正確さは理解できないものです。
また「現証編」(P66〜69)では、一連の経過が「神理編」よりくわしく書いて
あります。ところが、「神理編」にあるような「祈る場所にも時間にも関係なく
霊的現象がおこった」ことや「体重が8キロ減ったこと」ことは、どちらも一行も
書かれていません。
「現証編」での同時期の「霊的現象」といえば、上野寛永寺住職・古宇田老師の
手の痛みを、信次が「神に祈って5分間で治した」ことぐらいです。なぜ、「現証
編」では、ところかまわずの心霊現象や、体重の極端な減少が書かれなかったの
でしょうか。本当なら、心身の一大事で、何度でも特筆すべき現象です。それが、
より詳細な「現証編」の記述から、すっぽり抜け落ちているのはなぜでしょうか。
「現証編」は、「神理編」の2年後に出ています。記憶ちがいや忘れたということ
は、考えられません。むしろ、何か都合の悪いことがあったと、私は考えています。
それがなんであるかは推測の域を出ませんが、ありていにいえば「ウソ」がばれた
のではないかと思ってしまうわけです。
できるものなら、ぜひ古参幹部や未亡人のGLA会長高橋一栄に聞いてみたいものです。
高橋信次の苦悩の四日間(三日間)に、「神理編」でいうところの「ところかまわず
の霊的現象」「体重8キロ減」が、本当にあったことなのかどうか。
信次は同じ期間のこととして、「神理編」で「家庭は凍結したかのようになった」
と書いています。それが事実なら、妻・高橋一栄は記憶しているはずです。「現証編」
では、3日目の期限に、覚悟をきめた信次に、妻が温かいはげましの言葉をかけたと
あります。しかし、一栄は、夫が3〜4日間で8キロも激ヤセして、とても心配しな
かったのでしょうか。
普通じゃないやせ方をしている夫なのに、温かいはげましなど与えている場合では
なかったはずです。相談相手を探して寺をたずねまわる夫を制止して、強制的に
でも入院させねばならないはずです。それほど、「8キロの体重減」は、異常な事態
でしか起こり得ないということです。
実は、この「4日間で8キロ減」について、本職の医者の知人にきいてみましたが、
次のような回答がよせられました。
「それだけの期間で、それだけ減るというのは、かなりな水分の減量があったわけで、
それが本当なら、ふらふらになっているはずだ。普通体重というのは、減らそうと
思ってもなかなか減らせるものではなく、全体重に比して、いくら飲まず食わずでも、
それほど減るものではない。しかし、この場合はいくらなんでも水くらいは飲んだだ
ろうから、多分に誇張されていると見た方がよい」
本物のお医者さんが「信次の記述は誇張だ」とおっしゃっているわけです。私は、
この医師の言葉の方を信じます。
ここまでお読みになって、みなさんは体重8キロ減の現象が、「神理編」では
「4日間」、「現証編」では「3日間」で起こったという風に、食い違いがあること
を認識されたでしょう。ですが、中には「1日の差ぐらいなんだ」と思われる方も
いらっしゃるかと思います。
それでは、著書ではなく、講演会では高橋信次はどう語っているでしょうか。
「昭和45年8月」「46年10月」の講演の記録の一節では、それぞれ次のよう
にいっています。
「そういうようにして、一週間の間に、約8キロ近くやせてしまいました」
「私はわずか一週間の間に8キロもやせてしまいました」
「神理編」が上梓されて書店にならんだのは、奥付では「昭和46年1月15日」
ということになっています。ということは、実質は45年の年末には発売されていた
わけです。つまり、まったく同時期に、著書では「4日間で8キロやせた」と書き、
講演会では「1週間で8キロやせた」と、異なることを主張し、使い分けていたと
解釈できます。さらに2年後の「現証編」では「3日間」になっているのですから、
一貫性のなさには呆れる他にありません。
このような「ペン」と「口」の使い分け、「誇大表現」の癖が、信次にはつき
まとっていたようです。私が、現時点でいえることは「3日間」だろうと「1週間」
だろうと、「体重8キロ減」など、事実ではなかっただろう、ということです。
こうして調べると、どうも「123」も「フワイ」も「悟り」も、信次の妄想か
創作といわれても仕方がないようです。このような「自著」間での記憶や体験談の
食い違いは、ただの記憶違いや勘ちがいなどでは、とうてい説明しきれません。
「神理編」と「現証編」との間には、2年の歳月しか経っていないのです。極端な
記憶ちがいや記憶の劣化が起こるには早すぎます。この二つの著作や講演会との
発言の間のちがいを、なぜ今までだれも指摘しなかったのか、不思議でなりません。
そして、こんな矛盾と虚偽性の高い印象を与える著作を、信次も三宝出版もGLA
総合本部も、だれひとり気づかなかったか、あるいは気づいていても、指摘も修正
もしなかったのでしょうか。
信次が「悟った」というのは、多分、虚偽でしょう。「悟った」人物が、これほど
多くの食違いと矛盾を、筆でも口でも露呈するなど、とても考えられないからです。
☆ アインシュタインは正法者?
さて、前述した「現証編」における義弟に憑依したアインシュタインについてです
が、それに先立つこと2年前の「神理編」にも「科学編」にも、同博士の「霊界から
の神理講座」については何も書かれていません。これは「現証編」になって、いきな
りわきだしたエピソードです。
「アインシュタイン博士」の「霊」が「神理の講義」をした、その発言をぬきだし、
下記に列記しましょう。もちろん、本物の同博士かどうか確かめるためです。
「現証編」P74
「自然の法則こそが人間の在り方を教えている」
「疑問と解答の結果、神理に到達して行くのだ」
「神理は神の意志であり心だ」
「自分の心と神の心とが調和されたときに、本当の神の子としての
自覚が生まれるのだ」
「調和はみずからの正しい基準に則した心と行ないの積み重ねのな
かに完成されてゆくものだ」
「思うことは善と悪の原因を構成するから、すでに心の世界で現象
化されるのだ」
「行為は二次的現象である」
これのどこがノーベル賞受賞の天才物理学者のことばなのでしょう。
アインシュタインではなく、高橋信次自身の考えを、アインシュタインに仮託して
しゃべっているだけではないですか。
アインシュタインは1955年に物故していますから、この記述がなされた1973
年には、死後18年経過しています。生前のアインシュタインは、自分が深く関与した
原爆開発が、軍拡につながった責任を痛感し、核廃絶平和運動を展開しつづけて生涯
を終えました。
自分の研究がもとで、ヒロシマ・ナガサキ市民が大量死し、水爆戦争の恐怖を生んだ
責任に苦しんだのは有名です。その苦しみのあまり、「来世があるなら、今度はただ
の大工にうまれかわってきたい」と嘆いたほどです。
もし、本物のアインシュタインの霊なら、「平和と核廃絶」について講釈したはず
だと思います。それは博士の「宿願」だったのですから、死んでも、すぐに忘れら
れるものではないでしょう。
それなのに、ここでは「核」にも「戦争」にも「平和」にも触れていません。
まったくアインシュタインの生前の姿と共通する要素がないのです。
実は、「神理編」と連続して1971年に出された「科学編」では、「神理を科学
的に解説する」ということで、さまざまな物理学の公式や理論物理学の方面から
「神理」の実在を解説しています。
その中には、もちろんアインシュタインの公式「E=MC二乗」も出てきます。
しかし、「科学編」すべてを通じて、「この神理はアインシュタインの霊による
講釈である」という説明はひとつもありません。「科学編」では、アインシュタイン
の霊の出現や、そこからの教えを示すものは何もないのです。
それなのに、その2年近くあとに発行された「現証編」では、上述のような「体験
談」として、アインシュタインの霊による、神理の講釈が、いきなり飛び出すのです。
もし、本当に1968年7月の時点で「アインシュタイン霊」の出現があったの
なら、当然、1971年5月発行の「科学編」にも喜んで掲載されていなくては
ならないはず。
それが1行もないのです。アインシュタインの公式について、くわしい解説を、
信次がほどこしているにもかかわらずです。
つまり、このエピソードも、でっちあげの可能性が濃厚になってきます。
この「アインシュタインの霊」は、仮に現われたのが本当だとしてもニセモノ
でしょう。昭和43年7月に出現したというのも、「つくり話」だと思った方が、
ごく自然ではないでしょうか。
「GLA高橋信次の著書(『心の発見』など)は虚偽とまちがいだらけ2」に続く
<関連掲示板>
宗教法人GLA(高橋信次・高橋佳子)関連情報サイト・掲示板一覧(15年6/13版)
http://www.asyura.com/0306/bd27/msg/358.html
宗教法人GLA(高橋信次・高橋佳子)関連情報サイト・掲示板一覧2(15年7/1版)
http://www.asyura.com/0306/bd27/msg/530.html
GLA(高橋信次と高橋佳子)の異言等に関する『文芸春秋』特集記事(1977年)
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/228.html
GLA・高橋信次関連〜「異言」に関するアメリカ・カナダの専門学者の研究資料
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/233.html
GLA(高橋信次・高橋佳子)の「異言」は「演技性の伝染心理現象」の可能性有。
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/247.html
GLA(パナウェーブ成立に影響あった教団)高橋信次の著作を疑う
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/532.html
GLA高橋信次の著書『心の発見・現証編』にみる異言の虚妄
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/533.html