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いわゆる「奴顔」からの脱皮について
「バグダッド陥落」のテレビ映像をみつめた。サダム・フセインの銅像を米兵と一緒に引き倒すイラク人。星条旗を掲げ、米軍を歓迎する群衆。歓迎の中を進駐する構図は珍しくもなく、ヒットラーの軍隊も常に「歓迎の旗の中を進駐」していた。
米国の情報管理の中で伝えられる映像などに言及する意味もないのだが、私はイラク群衆の表情を食い入るように観察した。思い出したのは、中国の作家魯迅が使っていた「奴顔」という表現である。奴隷にふさわしい顔、つまり虐げられることに慣れて、常に強い者に媚びて生きようとする人間の表情である。そこには、自分の運命を自分で決めていくことをしない哀しく虚ろな目が存在していた。
翻って、日本人として自分達の顔を鏡に映してみて、いかなる表情が映っているであろうか。やはり「奴顔」が映っているのではないか。少しはものを考える日本人なら、イラク攻撃が理屈に合わない不条理なことを直感していたはずだ。「テロとの戦い」といっても、イラクが「9・11」に関与していた証拠はない。「大量破壊兵器」といっても、米国の開示する情報だけを鵜呑みにして「査察」も「立証」も完結されぬままの殺戮行為に筋が通らぬことは分りきっていたはずだ。
それでも、日本人は「現実主義」の名の下に、「日本を守ってくれるのは米国だけ」「米国支持しかこの国の選択肢なし」との思考回路の中で路線を選択した。
「武力と殺戮で民主主義を与える」ことを正当とするような狂気の時代に、人間としての正気を取りもどし、自らの運命を創造する気概を見失ってはならない。正気を取りもどす目線ともいうべき歌を目にした。「 破壊後の 復興予算を計る人 いのちの再生 言えるはずなく 」 (朝日歌壇 神田眞人)
イラク戦争の世界史的意味
軍事的には米国の圧倒的な「勝利」に終ったイラク戦争であるが、政治的には米国の「敗北」となる可能性がある。一九七九年のソ連のアフガン侵攻を思い出す。軍事的には瞬く間に制圧し、親ソ政権を樹立したが、「正当性」のない軍事支配がいかなる結末をもたらすのかを思い知らされることとなった。内戦とゲリラに悩まされた挙句、アフガンから撤退したのは一九八九年であり、それがソ連崩壊への導線になった。今回の場合も、統制が常態化した国に、「民主化」を持ち込もうとするほど、事態は液状化し、凝固材として留まれば、アラブ諸国のみならず世界から「米国の野心」を糾弾されるという際限なき消耗に陥る可能性が高いのである。
そもそも、この戦争は「戦争」といえる次元のものではなかった。RMA(軍事革命)といわれる戦略情報戦争の時代にあって、開戦と同時に、イラク軍は通信情報手段を遮断され、組織的・系統的抵抗ができる状態ではなくなった。いわば、眼の見える人と全盲の人との戦いのようなもので、表面的には「戦争」に見えるが、現実には「いたぶり」にも近い残酷な戦いであった。サダム・フセインという憎々しげに毒づく、現実にはさしたる脅威でもない専制者を「都合のよい敵」に祭り上げ、圧倒的に勝利して力を誇示しているが、安手のプロレスの試合を見せられたようなモノ悲しさが拭えない。
イラク戦争の世界史的意味を再考すべき局面にある。多くの人は「アメリカの軍事力の圧倒的優位」を確認し、新しい帝国アメリカの「力の論理」が支配する時代に向かっているという認識を抱きがちである。本当にそうなのだろうか。最近、気に入っている表現に「カントの欧州対ホッブスのアメリカ」がある。恒久平和論を書き、国際法理と国際協調システムによる世界秩序を希求した哲学者カントと「万人の万人に対する戦い」における「力こそ正義」による秩序を志向したホッブスを対照させ、欧州諸国が主張しているのがカント的世界であり、米国が主張しているのがホッブス的世界だという捉え方である。
この対照は、おそらく二一世紀の世界秩序を巡る基本的選択肢にまで投影するものであろう。そして、日本がとるべき路線が「力の論理」ではなく「国際法理と国際協調による秩序形成」であることは間違いない。何故ならば、日本近代史への反省に立って、戦後の日本が踏み固めてきた価値が、「武力をもって紛争の解決手段としない」という国際法理と国際協調システムの希求であり、今こそこの価値を国際政治の場で実体化させる重要な局面に立っていると認識すべきだからである。
これは新しいマッカーシズムだ
私達が目撃している「昂ぶるアメリカ」は一体何なのか。直接軍事攻撃を受けたわけでもないイラクに襲い掛かり、「イラクの民主化」「イラクの解放」を叫ぶアメリカの心理はどうなっているのか。これは新しいマッカーシズムだ。それが、私の結論である。一九五〇年代の初頭、米国は狂気の沙汰ともいうべき「反共パラノイア」の渦中にあった。一九五〇年の二月、共和党のマッカーシー上院議員が演説の中で「国務省の中に二〇五人の共産主義者がいる」といった根も葉もない噂話が、燎原の火のごとく燃え広がり、「赤狩り」によって米国社会は意味のないエネルギーを消耗した。トルーマン政権からアイゼンハワー政権にかけて、米国の政治も猜疑心と憎悪をテコにした時代の空気に翻弄され続けた。今、米国が直面している状況も、猜疑心と憎悪をテコにした政治という意味で、あまりにもマッカーシズムに似ている。
何よりも、9・11症候群ともいうべき恐怖心が社会心理に深く埋め込まれている。アメリカ人の心理には「いつ襲われるかもしれない恐怖」と、やり場のない不安の捌け口を求めるマグマが増幅し、非論理的な報復の心理がイラクに向けられたのである。9・11へのイラクの関与は検証されていないのだが、米国人の深層心理には「中東系、イスラム系への疑心暗鬼」という「思考の単純化」が進行したといえる。
この恐怖心と憎悪を土壌に、「ネオコン」(新保守派)といわれるブッシュ政権中心に位置する対イラク強硬路線が現実味を帯びたのである。ネオコンの主張は「米国の強大な軍事力によって米国の掲げる価値である民主主義を世界中で実現する」というものである。米国の全体の中では少数派にすぎない「役割意識肥大症」ともいうべき政策論だが、政権の中心に チェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官、ウォルフウィッツ国防副長官、エイブラムスNSC中東担当などネオコンの主役達が名を連ねていることによって、時代をリードし始めたのである。
つまり、我々は極めて特殊な状況にあるアメリカが発信するゲームを目撃しているのである。「腕まくりしたアメリカニズム」ともいうべき竜巻が民衆の恐怖心を利用して吹き荒れているのである。イラク戦争を経て、米国の「力の論理」、つまり「ホッブスのアメリカ」が支配する世界に向うという認識がもたれがちだが、それは間違いである。二一世紀に我々が目撃するのは「アメリカニズムの終焉」であろう。
アメリカというシステムを特色づけてきた「開かれた国」としての魅力は明らかに後退しつつある。移民の国として、多様性を温存し、多民族・多宗教の調整を粘り強く図る寛容の精神が疲弊し、偏狭なまでの価値推し付けの国に変質しつつある。二〇世紀の国際社会で重みを増した米国から、世界を制御する理念や構想が提示されたことは、W・ウィルソンの国際連盟やFDR期のIMF・世界銀行構想などが想起されるが、現在の米国には自分の価値に陶酔する姿はあっても、次の世界秩序を制御する仕組を構想する姿はない。アメリカは憔悴しているのである。そんなアメリカに深い考察もなく、ただ拍手を送り、「従順な同盟者」としての笑みを送るだけの国でいいのであろうか。真の友として、アメリカの復元力を促す視点こそ重要である。
http://mitsui.mgssi.com/terashima/0306.html