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永井俊哉講義録 第15号
戦争に勝ったかどうかを判断する時、どのレベルで勝ったのかということを考えなければならない。戦争には、戦術(tactics)・戦略(strategy)・政治(politics)という三つのレベルがある。政治のために戦略があり、戦略のために戦術がある。優れた戦術があっても戦略がなければ戦闘に勝てない。また戦闘に勝っても、政治的外交的成果につながらなければ、意味がない。戦術と戦略の区別は、マキャベリのそれに由来するといわれるが、クラウゼヴィッツは、「戦略」と「戦術」を明確に区別する必要性を、その著書『戦争論』の中で次のように説いている。
「戦闘は相集まっていくつかの単位を成す。そこでここからまったく種類を異にする二通りの活動が生じる。即ち第一は、この戦闘を按排し、指導する活動であり、また第二は、戦争の目的を達成するためにこれらの戦闘を結びつける(組み合わせる)活動である。そして、前者は戦術と呼ばれ、後者は戦略と名付けられるのである。(中略)戦術は、戦闘において戦闘力を使用する仕方を指定し、また戦略は、戦闘目的を達成するために戦闘を使用する仕方を指定する。」
どのような武器を使ってどのような攻撃ができるのかは、戦術レベルの問題である。例えば、湾岸戦争では、レーダーや赤外線の探知を避けるステルス戦闘機や命中精度の高い誘導システムを備えた巡航ミサイルトマホークなどが使われた。こうした武器を使った効果的な攻撃方法が戦術である。
多国籍軍は、こうしたハイテク兵器で、味方に人的被害をもたらすことなく、敵の牙を抜き、しかる後に地上軍を投入してクェートの領土を回復する作戦を立てた。この作戦は多国籍軍の戦略だ。戦略は、政治という目的と戦術という手段を結びつける戦争の設計図である。
イラクからクェートが撤退を始めた時、パウエル統合参謀本部議長がブッシュ大統領に「あと24時間あればイラクの戦車部隊を全滅させることができる」と追討の意見を具申したが、ブッシュはそれを却下した。もしフセインの軍隊が壊滅したら、イラクに軍事的空白が生じ、イランが漁夫の利を得る可能性がある。「なぜブッシュは、フセインの息の根を止めなかったのか」と人はよく首をかしげるが、アメリカにとっては、どちらも敵であるイランとイラクが対等に対峙してくれるのが、一番良いのである。イラク軍を完全につぶさなかったのは、まさに大統領の政治的判断による。実は多国籍軍の中核を担った英米は、第二次世界大戦での苦い失敗から教訓を得ていたのである。
第二次世界大戦は、1939年9月にドイツのポーランド侵攻に対して英仏両国が対独宣戦したことによって始まった。この頃イギリスでは、次のようななぞなぞがはやっていた。
ムッソリーニ、ヒットラー、チェンバレン(当時のイギリス首相)、ダラディエ(当時のフランス首相)のうち、勝つのは誰か?
Mussolini,
Hitler,
Chamberlain,
Daladier,
Which
Wins?
答えは、各単語の3番目の文字を拾ってみれば分かる。Stalin(スターリン)である。このなぞなぞは冗談で作られたのかもしれないが、その答えは正解であった。
第二次世界大戦は、イギリスが相互援助条約を結んでいたポーランドを守ることを直接のきっかけとして起きる。ポーランド政府要人は、ドイツ軍の侵攻を受けて、ルーマニアに逃れ、そこからパリ在住の元上院議長ラシュウィッチを大統領の後継者に指名した。パリの亡命政権はその後ロンドンに移って英仏と共にドイツと戦う。
ところが、ナチスドイツが敗北した後もこの亡命政権が返り咲くことはなかった。1944年12月に、スターリンは、ソ連占領下ですでに誕生していたポーランド共和国臨時政府を認めるように英米に主張した。チャーチルはロンドン亡命政府の要人がポーランドに帰国後総選挙するよう強く主張したが、ソ連は反共産分子を大粛清した後で総選挙をしたので、ポーランドにはソ連の傀儡政権ができてしまった。
同じことはユーラシア大陸の反対側でも起きる。アメリカは日本から中国市場を手に入れるために、日本と戦うことになったわけだが、日本を打ち負かした結果、中国は、ソ連の影響下に入ってしまった。イギリスもアメリカも、戦闘には勝ったが、政治では負けたのである。
チャーチルとルーズベルトは、カサブランカ会議で「英米両国は、日本とドイツの無条件降伏を達成するまで戦争を容赦なく継続する決意だ」と声明した。これは戦争のやり方としては下手なやり方である。相手を丸ごと敵に回すことなく、敵国の反政府勢力においしい有条件を約束しながら、内部から崩して行く戦略が、味方の損害を最小にするためにも、またとんびに油揚げをさらわれないためにも必要なのである。
スターリンが勢力拡大に成功した背景には、連合軍の中核となったアメリカのルーズベルト大統領が、社会主義に好意的であったことがある。ルーズベルト大統領と言えば、今でもアメリカ国民の間で最も人気のある大統領だが、彼がアメリカの国益に本当に貢献したかどうかは、とても疑問である。
ルーズベルト大統領は、ニューディール政策で、アメリカ経済を世界恐慌から立ち直らせたということになっている。しかしその成果はヒットラーのケインズ政策よりはるかに見劣りがする。本題と関係がないので詳しく述べないが、近年の実証的研究から、ニューディール政策は失敗であったと言われている。
ルーズベルト大統領のもう一つの失敗は、ソ連が将来アメリカの敵になることを予測していなかったことである。彼はソ連と一緒に、日本が無条件降伏するまで時間をかけて日本と戦うつもりだった。もしルーズベルトが大統領職を続けていたら、日本はその後ドイツと同様に、分断されていたかもしれない。ところがルーズベルトは4月12日に死去した。新たに大統領となったトルーマンは、単独で日本を占領することに方針転換する。彼は日本に誕生した鈴木貫太郎内閣を降伏のための内閣と考え、「無条件降伏とは軍隊の降伏である」というやや譲歩した声明を発表する。日本の無条件降伏を日本軍の無条件降伏へと修正したわけだ。
当時鈴木内閣は、戦後米ソが対立するであろうことを認識していた。ならば、一刻も速くアメリカと和平を結び、ソ連の脅威に備えるべきだった。ところが鈴木貫太郎は、そうした政治戦略を持つことなく、ポツダム宣言を黙殺し、国民には本土決戦の首相談話を発表していた。いつの時代でも政治戦略の能力がない政治家を指導者とする国民は悲劇である。
http://www.nagaitosiya.com/lecture/0015.htm