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永井俊哉講義録 第145号
豊臣秀吉は、晩年、1592年(文禄の役)と1597年(慶長の役)の二回にわたって、明を支配するために朝鮮半島に兵を送ったが、戦果は芳しくなく、秀吉の死後、日本軍は朝鮮半島から撤退した。なぜ、秀吉がこのような出兵を行ったのかについては、様々な説が出されているが、全国統一や大坂城の築城と同様、織田信長の未完のプロジェクトを引き継いだというのが真相に近いようだ。
ルイス・フロイスの『日本史』によれば、信長は「毛利を平定して、日本六十六ヶ国を支配したら、一大艦隊を編成して、中国を武力で征服する。日本は我が子たちに分かち与える」と自らの構想を語っていたとのことである。フロイスは直接信長と会見した人物なのだから、この記述は信用してよい。では、信長は、なぜ中国を征服しようと考えたのか。
信長は、日本史研究者の間では、型破りな革命児として認識されている。国内的にはその評価は間違っていないのだが、世界的に見るならば、信長は、当時の先進国のグローバル・スタンダードである絶対王政を目指していたわけで、その意味では、むしろオーソドックスな路線を歩んでいたとみなすことができる。つまり、信長は、ポルトガルやスペインが行ったような海外侵略を企てていたわけだ。実際、フロイスは、信長のことを絶対君主と呼んでいた。
絶対王政とは、中世封建政治から近代民主主義政治への移行期(16-18世紀)に現れた、絶対君主による中央集権政治のことである。気候史的に見れば、絶対王政の時期は近代小氷期の最盛期(マウンダー極小期)と一致している。地方分権的な封建体制から中央集権的な絶対主義を経て個人分権的な民主主義へいたるプロセスは、寒冷化は権力の集中を、温暖化は権力の分散をもたらすという気候史の法則に合致している。
絶対王政は、1.常備軍、2.官僚制、3.重商主義、4.植民地獲得、5.王権神授説などを特徴とするが、これらは、信長が実行したかまたは実行しようとしたことである。すなわち、信長は、
他の戦国大名に先駆けて兵農分離を行い、農閑期以外でも大軍を動員できるようにして、近代的な常備軍を設立した。
家臣を土地から切り離し、安土城下に住まわせ、中央集権的な官僚制を作ろうとした。
楽市楽座により国内産業の育成に力を入れ、堺や大坂といった有望な貿易港を支配することに、熱意を示した。
中国を植民地化しようと企んでいた。
天皇やその他の既存の宗教的権威を否定し、自らを現人神として崇める新宗教を作ろうとした。
1から3は、よく指摘されるので、何もコメントすることはない。4についてはこれから詳しく述べることにして、5について少し補足しておこう。ヨーロッパにおいて、日本の天皇に相当する宗教的権威は、ローマ教皇である。ローマ教皇は、十字軍遠征以降、世俗的権力を失ったものの、宗教的権威は依然として保持していた。同様に、日本の天皇も、建武の新政以降、世俗的権力を失ったものの、宗教的権威は依然として保持していた。スペイン国王は、ローマカトリック教を信奉し続けたが、イギリスのヘンリー8世は、個人的な離婚問題が原因とはいえ、イギリス国教会を設立し、ローマ教皇と決別した。この違いが、イギリスがスペインから世界経済のヘゲモニー(覇権)を奪う一つの要因となるのだが、信長も、天皇の権威を便宜的に利用することはあっても、その傘下に入ることなく、むしろ、自らを現人神として拝ませるハ見寺を建立したぐらいであるから、イギリス型の王権神授説に基づいて、自らの権力を神聖化しようとしたと考えることができる。
織田信長を同時代のイギリスの絶対君主、エリザベス1世と比べてみると、面白い共通点に気が付く。当時のイギリスは、弱小な島国で、これに対してフェリペ2世が君臨するスペイン・ハプスブルク朝は、ポルトガルとその植民地を併合して、世界最強の帝国、所謂「太陽の没することのない国」となっていた。イギリスは、スペイン領のネーデルランドで起きたオランダ独立戦争で、新教側を支援したために、スペインと対立することになるのだが、イギリスがスペインのヘゲモニーに挑戦するということは、東アジアのヘゲモニー帝国である中国に、弱小な島国・日本が挑戦するのと同様に、リスクの大きい冒険だった。
エリザベス1世は、宿敵スペインに打撃を加えるために、海賊に私掠特許状を与え、スペインの商船を襲わせた。イギリスの海賊のなかでも、ドレイクとホーキンズは有名で、彼らは、後にイギリス艦隊がスペインの無敵艦隊を破るアルマダの海戦で活躍する。織田信長も、伊勢・志摩を拠点とする海賊だった九鬼嘉隆を織田水軍の総司令官に抜擢し、大安宅船(鉄板を張り、強力な大砲を搭載した当時最強の軍艦)を建造させ、第二次木津河口の海戦で毛利水軍を破ることに成功している。
ところが、豊臣秀吉は、明との戦争で、海賊の力を活用することはなかった。むしろ逆に「海賊法度」を出して、海賊の活動を禁止してしまった。当時、明が倭寇対策に苦心していたことを思うと、敵に塩を送るような愚策なのだが、秀吉がこの「海賊法度」を出した動機は、同時に出した「刀狩令」の場合と同じで、国内における兵農分離と階級制度の固定であった。信長が行った兵農分離とは異なって、秀吉が行った兵農分離は、下克上の世を終わらせるためのものだった。近代的な分業による機能分化と前近代的な身分の固定化は似て非なる政策である。
信長が、旧体制の権威と秩序を無視して、有能で功績のある人材をいくらでも取り立てようとしたのに対して、秀吉は、旧体制の権威と秩序を尊重し、身分の固定化を図った。『川角太閤記』にこんなエピソードがある。賤ヶ嶽の合戦で、柴田勝家側について戦った佐久間盛政は、恩賞目当ての百姓に捕らえられた。すると、秀吉は、盛政を斬るとともに、「百姓には似合はざる事を仕出したるものかな、見せしめのため、褒美のため、はた物にあげよ」と言って、その百姓12人を磔にした。秀吉自身、小作農の子であったが、いったん権力を握ってしまうと、自分たちの既得権益を守るために、身分の壁の越境を認めなくなったわけだ。
信長と秀吉の間にあるこの格差をイギリスとスペインの間にも見つけることができる。エリザベス朝時代のイギリスにも、もちろん、身分制度の壁はあった。しかし、ドレイクがそうであったように、農民の子として生まれても、功績があれば、貴族としての称号が得られたし、逆に貴族の子孫であっても、功績がなければ、称号と土地を失い、平民の身分に没落した。これに対して、スペインの階級制度は厳格で、いくら才能と経験があっても、平民が軍の指導者となることはなかった。
この違いが、アルマダの海戦の勝敗につながった。無敵艦隊に乗り込んだスペインの貴族たちは、陸上戦の経験は豊富だったが、海上戦の経験は少なかったが、だからと言って航海経験のある平民を指導者にすることはできなかった。ドレイクは、海戦における大砲の重要性を認知していたが、スペインの戦士である貴族たちは、大砲を平民の武器として軽蔑し、重歩兵隊を組織して、敵船の甲板に乗り移り、矛槍で肉弾戦をしようとした、つまり海上戦を陸上戦にしようとしたのだ。しかし、イギリス船の大砲の射程距離は長く、スペイン船は、イギリス船に近づく前に、撃破された。こうして、アルマダの海戦は、スペインの完敗に終わった。
秀吉の朝鮮出兵は、アルマダの海戦の4年後に行われた。日本軍は、陸上戦では連戦連勝であったにもかかわらず、海上戦では李舜臣が率いる朝鮮水軍に連敗し、このため補給路が断たれ、明まで攻めることはできなかった。では、なぜ日本の水軍は、連敗したのか。朝鮮の亀甲船が優秀だったからか。そうではない。李舜臣が一時失脚した時、日本の水軍によって亀甲船の艦隊が全滅している。日本水軍が制海権を失ったのは、李舜臣に匹敵する、あるいはドレイクに匹敵する海戦のエキスパートがいなかったからだ。
信長なら、たぶん、朝鮮・中国の沿岸に詳しい倭寇を活用していたであろう。しかし、秀吉はそうしなかった。すでに大名になっていた九鬼嘉隆は、日本国内の海賊の出身だったから、朝鮮沿岸の事情は詳しくなかった。これに対し、李舜臣は、潮の流れの逆転を利用するなど、地元である利点を利用して、少数の亀甲船で日本の大軍を破った。
私は、当時の日本に中国と戦う必要性があったとは思わない。だが、ここでは戦争それ自体の是非を論じることはやめよう。私が問題にしたいのは、戦争のやり方である。もし、日本がエリザベス1世と同じ方法を用いていたらどうなっていたかをシミュレーションしよう。当時の倭寇には、もちろん日本人もいたが、その多くは、明に不満を持つ中国人で、いわば反体制ゲリラ組織だった。もし、日本が倭寇を背後から支援したら、どうなっていたか。明は、たぶん李氏朝鮮とともに艦隊を率いて日本を征伐しようとしたであろう。信長は、敵を誘き寄せて叩く戦法をよく採ったが、この方法なら、元寇の時と同様、日本が勝てたかもしれない。そして、敵の水軍力を削いでからであれば、明に対する侵略戦争は成功したかもしれない。
ともあれ、日本は海外侵略に失敗し、国レベルでの対外進出を断念し、鎖国への道を歩む。他方、スペインを破ったイギリスは、新たなヘゲモニー国として、対外積極策に出る。こうして、ユーラシア大陸をはさむ二つの島国は、その後、対照的な運命をたどることになる。
http://www.nagaitosiya.com/lecture/0145.htm