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【帝国の視点】サイード
http://www.asyura.com/0306/bd28/msg/432.html
投稿者 愚民党 日時 2003 年 8 月 14 日 17:58:03:QeeQrBW7FOUsw


下降転載記事はサイードの論文を翻訳されている方のサイトからです。
どなたか、すでに投稿済みでしたら、お許しください。
帝国をめぐる重要な論文だと判断いたしました。


------------------------------------------------------------ここから転載---
鍵となる要素は、帝国的な視点であった。遠く離れた見知らぬ土地の現実を自分のまなざしに従属させ、その地の歴史を自分の側の観点から構成し、そこの住民たちを臣民とみなし、その運命は彼らがみずから決定するのではなく、遠隔地の行政官たちが彼らにふさわしいと考えることで決定されるという見方だ。 このような勝手な見方をもとに、具体的な思想が発達する。例えば、帝国主義は善意にもとづくもので、必要なものだという説のように。
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帝国の視点
Imperial perspectives
Al Ahram Weekly 2003年7月24〜30日 No.648

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近代の大帝国を一つに取りまとめていたのは、決して軍事力だけではなかった。その軍事力を活性化させるもの、それを行使させ、支配や説得や権力の日々の実践によって強化するものが必要だった。英国はインドという広大な領土を支配したが、そのために投入されたのはわずか二、三千人の植民地官吏と数千人の兵士(多くはインド人)だけだった。フランスも北アフリカやインドシナで同じことをやり、オランダ人はインドネシアで、ポルトガル人とベルギー人はアフリカで同じことをやった。鍵となる要素は、帝国的な視点であった。遠く離れた見知らぬ土地の現実を自分のまなざしに従属させ、その地の歴史を自分の側の観点から構成し、そこの住民たちを臣民とみなし、その運命は彼らがみずから決定するのではなく、遠隔地の行政官たちが彼らにふさわしいと考えることで決定されるという見方だ。 このような勝手な見方をもとに、具体的な思想が発達する。例えば、帝国主義は善意にもとづくもので、必要なものだという説のように。 帝国をたばねる概念の接着剤について、誰よりも洞察に満ちた評論を行ったのは、ポーランド系英国人作家ジョセフ・コンラッドである。彼は次のように書いている「地上を制覇するということは、たいていの場合、わたしたちとは肌の色が違ったり、わたしたちよりは少し鼻の平たい人々からそれを奪い取ることを意味しており、詮索しすぎると、あまり気持ちのよいものではない。それを償ってくれるのは観念だけだ。 それを背後から支える観念。感傷的なみせかけではなく、一つの観念。その観念への私心のない信奉──うやうやしくおしたてまつり、犠牲を捧げることのできるようなもの。」

しばらくのあいだは、これで効き目があった。植民地の指導者たちの多くは、帝国の権威に協力するしか道はないという誤った考えを抱いていたからだ。 だが帝国の観点と現地の観点の相克は、必然的に対立し、長続きするものではないので、やがていつかは支配者と被支配者のあいだの対立が抑えきれなくなり、アルジェリアやインドで起きたように全面的な植民地独立戦争が勃発する。

アメリカによるアラブ・イスラム世界の支配において、そういう時がくるのは、まだとうぶん先のことだろう。少なくとも第二次世界大戦後、この地域におけるアメリカの戦略的関心は、いつでも利用できる豊富な石油供給を確保すること(および、これまで以上に管理を強化すること)にあり、それに加えてイスラエルが周辺諸国のどれひとつ寄せ付けぬような地域的優位性と力を持つように、膨大なコストをかけて保証することにあった

アメリカも含めて帝国というものはすべからく、おのれに対しても、世界に対しても、次のように語りつづけるのを常とする──自分たちは他の帝国とは違う、自分たちは直接・間接に支配している地域の住民たちを略奪したり管理したりするのではなく、彼らに教育を与えて解放する使命を背負っているのだ。 だが、そのような考えは現地に住む人々には共有されず、多くの場合は彼らの考えと真っ向から対立する。それだからといって、アラブ・イスラム世界に関するアメリカの情報、政策、政策決定の機構全体が、おのれの観点の押しつけを少しでも控えたわけではない。押しつけはアラブ人やムスリムたちに対してばかりではない。アメリカ人たちも、アラブやイスラム世界に関しては悲惨なほど不十分な情報源しかないため、同じ目にあっているのだ。

アメリカの外交は、アラビスト(アラブ研究家・親アラブ派)と呼ばれる人々に対してイスラエル・ロビーが加える組織的な攻撃によって恒久的な機能不全に陥っている。今日イラクに駐屯している150,000人のアメリカ兵のうち、アラビア語ができるのはほんの少数だ。 デイビッド・イグナティウスは、「アラビスト不在のつけを払うアメリカ政府」という7月14日の素晴らしい記事で、この点をついている。その中には、「アラビストたちはアラブの大義を引き受けるばかりか、アラブの自己欺瞞的な傾向をも身につけてしまう」ことが問題なのだという、フランシス・フクヤマの言葉が引用されている。

アメリカでは、アラビア語ができたり、アラブの膨大な文化的伝統について好意的な知識を持つことは、イスラエルを脅すものと見なされるようになっている。 メディアはアラブ人について卑劣きわまる人種偏見に満ちたステレオタイプを流す(たとえば、シンシア・オジックは6月30日の「ウォールストリート・ジャーナル」に載せたヒトラー主義的な記事の中で、パレスチナが「生の躍動を汚し、カルト信仰を邪悪な精神至上主義にまつり上げた」と述べている。まさに、ニュルンベルグのナチ党大会で放たれるにふさわしい言葉だ)。

アメリカ人は何世代にもわたって、アラブ世界はテロリズムと宗教的狂信を生み出す危険な場所であり、民主主義を嫌いユダヤ人を憎悪する宗教指導者たちが悪意をもって若者たちに根拠のない反米主義を教え込むところだと見なすようになっている。このような場合、無知がそのまま知識に変換される。 見過ごされることが多いのは、「わたしたち」が好む指導者(たとえば、イランのシャーやアンワール・エル=サダトのような)が登場すると、アメリカ人はその男が 勇敢な夢想家であると思いこみ、彼が「わたしたち」のために、あるいは「わたしたちの」やり方で動いてくれるのは、帝国権力の手口を理解しており、優勢な権力に調子を合わせることによって生き残ってきたからではなく、わたしたちと共通の原則によって動かされているためだと決めてかかることだ。 暗殺されてから四分の一世紀近くになるが、アンワール・エル=サダトは忘れられた不人気な男といっても誇張ではない。たいていのエジプト人がみるところ、彼が仕えた第一の主人はアメリカであり、エジプトではなかったからだ。 シャーについても同じことだ。 帝国の視点のゆがみは中東社会をさらにゆがませ、それによって苦しみが長引き、極端なかたちの抵抗と政治的な自己主張を誘発することになる。

これが特にあてはまるのはパレスチナ人の場合だ。轟々の非難を浴びたアラファトに代わりマフムード・アッバス(アブー・マーゼン)が指導者になるのを許したことによって、パレスチナ人は自己改革をしたと見なされている。だがそれは、帝国による解釈であって、実際の現実ではない。イスラエルも合衆国も、パレスチナに合意を押しつけるためにはアラファトが邪魔になると考えている。その合意はパレスチナ人のこれまでの主張をすべて抹殺するものであり、一部のイスラエル人が「原罪」と呼ぶものにイスラエルが最終的に勝利したことを表すことになるだろう。すなわち1948年にパレスチナの社会を破壊し、パレスチナ人から国を取りあげ、今日に至るまで無国籍あるいは占領下の民にとどめることになった事件の克服である。 アラファトが依然としてパレスチナの指導者であると広く一般に認められていることなど、どうでもよいらしい。わたしは彼をアラブや欧米のメディアで何年にもわたって批判してきたが、それでも彼は1996年の選挙で合法的に選出された代表であり、また他のパレスチナ人には決して真似のできないような正当性を獲得しているのだ。アブー・マーゼンのように、大衆基盤を欠く、アラファトに長年仕えた官僚あがりの人物など、とうていかなうものではない。

さらに、今ではアラファト体制にもイスラム主義者にも反対するパレスチナ人の無所属で筋の通った運動(INI:インディペンデント・ナショナル・イニシアティブ)が存在するのだが、彼らにはなんの注意も向けられない。アメリカやイスラエルが望むのは、てこずらせることのない従順な対話者だからだ。 そんな取り決めがうまく機能するかどうかは、後日に考えればよい。これが帝国のまなざしの近視眼的なところ、まさに何も見えていない傲慢なところである。 ほぼ同じパターンが、イラクやサウジアラビアやエジプトなどすべての他者に対するアメリカの見方に繰り返されている。こうした見方の問題点は、あまりに役に立たぬ思想的なものであることだ。それがアメリカ人に与えるのはアラブ人やムスリムについての知識ではなく、アラブ人やムスリムにそうあってほしいと彼らが思っていることなのだ。強大で、途方もなく豊かな国が、今日イラクで起こっているような準備不足で信じがたいほど無能で不手際な占領を行っていることは、知的に見れば茶番でしかなく、ポール・ウォルフォウィッツのような凡庸な知性の官僚がこれほど無能な政策を推し進めておきながら、自分は万事抜かりがないと人々に思いこませることができるということには、心の動揺を禁じえない。

この場合の帝国の視点の背後にあるのは、長年にわたるオリエンタリズム的な見方であり、アラブ人が一つの民族として自決権を行使することを許さないようなものだ。 アラブ人は自分たちとは異なっており、論理性がなく、真実を告げることができず、基本的に破壊的で残忍な存在であると考えられている。 1798年にナポレオンがエジプトを侵略して以来ずっと、このような前提に立つ帝国の支配がアラブ世界全体で続いており、それによって言語に絶する不幸が(若干の利益もあったのは否定できないにせよ)大多数の人々にもたらされてきた。 けれどもアメリカ人たちは、バーナード・ルイスやフワード・アジャミーのようにアラブへの悪意をあらゆる方法で撒き散らす米国政治顧問たちの甘言に慣れきってしまったため、自分たちがしていることは正しいことだ、なぜならそれがアラブ人というものなのだから、と考えるようになってしまった。これがたまたまイスラエルの教義でもあり、それがブッシュ政権の中心を占めるネオコンたちによって無批判に共有されていることが、火に油を注ぐような結果になっている。従ってわたしたちは、この地域でこの先何年も続く混乱と不幸に荷担することになる。中東における主な問題は、端的に言って、アメリカの力なのだ。いったいどれほどの犠牲が、何のために払われるというのだろう。

http://home.att.ne.jp/sun/RUR55/J/imperialperspective.htm

エドワード・サイード、オンライン・コメント
http://home.att.ne.jp/sun/RUR55/J/saidonline.htm

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