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【死体で発見された大量破壊兵器の権威】
最高の微生物学者であり、この分野の危険性について警鐘を鳴らす人物は死体で発見された。
この偽装自殺の犠牲者は秘密諜報の暗黒世界との緊密な関係を持っていた。
アメリカン・フリー・プレス
”WMD Authority Turns Up Dead”
http://www.americanfreepress.net/07_25_03/WMD_Authority/wmd_authority.html
By ゴードン・トーマス
デビッド・ケリー博士はMI5やMI6、または他の諜報機関に雇われていたわけではない。しかし、彼は世界中の第一級のスパイ組織と独特な関係を享受していた。
英国、フランス、ドイツ、北アメリカ、日本およびオーストラリア、これら全ての国の組織が彼の助言を求めていた。
博士のオフィス、ロンドンにある国防省の軍事拡散制御部会(Ministry of Defense Proliferation and Arms Control Secretariat )の2/35号室には問い合わせの電話やeメールが押し寄せる。
ケリー氏は微生物の株の種類やボツリヌス毒素を充填した弾頭の数に精通しており、また、中国の最新の生物兵器素材生産の様相やシリア、パキスタンの培養池の状態にも詳しかったが、これらは皆、問い合わせをしてくる国々が販売したものだった。
彼は大量の自身の研究資料を自宅に保管していたが、デスクトップ・コンピューターには何万もの秘密文書や写真が収納されていたのだ。
スパイでない人間(ケリー氏のこと)にとっては、これらはどんな諜報機関員でも羨むものだろうが、データの集積にしか過ぎなかった。
このような収集法をいぶかる人もいるだろうが、彼は国防省や外務省の上司にこの通常ではない保管法の安全を保証し、了承を取り付けていた。
彼は自分の忠誠を表現するのに、よく「私の信ずることが正しかろうと間違っていようと、また、真実であろうとなかろうと。」と言っていたものだ。
実際には、彼は閉鎖的な学術の世界から抜け出した学者であり、常に危険を伴う秘密諜報の世界に住みながら大量破壊兵器を追っていたのだった。
1995年以来、ケリー氏は英国情報部MI6の全面的な提携下でモサドのために働いていた。また彼はFBIが炭疽菌のエイムズ株を追跡するのを助ける主要な役割も演じていた。これは棒状で胞芽を形成する細菌であり、911事件の発生とともにアメリカ中の手紙に発見され、広範なパニックを引き起こしたものだ。
彼はロシアの微生物学者であるウラジミール・パセチニク国外逃亡にも手を貸しているが、パセチニクは「惑星上の人口の3分の1を破壊できる」という終末的な生物兵器の研究に関わっていた人物である。
ケリー氏は中国の人民解放軍外交部長であるシュー・ジャンピン(Xu Junping)大佐が亡命した際に中国の生物戦プログラムについて尋問することを許された唯一のCIA外部の人間でもあった。
ケリー氏は諜報界の仕事ゆえに、サダム・フセインの悪名高い暗殺部隊や中国秘密諜報機関であるCSISの暗殺リストに載ることになった。
しかし、英国の安全保障機関であるMI5、MI6、ロンドン警視庁の特別部および、オックスフォードシャーのケリー氏の自宅警護に日々当たるべきテムズ・バレー警察は揃ってケリー氏の周辺警護をしないような決定を下していたのだった。
「意見としては、彼に注目が集まることがないようにして警護するというのは困難だというものでした。」とロンドンの諜報関係者は言い、「また、ケリー博士自身も彼の生命が危険に晒されているということを受け入れたくはないようでした。」とも述べている。
しかし、彼の死の直前には突然に自分が警護網のなかに閉じこめられていることに気が付いてしまっただろう。非公開の議会聴聞委員会では2人の国防省の刑事官がこの59歳の科学者に同行していた。
ここではケリー氏はBBCラジオの国防問題記者であるアンドリュー・ギリガンに対して情報を提供したソースであるのかどうか聴聞されているが、このギリガン記者の報告が後にブレア政権がイラクの大量破壊兵器に関する、いわゆる「魅力化」を行ったという騒ぎに発展した。
このBBCとブレア政府との衝突は衆目の関心の中心となり、英国と合衆国はイラクに対してでっち上げの大義を掲げて戦争を仕掛けたのか?という論争になった。
BBCの看板ラジオ番組である「トゥデイ」が導火線に火を付け、大量破壊兵器が全く発見されないということで何週間にも亘って論議はくすぶり続けた。ケリー氏自身もイラクでは大量破壊兵器は見つからないだろうという懸念を表明していたが、まさかこの懸念が公になることはないだろうと考えていた。
ケリー氏の死後48時間を経て、BBCは彼が情報源だったことを認めた。
しかし、これがこの戦争で鍛えあげられて科学者が自殺する理由として納得のいくものなのだろうか。彼は、いままでイラクの警察機関にもよく対峙し、諜報の世界でも無事に歩いて来れた人物なのだ。
以下に全く未解決の疑問点を挙げる:
●ケリー氏が2度目に公選委員会(Commons Select Committee)に現れてから以降、MI5の職員は彼を尋問追求していたが、この時彼等は何を知りたかったのか。
●ケリー氏が自宅に戻ったとき、妻のジャニスは彼の態度や外見を見てひどくショックを受けているが、なぜ彼はそれほどまでに動揺していたのか。
●7月17日、木曜日の午後になぜケリー氏は突然に外出したのか。
●彼の死体が発見された後、MI5の職員と英国の生化学研究機関であるポートン・ダウンの法務科学者がケリー氏の自宅を捜索しているが、これは何故か。
彼等は封印したカバンに多量の資料を詰めて立ち去った。警察はそれらの資料が彼の死となにか関係があるのかについては何も言わなかった。
*MI6はケリー氏に対してどんな情報をイスラエルに流してもよいと許可していたのか。また、モサドから英国への見返りは何だったのか。
*ケリー氏は、ロシアのコーパス6として知られる秘密の天然痘研究施設が行っていた実験について何を知っていたのか。この施設はカラ松と樺に閉ざされたシベリアの辺鄙な街であるコルツォボの不規則に広がる施設群のなかにある。
1972年にこの惑星上から根絶された天然痘ウィルスは、生物兵器として開発されたものは致命的だ。公式には、このウィルスのサンプルは2箇所の高度に管理された冷蔵庫に保管されているが、この2箇所とはアトランタの疾病管理センターとコルツォボである。
コルツォボを訪れたケリー氏は、そこで彼に接触する諜報関係者から「天然痘のストックは北朝鮮やイランなどの国の手には、まず存在するでしょう。また、アル・カイーダのようなテロ集団も持っている可能性が高いです。」という警告を受けた。
このような主張はケリー氏の死がますます、彼のスパイ組織絡みの仕事と関係しているという確信を抱かせる。
ケリー氏のモサドとの関係は1995年の4月から始まったが、この時彼は2人のMI6職員と共にロンドンからニューヨークへと旅立った。この街のイスラエルの隠れ家で彼等は2人のモサド職員と会見したが、これにはカナダの秘密諜報機関およびFBIの職員達も同席した。
この会合の目的は、32トンに及ぶ細菌の培養地、これは基本的には殺人的な細菌を培養するためのもので、不法にモントリオールからイラクに輸出されたものだが、これをどのように追跡するかというものだった。
すでに世界的な生物兵器の専門家であったケリー氏はこの培養地の特定に関して決定的な演じることになった。この作戦に関する詳細は今日に至るまで秘密にされているが、当時のモサド側の指揮官であったシャブタイ・シャビットは後年、ケリー氏の「偉大な能力」に賛意を表している。
このことは、第一次湾岸戦争後に国連がイラクの大量破壊兵器を暴くための計画を監督を指名する際にも、この科学者が第一指名だったことで補強される事実だ。
ケリー氏のこの能力はまた、サダムの暗殺リストに彼を載せることになった。しかし、結果的にはサダムは1991年以降、イラクが再建されている時に国連の高官を暗殺することに対する報復に怯えて断念することになったのだった。
イラクで仕事をしている間も、ケリー氏は英米露の3国間で交わされた協定に基づいて、ロシアの生物兵器プログラムを解体する作業に参加していた。
モスクワで彼はロシアの最高の微生物学者であるパセチニクと会ったが、この人物は当時53歳の化学者でサンクト・ペテルブルグにあるthe Ultrapture Biopreperations Institute の所長だった。
2人は親しい友人となり、MI5の報告書によると、パセチニクは自分が大規模な秘密の計画に関わっており、これは天然痘やペストのような生物兵器開発するものだとケリー氏に語るまでになっていたという。
ケリー氏はこの疫病、ペスト(Yersinia pestis)は「黒死病」をもたらし、1384年にはヨーロッパの人口の3分の1を一掃したことを心得ていた。これは空気感染し、肺炎のような咳を介して猛威を振るう。
ケリー氏は聞いた話をクリストファー・デイビスに話した。この人物は当時のMI6の職員でロンドンのトラファルガー広場近くのメトロポール・ビルにオフィスを構えていた。デイビスは国防情報職員の監査役であり、よく知られた生物化学兵器の専門家でもあった。
現在は引退してバージニアに住んでいるが、デイビスによれば彼の仕事というものは、「細かい断片を全て繋ぎ合わせて何らかの絵にすることだ。」と述べている。
ケリー氏のもたらしたニュースは、いつもは物静かで控えめなデイビスを色めき立たせた。デイビスは、今でもADI-53としてしか知られていないMI6の上層部員に報告を入れた。
数週間の内にMI6はケリー氏の協力のもとに、パリで開かれた科学会議に出席中のパセチニクを「持ち帰る」という作戦を敢行したのだった。
ユーロスターに乗り、ロシア人とMI6の世話人はロンドンに到着した。
パセチニクは隠れ家に連れて行かれたが、これは多分ケリー氏が死の直前に諜報職員に締め上げられた場所と似たようなものであっただろう。
ケリー氏はパセチニクの審問を監督したが、その後このロシア人は保健省が運営する応用微生物学研究所に職を与えられた。
2000年には、この人物はレグマン・バイオテクノロジーという会社を立ち上げたが、その会社紹介には、これは私企業であり「抗生物質に替わる強力な代替物の提供のために働いている。」とある。
ケリー氏はたびたびこの会社を訪れ、時にはこのロシア人をポートン・ダウンへと連れて行った。
そこではパセチニクは公務秘密法に署名したが、これは、そこでの仕事について口外を禁止するというものだ。ケリー氏及びポートン・ダウンの他の全ての科学者も同様な拘束に支配されていた。
しかし、モサドの情報源によれば、パセチニクはDNA解析における指導的な専門家であったが、この洗練された研究分野は生物兵器を開発する上で極めて重要であったので、このことが彼をモサドから守ることになったという。
2001年の11月2日、その後友人たちは彼が非常に健康であったと証言しているが、この64歳のロシア人はサリスベリー郊外の村の自宅で死んでいるのが発見された。
死因は打撲によるものと断定された。
ケリー氏は嘆き悲しむ葬儀の会席者の一人にはなれなかった。彼はそのような会席者が好きではなかった。それはどんな冠婚葬祭でも同じだった。
ケリー氏自身の死においても、彼は似たような奇妙な状況を楽しんではいないに違いない。