現在地 HOME > 掲示板 > Ψ空耳の丘Ψ28 > 277.html ★阿修羅♪ |
|
300人委員会・船橋洋一のコラムと広島平和記念公園での事件は
無関係ではありません。
船橋洋一のメディア・レイプ文体は、なにものかを誘導したのです。
-------------------------------------------
ヒロシマ、ナガサキ、第3の原爆 船橋洋一
http://www.asahi.com/column/funabashi/ja/TKY200307310122.html
(2003/07/31)
---------------------------------------------
「原爆の子の像」の折り鶴焼かれる 監視カメラに3人組
http://www.asahi.com/national/update/0801/009.html
1日午前8時ごろ、広島市中区の平和記念公園で、「原爆の子の像」の周りに設置された折り鶴の保管施設から火が出ているのを通行人が見つけ、119番通報した。約10分後に消し止められたが、約14万羽の折り鶴が燃え、保管施設が焦げてガラスが割れるなどした。近くの監視カメラに不審な3人組の若い男が映っており、広島県警は放火とみて器物損壊容疑で捜査している。
調べでは、保管施設はステンレスの骨組みに強化ガラスをはめた構造。高さ約2メートル、幅約1メートル、奥行き約3メートルのブースが9基、半円状に像を囲んでいる。そのうち隣り合った2ブースが全焼した。目撃者によると、一時はブースの屋根の上にまで炎が上がったという。
県警によると、現場南側のレストハウスに市が設置した監視カメラに午前7時51分ごろ、3人の若い男が保管施設を出入りする姿が映っていた。その直後に、炎が上がったという。
ブースは夜間、出入り口をビニールシートで覆って施錠してあるが、この日は午前7時50分ごろに公園の警備員が鍵を開けたという。
現場に駆け付けた平和記念資料館(原爆資料館)の畑口実館長は「原爆の日を控えてこんなむごいことをするなんて、ひどすぎる。憤りを通り越して情けない思いだ」と話した。
原爆の子の像は、千羽鶴を折りながら原爆症と闘った故・佐々木禎子(さだこ)さんをモデルに58年、全国の児童らの募金で建てられた。
02年2月、像に供えられた約5万羽の折り鶴が焼かれる事件があり、これを受けて市は監視カメラを設置。同年4月、折り鶴を風雨から守る保管施設ができた。
(08/01 10:58)
------------------------------
船橋洋一のメディア・レイプ文体は、またしても読者を恫喝しています。
300人委員会における2005年体制、第3の原爆投下宣言であり、
船橋洋一は英米世界権力の核戦略大系に屈服せよと、刷りこんでおります。
後ろから読んでみます。
---------------------------------------
(2003/07/31)
0)ヒロシマ、ナガサキ、第3の原爆
1)人一人いない。音一つ聞こえない。
2) 二つの原爆ピットのちょうど真ん中あたり、巨大なガジュマル(榕樹)が四方に木陰をこんこんと注いでいる。
3)皇帝ネロの師で非業の死を遂げたローマの哲人、セネカの言葉である。
4) 「生死を決めるパワーを誇るべきではない。相手に恐怖を与えるパワーに、いずれ自分も脅かされることになるだろうから」
5) その後60年近く、人類は3発目をかろうじて回避し、生存を保ってきた。しかし、9・11テロ後、世界は大量破壊兵器とテロが結びつく恐怖に囚われることになった。そしていま、その恐怖に誰よりもおののいているのはほかならぬ米国のように見える。
6)3発目の原爆は、投下されなかった。
7) エノラ・ゲイの話になったとき、「いったい、どういうつもりでつけたのだろう。母親はなんと思っただろうか」。信じられないという風に頭を振った。ティベッツは機首左側面に自分の母親の名前を書き込んだのだった。
8)核兵器だろうが、通常兵器だろうが、無差別爆撃に変わりはなかった。
9) 「国民として、軍人として義務だから爆撃をした。しかし、それは決して誇れることではない」
10) ちょっと前に、2人とサンフランシスコで昼食を共にした際、父親は「5万フィートの上空からでも人間が焼かれたにおいを感じた」と自らの爆撃体験を語った。
11) 私の知人の元米外交官の父親(76歳)は、「3発目が投下されることになれば、爆撃手としてそのB29に乗り込むことになっていた」と後に告げられた。彼は当時、グアムの314航空団に所属。横浜、水戸、大牟田など全部で18回、爆撃した。
12) 「もし、14日に降伏の知らせがなかったならば、トルーマンは少なくとももう一つの原爆を日本のどこかの都市に投下したであろうことは間違いない。それでも日本が降伏しなかったならば、九州侵攻の際、原爆を戦術的に用いたことも大いにあり得ただろう」(「ヒロシマ、ナガサキの陰に隠れて」論文)
13) 原爆史研究の第一人者、バートン・バーンスタイン米スタンフォード大教授は次のように記している。
14) もっとも、マンハッタン計画の責任者だったグローブズ将軍は、13日には、3発目の原爆を本土からテニアンに輸送しないことを決めていた。それはいつでも使用できる状態に置かれていたが、マーシャル陸軍総参謀長はその前々日、それを使うことに難色を示していた。グローブズは迷ったが、日本は降伏するだろうと独自に判断し、送らないことにした。それがテニアンに運ばれていたら8月19日には使える状態になったはずだった。
15) 3発目の原爆投下が必要な場合、広島と長崎に2回にわたって行った攻撃方式が日本側に知られてしまった以上、異なった方法で攻撃するべきであると米軍は検討を重ねていた。軍部はこの時点でなお3発目の原爆投下について考えていたのである。(奥住喜重・工藤洋三共訳『米軍資料 原爆投下の経緯』による)
16) 米国は、長崎爆撃の後、原爆攻撃の準備を停止し、日本が降伏するかどうかを見守った。しかし、13日になっても、日本が降伏する様子を見せないため、3発目の原爆攻撃に備えて再び模擬爆弾を投下したのである。
17) それもリハーサルだった。
18) 509混成群団の仕事は2発の原爆投下で終わったのではなかった。45年8月14日、つまり日本の降伏の前日、彼らは7発のパンプキン爆弾を愛知県下に投下した。
19) この部隊は他のB29爆撃部隊とは異なり、原爆投下前、パンプキン爆弾と呼ばれる原爆の模擬爆弾(1万ポンド爆弾)を日本各地に投下した。飛行コースに慣れさせ、目標を確認するためのリハーサルだった。原爆の威力を最大限誇示するため、投下予定地は通常爆撃リストから外した。
20) 少し行ったところ、原爆投下専門部隊、509混成群団の駐屯地があったところだと教わる。隊長は、広島に原爆を落としたエノラ・ゲイの機長、ティベッツ大佐だった。
21) 米軍が、島の北西部にあるチュル・ビーチから侵攻したのは1944年7月である。海岸には上陸舟艇のクランクシャフトの残骸が波に洗われている。
22)案内役のガイドが言った。
23)「何度、椰子を植えても土にアグリゲート(粒団)が含まれているので死んでしまうんです。そのたびに植え替えているようです」
24)広島に投下したウラニウム型のリトルボーイと長崎に投下したプルトニウム型のファットマンをB29に積み込んだ地点である。巡洋艦インディアナポリスで米本土から部品を持ち運び、ここ太平洋のテニアン島の工場で組み立てた。長方形に区切られたピットにはいずれも、椰子の木が一本立っているだけだ。
25)テニアン島の原爆ピット(くぼんだ場所)を訪れた。
26)ヒロシマ、ナガサキ、第3の原爆
-----------------------------------------------------