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「文芸春秋」03年7月号は、戦後新制度の下で初代宮内庁長官となった田島道治の遺品資料の中から発見された、田島の起草になる昭和天皇裕仁の「国民への謝罪詔書草稿」全文と、田島の伝記(『田島道治――昭和に「奉公」した生涯』TBSブリタニカ刊 02年7月)の著者・加藤恭子が同文書を発見したいきさつとその背景を解説した文章「封印された詔書草稿を読み解く」をトップで掲載している。
同「謝罪詔書草稿」の全文はわずか五百十一字。その内容は次のようなものだ(『』内は「詔書草稿」原文。それ以外は大意)。
「『朕』(ちん、天皇の自称)は即位以来二十余年、祖先と国民のことを思って日夜勤めてきたが時の流れに逆らえず、列強と事を構えるにいたり、ついに悲惨な敗戦と今日の惨禍を招くに至った。死者とその遺族に思いを致すとき、真に心痛の念を禁じえない。また産業の不振、物価の高騰、衣食住の窮迫による人びとの塗炭の苦しみは、国家未曾有の災いであり、『静ニ之ヲ念フ時憂心灼(や)クガ如シ。朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧(は)ヅ』。身は宮中にあっても心は安からず、国民のことを思えば、その負荷の重さに途方にくれるばかりだ」。
加藤恭子は先に紹介した解説文の中で「ここには敗戦の責を一身に負い、自己を責め苛み、国民に率直に謝罪しようとする天皇のお姿がある」と述べている。しかしわれわれは天皇の戦後における実際の言動に照らして、そうした評価を認めることはできない。
自分は敗戦の責任を取って退位するわけにはいかない、というのが「草稿」後段の主張である。
「今日の情勢を見るに『希有ノ世変ニ際会シ天下猶騒然タリ』。己を潔しとするあまり、国家百年の憂を忘れ、目先の安らかさを求めることは責任を取ることにはならない。『国運ノ再建、国民ノ康福ニ寄与』することで祖先と国民に謝罪したい。『全国民亦朕ノ意ヲ諒(りょう)トシ中外ノ形勢ヲ察シ同心協力各(おのおの)其天職ヲ盡(つく)シ以テ非常ノ時局ヲ克服シ国威ヲ恢弘(かいこう)センコトヲ庶畿(こいねが)フ」。
つまり世情騒然たる中で、あくまで自らの責任を果たす覚悟をしているので、国民諸君も協力して「非常の時局」を克服し、国威を回復せよ、というわけだ。
「謝罪詔書草稿」の発見者である加藤恭子によれば、同「草稿」が書かれたのは一九四八年の秋から冬にかけてであった。東条英機ら東京裁判のA級戦犯二十五人に判決が下ったのが四八年十一月十二日、七人の死刑が執行されたのが十二月二十三日(すなわち皇太子だった現天皇明仁の誕生日)である。「草稿」起草は東京裁判の判決・死刑執行の時期と平行しているのだ。
ここで少し時間をさかのぼってみよう。一九四六年のA級戦犯裁判の開始(五月三日)を前にして、同年三月から四月にかけてGHQの要請に応え、天皇の戦犯免責のための弁明書として語られたものが昭和天皇「独白録」であった。この「独白録」採録の直前に、昭和天皇裕仁は当時高まっていた「退位論」を拒否する立場を明らかにしていた。
「それは退位した方が自分は楽になるであろう。今日のような苦境を味わわぬですむであろうが、秩父宮は病気であり、高松宮は開戦論者でかつ当時軍の中枢部にいた関係上、摂政には不向き。三笠宮は若くて経験に乏しいとの仰せ」(木下侍従次長の三月六日『側近日誌』――吉田裕『昭和天皇の戦後史』・岩波新書より)。
この田島道治執筆による「謝罪詔書草稿」について、加藤恭子は書いている。
「言うまでもなくこのような重大な文書を、宮内府長官の独断で書けるものではない。あまつさえ、『朕』で始まる詔書に至っては、たとえ田島がその必要を感じていたとしても、天皇の下命なしに筆を執ることは到底できないことだ。……東京裁判の判決が下るこの時期こそ、天皇の謝罪の気持ちと留位の決意を国民に伝えけじめをつけることが必要と、天皇と田島の意見は一致を見たのであろう」「天皇と長官(田島)は一心同体とでもいうべき作業で、『謝罪詔書草稿』の文章を練ったと推察できるのではないだろうか」。
この加藤の推察が正しいのだとすれば、昭和天皇裕仁は、東京裁判開始直前と同様に、東京裁判の判決が下る前後にもあらためて自らの「弁明」と「退位」拒否の意思を明らかにする意向だった。それは加藤が評価するような「国民への謝罪」ではなく、「天皇制護持」のための確固たる決意を示すためである。
この「詔書草案」の後段において「全国民」が「同心協力」して「非常ノ時局ヲ克服シ国威ヲ恢弘センコト」を強調しているのは、戦後革命期における労働者階級の攻勢を阻止しようとする危機感の体現であった。その点で一九四六年一月一日に出された「新日本建設の詔書」(いわゆる「人間宣言」)と同一の論理につらぬかれている。同詔書は「長きにわたる戦争の敗北に終わりたる結果」、「我国民」はややもすれば「焦燥に流れ、失意の淵に沈淪」しようとしており、「道義の念頗(すこぶ)る衰え、為に思想混乱の兆あるは洵(まこと)に深憂に堪えず」と述べて、「共産主義思想」の浸透への危機意識を示していた。「天皇制護持」に向けた天皇の「独白録」や「謝罪詔書」は、「共産主義への思想的防波堤」たろうとしていた裕仁のなみなみならぬ決意を物語るものである。
ピュリツァー賞を受賞したハーバート・ビックスの『昭和天皇』(講談社)が昨年、邦訳刊行された。また占領期の裕仁・マッカーサー会見や、裕仁・リッジウェー会見で通訳をつとめた松井明の文書も発掘・紹介(豊下楢彦「昭和天皇・マッカーサー会見を検証する」、『論座』02年11・12月号参照)された。それらは、米占領期における天皇裕仁の果たした役割を、あらためて論議のまないたにのせることになった。
これらの文書は、新憲法下の占領期においても、GHQとの関係で天皇裕仁が内閣をバイパスして超憲法的な政治的イニシアティブを発揮し、「最高権力者」としてふるまってきたことを明らかにするものであった。「昭和天皇」の侵略戦争責任を回避するために、「政治の実権を持たない立憲君主だった」という、裕仁自身と天皇制擁護論者が打ち出したイメージは、大きく転換せざるをえなくなっている。豊下楢彦氏が『安保条約の成立』(岩波新書)などで緻密な推論をからめてえぐり出した、安保問題をめぐる裕仁の「二重外交」は資料的にも確認されることになった。
それは豊下氏が言うように「旧憲法下において天皇が『親政』と『立憲君主制』の間を行き来したように、新憲法下では『親政』と『象徴天皇制』の狭間を縫うという`無責任性aを象徴する」(『論座』02年11月号)ものなのだ。この点で、日本共産党の新綱領案の戦後象徴天皇制規定は、現実を隠蔽し、裕仁の果たした超憲法的役割を免罪するものである。
今回の「文芸春秋」による「衝撃の歴史的文書発見」と銘打った「謝罪詔書」の大々的宣伝は、崩れさろうとしている「政治的実権を持たない慈愛深い平和主義者」裕仁像を立て直し、裕仁の「人徳」を称揚する政治的役割を担っている、と捉えるべきだろう。
「平成」の天皇制像は、いま大きな再編の過程にある。この動向を見据えて天皇制批判の思想と実践を練り上げていかなければならない。 (平井純一)
http://www.jrcl.net/web/frame0377d.html