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ニコラ・フリーズ(Nicolas Frize)
(人権同盟刑務所委員会責任者)
訳・富田愉美
ミシェル・フーコーの研究は、刑の意味が刑そのものにほとんど先行する形で、行動や道徳、社会的側面から、収監者を統制する原動力としてあることを指摘する。「個々人の身体を調教し、その連続的行動を記号体系化し、個々人を手落ちのない可視性によって見張りつづけ、そのまわりに観察・帳簿記入・評点記入の全装置をつくりあげ、累積され集中される知を個々人にかんして組みたてる」のだと彼は言う(1)。秩序と規則正しさを具現するために、監獄内の労働が導入され、「厳しい権力の形式を知らず知らずに伝達する。しかもその労働は身体を規則的な運動に従わせ、興奮動揺や不注意を除去し、階層秩序と監視を押しつける」。それは「自分の想像力の逸脱を防ぐ確かな薬」となる。今日では、こうした価値観は、さらに別の姿を見せている。監視は、もはや(単に)個々人の行動をことごとく制御するためという以上に、監獄内での個々人の動静を統制するためのもの、まさに統制を目的とするものとなった。そこには、暴動や集結、不正取り引きや自殺を防止し、また脱走を抑えるという意思が働いている。
このところ、様々な原因が重なり合って、刑をめぐる論争が起こっている。一つ目は、ここ2年間にサンテ刑務所の主任医の著作出版(2)、扇情的な私的事件(いかにも派手な報道に向いた政治スキャンダル、殺人、婦女暴行)をめぐるメディアの過熱、上下両院の報告書の作成と配布(3)、日の目を見なかった(ジョスパン前内閣が検討していた)法改正、関係する社会福祉関係者や非政府団体・組織の結集などが相次いだ結果、人々の問題意識が次第に高まってきたことだ。二つ目の原因は、次のような好ましくない統計が明らかにされたことだ。果てしない量刑の長期化によって行刑のインフレが恒常的に進み、様々な面で耐え難いほどの人員超過が起こり、刑務所施設は老朽化して不適切なものとなっている。
三つ目の(とはいえ劣らず重要な)原因は、ごく最近になって生じたものだ。これは、罰則化や厳罰化(例えば交通事故、薬物使用、あるいは不法滞在・労働争議・売春・ホームレスの刑事犯罪化など)を推進する強硬派の大臣や議員が与党の地位を得たことと結びついている。こうした政策が、ゼロ・トレランス(寛容は無用)の執行を適応するよう、警察官、裁判官、陪臣員たちを駆りたてている。そこでは、ありとあらゆる方面にわたる新手の「ピンポイント爆撃」が用いられる(未決勾留の濫用、刑期の延長、未成年者を対象とする閉鎖施設の設置、個人あるいは集団によるテロへの対策を理由とした抑圧政策など)。
数年前から、裁判問題や道徳、公的秩序への関心が高まる中で、ある慎重な疑問が浮上しつつある。それは、刑の意味に関する疑問である。司法が自らの仕事を遂行し、それに磨きをかけている間にも、ある問いが社会に生まれてきている。その目的はどこにあるのか、と。
被拘置者の中には、司法について、とりわけその正義について、疑問を抱く者もいる。「なぜ訴訟の前に刑が科されるのか」。未決勾留は、来るべき予審の結論をひどい先入観に浸してしまい、予審判事の調査活動を否定し、力関係の上に置く。そして、拘置された被疑者の被害者感情を助長する。未決勾留とは事実上、まだ言い渡されていない刑の執行である。このように事前に、暴力的に、不当に、当局と向き合わされた被疑者には、自分の犯した罪の責任を受けとめること、予審についていくこと、判事を前にして建設的な立場を示すことは不可能である。また、勾留に関わる身辺の処理や、学校の登録や職業訓練、仕事をすることもできない。判決時に言い渡される拘禁刑は、既に不当に行われていた収監と混同されることとなり、意味あるものとして受けとめられることは期待できない。
「重すぎる刑は、誤審だという気持ちをかきたてる」「司法は万人に同じやり方で適用されてはいない」「なぜいっそ18年の刑でなく10年の刑なのか」。こうした不公平感や反感は、それとともに自らに科された刑に意味を見出す力を奪ってしまう。刑は理解されることがない。評決は抽象的で、説明は与えられないか不可能であり、主観的で不合理なものと感じられるため、冷静な分析は困難である。下された刑は、危険性を隔離する時間なのか、償いの時間なのか、それとも反省に必要だと考えられた時間なのか。この報復は、被害者が受けた苦しみの時間に釣り合っているのか。短い刑期より長い刑期を終えた者のほうが危険でなくなるということなのか。不釣り合いなほどに長期の投獄が命じられる理由は、執行される拘禁に明らかに内実が欠けている状況に見出すべきなのだろうか。
「彼らは私に何を伝えようとしているのか。私に何を期待しているのか」。こういった大きな疑問が、時として受刑者のうちに、日常の不条理に輪をかけるように湧き起こる。「ゴミ箱は空のまま出せって言われてるんだ」「自分は何学年にいるんだったかな」「料理がだめだったからペンキ塗りをしてたんだけど、今じゃそれもおじゃんだ。大工の練習だってしてたのに。ようやく明かりが見えかけてたとこだった」。ある少年は、移送の折にこう訴えた。「どこへ行くのかと聞いてみた。何も答えてくれなかった」「僕は人に見られないようにフードをかぶろうとした。脱げと言われた。恥ずかしい思いをしろってことさ」。あるいは「長期受刑者」は次のように自問する。「どうやって日々を過ごせばいいんだ。何かをしようとすれば障害ばかり。何も続かない」
生き残るために、苦しみや諦めに日々負けないようにしなくてはならないとき、いかなる存在理由も決して示されることがないときは、欲求や必要性、苦しみの元凶、不足の感覚を否定することに解決法が見出される。「まあまあさ」「何もなしってことなら、喪失感だってなくなるから、それで平気だ。もう何も欲しくない。もう何も望まない。今の僕は、時間と因果に刻まれながら、その時々を生きる存在と化している」。こんなふうに孤独の淵で、自分は自分でないという状況下で、刑は痛みをともなわないだけではない。いかなる答えも反響も聞こえてくることがなく、何の目当ても出来事もなく、継続も切断もなく、題目も構成もなく、養われるものも取り去られるものもなく、根本的に破壊的であり、さりとて苦しみはないも同然で、つまりはまったく意味の外にある。
「世論」の圧力
訴訟の段階では、数々の要因が判断の認識を左右し、被疑者との関係を利したり害したりする。内気であるとか、話し下手であるとか、言葉遣いや抑揚に癖があるとか、整理して話をできないとか、あるいは反対に、人を惹きつける存在感があるとか、尊大というほどでない落ちつきがあるとか、素直なところや「誠意」があるといった要因が、裁判官が言い渡すことになる刑との照応関係が形成される上で、否定できない役割を果たしている。
同様に、観察記録に記される予防拘禁中の態度もまた、裁判官の認識に影響する。拘束を受けた被疑者の態度は、行刑を管理する上で最有力な判断要素とされることになる。反抗的な人物であるとなると、その態度は歓迎されぬものと捉えられるし、押し黙っているようであれば、それが憔悴によるのか熟考によるのかを問わず、その態度は面白くないものとされる。こんなふうに被疑者と当局が互いの腹を探り、相手の出方を予想し、様子を窺い合うという状況下で、刑の意味は、両者の表面的な関係から生み出される烙印や調書とともに吹き飛ばされ、どうしようもなく見失われることになる。
訴訟の帰結はそれだけで、大いに疑問に値する。刑の意味、それは宣告されることにあるかのごとくだ。その後に起こることは、司法にとっては問題でも心配でもない。それは刑を執行する行政の問題である。空間と呼ぶのが適切かどうかは措くとして、刑が行われる場所を刑そのものと混同してはならない。刑というものは、まずなにより公的な象徴であり、裁定と決着という形をとった言明なのである。一方、ある考え方が、徐々に予審判事の心に形成されるようになってきた。刑の意味を執行機関に託すのではなく、受刑者自身に託してしまえという考え方だ。受刑者は自らの刑を行い、考え出し、生き、中身を空にしたり満たしたりする。それを拒んだり(自殺や脱走)、それに負けたり(ノイローゼや自閉症)することもある。いずれにせよ、刑とどうつきあっていくか、困惑や苦しさ、無力感(それら自体が処罰の目的でもある)をどのように引きうけるかは、受刑者次第なのである。
司法事実の取り扱いに関する意識の変化は、単線的なものではない。人々の無理解や政治観に応じて揺れ動いている。よりよい判決を求めるあまり、司法の目的に反する結果を招くという矛盾に陥ってしまうこともある。法律というものは、集合的利益を枠組みとして個人的利益をなだめ、調整し、調和させるために作られている。この考え方に立てば、司法の意味は、その帰結するところ、結論部分にある。人が司法に助けを求めるときには、時すでに遅し、法律による統合が社会の構築やまとまりに役立たなかったということなのである。抑制、報い、教育、責任、警告、償い、除去といった思考が、各人の捉え方がまったく分からない数々の基準に応じて動き出す。一つ一つの決定は、相互に孤立している。したがって我々は、処罰の実施にともなうリスクが測定され、相殺されることや、このリスクが社会に新たな(直接的、間接的な)危険を及ぼさないこと、行為や思考、シグナルの形で、不寛容や憎しみ、暴力を生み出さないことを期待する権利があるだろう。
しかし、社会はそのような捉え方はしていない。人々の家の窓や裁判所の中から、ニュースや新聞紙上から、騒々しい叫びが繰り返し聞こえてくる。再犯の消滅、犯罪者の社会的統合、いわば普通の状態というのは退屈きわまりなく、条件付きの状況が最善の条件の下に展開された事態というのは大した感動をもたらさない、ということらしい。事件をもたらす原動力は、すなわち失敗である。失敗が大きいほど、とりたてて他に議論も抗議運動も起きていないとしても、司法に対して大々的な「公開尋問」が開かれる。
司法の失敗は(空中ブランコ乗りの落下のごとく)幻影にすぎず、社会は自らの限界を知って、ひとりで頑なになっていく。悲喜劇の中で見られるように、社会は自らの受けた侮辱に報い、場合によっては憤らなければならないと思いなす。こうして、1980年には(軽罪と重罪をあわせて)5156人を5年以上の刑に処すよう駆りたてていた政治的な怒りは、2000年には1万2841人を同様の刑に処すに至った。実に2倍以上である。厳格な処置と失敗がこれほど激しく増えたことの責任は誰にあるのか。大衆の期待だと称して悪意を撒き散らし、司法官や陪審員を駆りたてているのは誰なのか。誰が、こうしたプロパガンダの機械を作動させ、「世論」なる実体のない想像上の概念を導き入れたのか。
世論などというものは、もちろん存在しない。だが、各々が手に入れる可能性、つまり誰もが飲みこんでしまう可能性のある毒が存在する。その毒はイデオロギーを作りだし、議論を無にし、プロパガンダの方法を磨き(この毒の強みはその多様性にある)、事実の伝達を統制する。この毒は、怖がらせては安心させ、安心させては怖がらせ、無知につける薬を名乗っている。その名は、メディアである。法律違反が一つあれば、報いを一つ。これが、大向こう受けしそうな台本の二つの基本事項である。単純で威勢のよい、すごいドラマができるだろう。そこには良心や情熱を呼び覚まし、古典ドラマやB級ホラー映画の愛好家を唸らせるものがある。富者と貧者、善と悪、反逆者とブルジョワ、労働者と道楽者の戦いが鼓舞される。
「私は、他の世紀、他の時代にいる」とある被拘置者は言う。
なんとナンセンスな話であることか。
(1) ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(田村俶訳、新潮社、1977年)。
(2) ヴェロニク・ヴァスール『サンテ刑務所の主任医』(ル・シェルシュ・ミディ出版、パリ、2000年)。
(3) 「フランス刑務所の状況に関する下院調査委員会報告」(フランス下院、2000年6月)、「フランス行刑施設の収監状況に関する上院調査委員会報告」(フランス上院、2000年6月)。
(2003年6月号)
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