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海賊の話 「カルタゴ マケドニア ギリシャ」
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投稿者 力なき市民 日時 2003 年 7 月 19 日 18:42:36:


海賊の話
「カルタゴ マケドニア ギリシャ」
裏小路 悠閑
7月14日

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 当時のローマにとって、地中海西部、つまりシシリー、サルディニア、コルシカ、そしてスペインは東部海域に比べ政治的軍事的、そして経済的にも重要度が高く、この海域を往来する海上交通はマッシリアを中継してなされておりました。
 ところが、アルプス山脈が海岸にまで迫ったリグリア地方(現在のモナコ公国辺りからジェノアを経てピサに至る地域)に住むガリア人が、陸上だけはでなく海上にまで勢力を伸ばして海賊活動を盛んに行った為、マッシリアへの軍事援助が優先され、アドリア海の警察行動は他人任せになり勝ちでありました。
 ゲンティウスから没収した船の配分を受けたギリシャ系の諸都市が、それなりの働きをしたお陰で、アドリア海の南部海域は平穏を取り戻しましたが、ナロ河の北には掠奪行為に情熱を燃やす雑多な氏族が盤踞して勢力を振るい、ローマの領土であるイッサ島やナロ河に面するダオルセイの町を、しきりに襲っておりました。
 事態解決のためにダルマチアに送り込まれたローマの使節団が、手荒な扱いを受けたこともあって、ローマは討伐を決意して、前157年軍団を派遣し、彼らの主要拠点であるデルミニウムを破壊することまでしましたが、決定的な結果を出せませんでした。
 結局この年の討伐は、一連の「ダルマチア戦争」の始まりに過ぎませんでした。
 マヨルカ、メノルカの島々で良く知られているバレアレス諸島については、ローマは海賊撲滅の目的で原住民を根絶やしにしたり人口を減らしたりした後、退役兵や無産者市民を募って移住させて効果を上げましたが、ダルマチアでは事情が異なり、この荒っぽい手法も通用しませんでした。
 ローマの攻撃によって原住民の力が衰えたり、人口が減ったりすると、ダルマチアでは忽ちにして近隣や後背地から、新たな民族の移動が起こって、この勢力の空白を埋めてしまい、もとの木阿弥になってしまうのです。
 このような状態は、帝政ローマになってオクタヴィアヌスが、遠くドナウ河の南岸までの内陸を制圧し、統治する様になるまで続きました。オクタヴィアヌスと同時代を生きたギリシャの地理学者ストラボンは、「ダルマチア人は未だに文明とは縁のない生き方をしている」と言っておりまして、機会さえあれば海賊業に勤しんでいたものと思われます。

 前202年のザマの会戦で敗れた後に、ローマの同盟国となったカルタゴは、スペインの豊かな鉱山を失い、海上交易はギリシャ人に牛耳られて、手足をもぎ取られた状態となりましたが、その後の半世紀の間、農業を中心に営々として復興に力を注ぎ、ぶどう酒やオリーブ油を輸出して繁栄しました。
 しかし、カルタゴが生産する良質で低価格の農産物は、ローマの政界で大きな発言力を持つ、大土地所有者の利益を脅かすことになってしまったのです。
 そして、隣国のヌミディアもマシニッサ王の善政の結果、遊牧専一の生活様式を次第に農耕に拠るものに移して勢力を伸ばし、カルタゴと紛争を起こす様になっておりました。
 カルタゴもヌミディアも、ともにローマの同盟国ではありますが、ローマの扱いには歴然とした差がありました。ヌミディアはザマの戦闘では、ローマに同盟して戦い、マケドニア戦争でも、シリア戦争でも実戦部隊を前線に派遣しておりますが、カルタゴは小麦をローマに売り渡しただけの協力でありましたから、当然といえば当然のことでしょう。

 カルタゴは紛争の調停をローマに持ち込みましたが、運の悪いことにハンニバル戦争に従軍して苦労した経験を持ち、スキピオ・アフリカヌスを弾劾する事で政界に乗り出し、反カルタゴに凝り固まった大カトーが、未だに矍鑠として政界を牛耳っていて、事あるごとにカルタゴの壊滅をアジっておりました。
 傭兵を軍隊の中核に据える軍制のカルタゴが、大きな財力を持つことは、ハンニバルに塗炭の苦しみを味あわされた時代を知るカトーにとって、絶対に座視出来ぬことであったのでしょうし、その裏には大土地所有者の利益を代弁する意図も見え隠れするのです。
 前149年、無理難題を押し付けられたカルタゴは、ローマとの開戦を決意して、カルタゴ市の防備を固め食糧を備蓄し、兵器の製造に打ち込み籠城戦に備え始めました。

 丁度この頃マケドニアの地で、先王ペルセウスの庶子フィリップスを名乗る者が現れまして、ギリシャ人達の反ローマ感情を煽り立てておりました。政治的洞察力を失って既に久しい多くのギリシャ人は、自由と独立を声高に叫んで盛り上がり、ローマとカルタゴの間に戦端が開かれるのに乗じて、アカイア同盟のコリントが中心になって叛乱を起こしました。
 ローマにしてみれば、ギリシャへの軍事介入は三度目になり「又かよ」と言った気分であったでしょう、その戦後処理は従来見られなかった厳しいものに様変わりします。
 前147年ローマは軍団を派遣して、コリントを跡形もなく完全に破壊し、コリント市民は奴隷化し、アテネとスパルタは自治都市として残しましたが、ギリシャの大部分とマケドニアをローマの属州としました。ギリシャ人は自由と独立の為に立上がってその両方を失い、代わりに法と秩序を得たことになります。

 一方、降伏勧告を最期まで拒否して戦ったカルタゴ市も、前146年に落城して五万人が奴隷化され、ローマに勝るとも劣らぬ歴史と文化を誇った大都市は、破壊されて更地となり、塩を播かれて不毛の土地となりました。

 カルタゴを壊滅させた時点で、ローマの版図はシシリー、サルディニア、遠近二つのスペイン、ガリア、イタリアから見てアルプスの北側のトランスアルピナ、カルタゴの領土であったアフリカ、そしてマケドニアとなりました。
 版図の拡大によって、海上交通の重要性は更に高まったにも拘らず、ローマには依然としてその大きさに見合う独自の大きな商船隊を維持する意志はなく、海運もその安全も他人任せにし、間欠的に必要に応じて援助をすることでお茶を濁しており、不思議な感じがします。
 シリア戦争でローマと肩をならべて海戦を戦ったロードスの海民達は、ローマの後ろ楯を失うと急速に衰えますが、ローマにはこの警察力の空白を埋める意志は非常に希薄であったと言って良いでしょう。その結果は既にご承知のごとく、地中海全域に海賊の跳梁跋扈を許すことになるのです。

 カルタゴとマケドニアの属州化によって、共和政ローマの崩壊が始まり、その後版図を広げる度に瓦解は加速され、カエサルの暗殺で終わったのだと思います。

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