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ダーウィニズムとキリスト教
永井俊哉講義録 第156号
チャールズ・ダーウィンが、1859年に出版した『種の起源』で進化論の学説を発表し、その学説がキリスト教の聖職者たちから非難されたことはよく知られている。では、なぜキリスト教はダーウィンの進化論と両立しないのか。ダーウィンが指摘した進化という事実が、神は、六日で世界を創造したとき、すべての生物を個別に創ったとする聖書の記述に反したからだと一般に言われているが、はたしてそれだけのことだったのだろうか。
進化という事実を最初に指摘したのは、ダーウィンではない。祖父であるエラスムス・ダーウィンやフランスの生物学者であるJ.B.P.A.ラマルクも先駆的に進化論を唱えていた。ダーウィン自身、彼より前に進化を論じた先輩は、20人を下らないことを認めている。しかし彼らは、当時、注目されたわけでも宗教的迫害を受けたわけでもなかった。それなのになぜ、ダーウィンの『種の起源』は、世間に衝撃を与え、キリスト教の聖職者たちから攻撃されたのか。
私は、152号で、キリスト教会による地動説の弾圧は、男性原理による女性原理の弾圧であると述べたが、同じことは、ダーウィニズムにも当てはまる。ダーウィンの『種の起源』の歴史的意義は、進化という事実を指摘したことではなくて、進化を自然選択によって説明したことにある。種の創造が、父なる神ではなくて、母なる自然によってなされるとするダーウィンの進化論は、女性原理に基づいているがゆえに、魔女狩りのような迫害を受けたわけである。もちろん、さすがに19世紀ともなれば、異教徒的な説を唱えても、火あぶりになったりはしなかったのだが。
ダーウィニズム以前の進化論の代表作は、『種の起源』より50年前に出版されたラマルクの『動物哲学』であるので、ダーウィンの特徴をラマルクとの比較で考えていこう。ラマルクは、用不用説で知られているが、用不用説はラマルク以前からあったし、ダーウィンも用不用説を否定していないので、用不用説をラマルク説の本質とみなすことはできない。ダーウィンがラマルクと異なるのは、進化を、一定の方向を持った必然的で目的論的なプロセスではなくて、自然による偶然的差異の盲目的選択で説明した点にある。そして、進化を偶然の産物とすることは、種の創造における神の摂理を否定することになる。
自然選択説とともに用不用説も採用したダーウィンと比べると、自然選択だけで進化を説明しようとしたダーウィンの共同研究者、アルフレッド・ラッセル・ウォレスの進化論は、より純粋なダーウィニズムであったと言えるかもしれない。ただ私は、ダーウィンが、ウォレスとは違って、自然選択の一種として、性的選択の役割を重視したことに注目したい。
性的選択には、雌をめぐる雄どうしの戦いで、力のある雄が戦いに勝って子孫を残すことができるという側面だけでなく、雌の好みに合致した雄が子孫を残すことができるという側面もある。雄のクジャクの美しい羽根とか雄ライオンの立派なたてがみとかは、雌の関心を惹く以外に機能があるとは思えない。「犯罪の影に女あり」をもじって言うと、「進化の影に女あり」である。この点でも、ダーウィニズムは、進化を女性原理で説明しようとしたと言うことができる。女性が進化の主導権を握っていると主張することは、男尊女卑の時代にあっては画期的なことである。
後に宗教的神秘主義にのめりこんだウォレスは、ダーウィンとは異なって、人間を進化の例外にしてしまった。ダーウィンは、同志の変節に失望したようだが、これも無理からぬことである。人間が動物から進化したというテーゼは、当時の人たちが最も嫌悪感を示したものだった。ダーウィンの好敵手、サミュエル・ウィルバフォース主教は、キリスト教は、「神の姿に似せて創造された人間の祖先がケダモノであるという堕落した考え方とは絶対に相容れない」と書いている。
『種の起源』が発行されて半年後、英国学術振興協会は、論争に終止符を打つべく、公開討論会を催したが、そこでも、ウィルバフォース主教は、人がサルから進化したとする点を問題にした。すると、ダーウィンの立場を代弁するトマス・ハックスリーは、「私の祖先がサルだということは恥ずかしいことではありません。私にとって恥ずかしいことは、偉大な才能を使って真理をあいまいにする輩[ウィルバフォース主教のこと]と祖先を同じくするということです」と皮肉たっぷりに答えたとか。
それにしても、なぜキリスト教徒たちは、人間の祖先がサルだということを恥ずかしいことだと感じたのだろうか。よく考えてみると、ユダヤ・キリスト教が登場するまでは、人々は動物あるいは半神半獣の神を崇拝していたわけであり、動物が人間以上の畏れ多い存在から人間以下の軽蔑すべき存在へと貶められたのは、ユダヤ・キリスト教のような反自然的宗教が支配的になってからのことである。ユダヤ・キリスト教にとって、自分の祖先を動物とみなすことは、かつて克服したトーテム信仰やアニミズムなどの異教の復活を意味していたわけである。
以上を要するに、ダーウィニズムとキリスト教の対立は、「女性原理」対「男性原理」、「動物」対「人間」、「母なる自然」対「父なる神」、「盲目的偶然」対「理性の光」というジェンダーの対立に基づいていたと結論づけることができる。この対立には根深いものがあって、今日に至るまで、キリスト教原理主義者たちは、かたくなに進化論を拒絶している。
キリスト教原理主義者たちは、アメリカでは大きな政治的影響力を持っていて、学校教育で創造論に進化論と同等の授業時間を割かせる「授業時間均等化法」を一部の州で成立させている。これ以外にも、彼らは妊娠中絶禁止運動に熱心に取り組んでいる。それは、生命の尊重という仏教的な価値観からではない。もし彼らが生命を尊重しているのならば、人工中絶クリニックの医師を射殺したりはしないはずだが、実際にはこれが組織的に行われている。そして、彼らが妊娠中絶に反対するのは、進化論に反対するのと同じ論理からである。
妊娠中絶を認めるということは、胎児を産むか否かの選択権を女性に与えるということである。キリスト教原理主義者たちは、神から与えられた生命が、女の恣意的な選択で、中絶されることを許さない。同様に、彼らは、父なる神によって創造された生物の種が、母なる自然の恣意的な選択で絶滅することを許さないからこそ、自然選択に基づく進化論を否定するのである。
キリスト教原理主義者たちは、同性愛に対しても寛容ではない。進化論が人間と動物の境界をあいまいにするように、同性愛の容認は男と女の境界をあいまいにするからだ。彼らは、「家族の価値」を政治的なスローガンの一つに掲げているが、要は、父親の権威を復活し、家父長的秩序を保守するということである。
一般的に言って、キリスト教は、女性原理が自分の意志で勝手に動くことを許さない。キリスト教会が地動説を弾圧したのは、「母なる大地」が勝手に動き出すことを禁止するためだったということは既に152号で述べた。キリスト教原理主義者たちは、現在のブッシュ政権の強固な支持基盤であり、ネオコンの人たちが異教徒たちの勝手な動きを許さないのは、キリスト教徒にとって、異教徒と母権宗教の崇拝者とは同義的だからである。
http://www.nagaitosiya.com/lecture/0156.htm