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*これは,まだ特別法廷設置が頓挫していた2002年段階の記事ですが,この特別法廷を巡る困難を指摘した記述は,いまでも有効であり,この法廷を巡る問題点を探った文章としては最もまとまってますのでここに長々と引用させていただきます。
アジ研ワールド・トレンドNo.82(2002/7)
http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/W_trend/wt_0207.html
カンボジア/ポルポト時代の死の記憶をいかに処理するか
天川直子
「国民和解」をテーマとする本特集でカンボジアを取り上げるのは、いわゆるポルポト時代(一九七五年四月一七日〜一九七九年一月六日)にもたらされた大量の死の記憶を社会が抱えているからである。秘密警察(S21)による政治犯の処刑(推定約一万四〇〇〇人)、集団農場での虐殺、および通常の社会体制下であれば生じなかったであろう病死や衰弱死などによって、わずか三年八力月二〇日の間に、一九七五年当時の推定総人口七〇〇万人のうち、約一七〇万人が死亡したと推計されている。
本稿では、ポルポト時代の死の記憶の処理をめぐるポルポト体制崩壊後のカンボジア国内外の動きを整理する。
●武装対立主体の政治的和解
「国民和解」ないしは「民族和解」(いずれも英語では National Reconciliation )という言葉は、カンボジアではまず、人民革命党と三派(ポルポト派、シハヌーク派、ソンサン派)との政治的和解を指して用いられた。一九八二年から一九九一年まで、カンボジアでは国家の担い手の座をめぐってこの四派が武装して対立していた。
筆者のみる限り、「国民和解」に類する言葉が、和平交渉の場で公に用いられたのは、一九八八年七月、カンボジアの四派が初めて会合した第一回ジャカルタ非公式協議の場で、人民革命党側が行った七項目提案であった。そこでは、カンボジア問題は「民族和解と、ポルポト派指導部およびその軍事力の排除を原則として」解決されるべきであり、自政府は解体せずに、まずは、新政府を選出するための国民議会選挙の実施を監督する「民族和解評議会」設置すると述べられた。一方、人民革命党による実効支配の実績を否認する三派側は、一九八九年四月、シハヌークによる五項目提案で、人民革命党政府の即時解体と「暫定的民族和解政府」の設置を主張した。
一九八九年七月のパリ国際会議、同年九月のカンボジア駐留ベトナム軍の撤退完了をみて、国連安保理は一九九〇年、自ら和平イニシアティブの発揮に乗り出した。その成果が、一九九一年一〇月に締結されたパリ和平協定である。その前文には「カンボジアの平和を回復し、および維持し、国内の和解を促進」することを希望すると掲げられた。一方、ポルポト時代については、「カンボジアの悲劇的な近年の歴史」および「過去の政策および慣行」と言及されるにとどまり、ポルポト派への明示的な非難は盛り込まれなかった。これは、パリ和平協定が、ポルポト派を含む四派を政治的に和解させるための手段を規定した協定であることによる当然の帰結であった。
「四派の政治的和解」という意味合いで「国民和解」が提唱されたのは、一九九三〜一九九四年、新憲法体制下で国王に即位したシハヌークによる円卓会議の呼びかけが最後であった。ポルポト派が一九九三年制憲議会選挙をボイコットして、パリ和平協定が目指した「包括的政治的解決」が実現しなかったため、シハヌークが新政府と同派の「和解」のためのイニシアティブを発揮しようとした。しかし、即時停戦にポルポト派が頑強に反対したため、この試みは半年あまりで放棄された。
●米国における市民活動
ポルポト時代の国家指導者を大量虐殺の罪で裁くべきだという三張が、国際世論で高まったのは、一九九八年後半であった。
その背景として、ポルポト派が急速に弱体化したというカンボジアの国内情勢の変化を軽視することはできない。一九九七年六月、ポルポトが派内で失脚し、翌年四月にはその死亡が報じられた。一九九八年六月に同派の最後の砦であったアンロンヴェーンが名実ともに中央政府の統治下に入った。一九九九年三月には同派最高幹部で唯一残っていたタモクが政府に拘束され、ポルポト派は終焉を迎えた。
しかし、この国際世論の高まりをもたらした要因としてより重要なのは、米国の市民運動と国連による人権擁護活動であろう。
一九八九年、米国では、一〇〇団体以上の非政府組織によって「クメール・ルージュ復権阻止キャンペーン」が結成された。同キャンペーンの最大の成果は、一九九四年に「カンボジア集団殺害処罰法」を成立させたことである。同年末には同法の規定にしたがって、国務省東アジア・太平洋局内に、カンボジア・ジェノサイド調査室が設置された。
このような市民運動や議会へのロビー活動を支えている要因としては、一九八〇年代初頭に出国して米国に定住した十数万人のカンボジア難民の存在、およびその第二世代の人々が米国社会で発言力を発揮できる年齢になってきたことが指摘できよう。
また、一九九四年一二月、イェール大学のカンボジア・ジェノサイド・プログラム
http://www.yale.edu/cgp/
が、国務省のカンボジア・ジェノサイド調査室から二か年分五〇万ドル弱の研究助成金を得て、ポルポト時代の秘密警察関係文書の整理・保存等の調査研究活動に大々的に乗り出した。その結果、同プログラムの報告書等を通じて、ポルポト時代の「人道に反する罪」について、一般の人々が英語で容易に知ることができるようになったことが、米国内や国際社会での世論形成に一役買っていることは間違いない。
●「クメール・ルージュ(KR=ポルポト派)特別法廷」
ポルポト時代の国家指導者に対する裁判をめぐる動きが国連内で活発になったのは一九九七年のことであった。四月、人権委員会が、過去の深刻な人権侵害を調査しようとするカンボジア側の要請に応えるように事務総長に要求する決議を採択した。六月、カンボジア側から当時の共同首相二人が、ポルポト時代の大量虐殺と人道に反する罪の責任者を裁判にかけるための支援を国際社会と国連に要請した。一二月には、国連総会が、カンボジアの要請を検討するように事務総長に求める決議を採択した。
この一連の動きを受けた事務総長は、一九九八年七月、在カンボジア人権特別代表の助言にしたがって、ポルポト派指導者を裁判に付す実現可能性について検討する専門家グループを現地に派遣した。この専門家グループは、一九九九年二月、「ポルポト時代に犯された人道に対する罪および大量虐殺などの重罪を立証できるだけの物的証拠・証人は存在する」として国際法廷の設置を事務総長に提言した。これを受けた事務総長は、三月、安保理と総会に対して、国際法廷の設置を勧告したのである。
一方、カンボジア政府は、国際法廷の設置には強く反発した。ポルポト派指導者は国内法廷で裁かれるべきことを主張し、主導権の確保にこだわったのである。このようなカンボジア政府の立場に理解を示しためが、中国であった。常任理事国である中国が国際法廷の設置に消極的な態度を示したため、国連安保理による国際法廷の設置は断念された。
国際法廷の設置を主張する国連と、自国の主導権を確保したうえで支援を得ようとするカンボジア政府との仲介に乗り出したのは米国であった。カンボジア政府は、一九九九年一〇月に米国の調停案を受諾する旨を表明し、並行して、「KR特別法廷設置法」案の策定を進めた。国連とカンボジア政府との意思の疎通が図られたとは言えない状況のまま、同法は、一九九九年一二月、国民議会(下院)に上程された。二〇〇一年一月には上下両院で可決され、技術的修正の後、同年八月に発効した。
しかし、国連は、二〇〇二年二月、カンボジア政府とこれ以上は協議する意図がない旨を表明した。その理由として、第一に、カンボジア政府が設立しようとしている特別法廷では、国連が支援する際に不可欠な不偏不党性と客観性が保障されないこと、第二に、カンボジア政府が、国連との条約締結を拒否していることを挙げた。
二〇〇二年四月現在、ポルポト時代の国家指導者に対する裁判が、いかなる形式であれ、開催される見込みはまったく立っていない。
●国連とカンボジア政府の対立
国連とカンボジア政府の対立においては、国連の立場は明白である。そこでは、人権は決して侵害されてはならないという原則がすべてに優先する。
それでは、カンボジア政府が擁護しようとしているものは何か。それは、端的に言ってパイリン特別市の利害であると筆者は見なしている。そうすることによって内戦の悪夢の再来を回避し、カンボジア社会がようやく手にした復興・開発の果実を戦火から守ろうとしているのである。
カンボジア西部にあるパイリン特別市は、一九九六年八月、ポルポト派幹部の一人イエンサリが二個師団とともに、「政府との和平交渉の開始」(イエンサリ側)/「村政府投降」(カンボジア政府側)した後も、中央政府がイエンサリ側に事実上の聖域として容認している地域である。
一九九九年、国連事務総長が国際法廷の設置勧告を行った後の数ヶ月間、パイリン特別市から武力行使の可能性をちらつかせた脅迫的な態度表明が繰り返されたり、武装兵士が同市中心部に集結している等の報道が伝えられたりした。カンボジア政府もまた、訴追対象者の拡大を求める国際社会に対しては、イエンサリを訴追しようとすれば内戦になる、と主張した。
ここで、パイリン特別市に対するカンボジア政府の弱腰を非難するのは容易い。しかし、筆者は客観的な軍事力の格差よりも、軍事力の附存に関する主観的認識を重視したい。恐怖心は主観的認識に基づいて醸成されるものである。ポルポト時代末期に党中央(=ポルポト派)の攻撃を受け、一九八○年代を通じて国際的孤立状態にあって、ポルポト派と対決しつつ国家再建に取り組んできた現人民党幹部が、イエンサリ側の武力行使に対して強い恐怖心を抱くのは不思議ではない。このような状況認識の下では、普遍的人権概念の貫徹と、社会経済の復興や国民生活の安寧は、二者択一的関係に置かれることになる。そして、カンボジア政府は後者を優先させているのである。
●カンボジアの国内世論
ポルポト時代の国家指導者たちを裁くための法廷設置をめぐる近年の国内外の動静を、カンボジア国民はどのように受け止めているのか。
第一に、この間、この問題は政党政治の争点にはならなかったという点を指摘したい。一九九八年七月の第二回国会議員選挙と、その後連立をめぐって同年一一月まで続いた政党間対立、および二〇〇二年二月の村議会選挙、いずれの場にあっても、ポルポト派裁判のあり方について特定政党から強い主張がなされたり、政党間で議論されたりすることはなかった。また「KR特別法廷設置法」案についても与野党間での先鋭な意見対立は聞こえず、上下両院とも全会一致で採択されている。
また、二〇〇二年二月の国連の協議打ち切り宣言については、カンボジア法曹界のオピニオンリーダーたちや、人権擁護活動を行っているNGOは、国連のこの判断に対して好意的な姿勢を示している。彼らの意見に共通しているのは、カンボジア政府は国連が求める国際的水準を満たすように努めるべきであったが、その見込みが立たない以上、国連が自らの評判を守るべく手を引くのはやむを得ない選択である、という点と、政治的ご都合主義で信用に欠ける裁判を行うくらいなら、ポルポト派裁判は行わない方がまし、という点である。
ポルポト派裁判のあり方が政党政治の争点にならないということと、国連が協議打ち切りを宣言するという状況にあっても、人権擁護活動家さえも、カンボジア政府を糾弾するわけでもなく、ポルポト派幹部に対する公正な裁判の実現を求めるキャンペーンを指導しようとするわけでもないということは、一体どのように解釈すればよいのか。ここでは、このようなカンボジア国内世論を理解するきっかけになると思われる点を二点のみ指摘しておきたい。
●時代認識をめぐる国内外の齟齬
第一に、一九九〇年代の体制転換は、おそらくカンボジア国民にとって、国際社会が考えるほどには、根本的なものではなかったのではないか、という問題提起を行っておきたい。これには二重の含意がある。ひとつは、ポルポト体制からの解放という意味での体制転換は一九七九年のことであり、一九九〇年代の政治体制の転換は待ちに待った「復興・開発の時代」の幕開けとして強くカンボジアの人々に認識されているのではないか、という問いである。そして、政党もまた、現在の人々の価値序列を汲み取って、ポルポト時代の人権侵害の真相究明よりも、開発問題を優先させているのではないか。例えば、与党の人民党とフンシシペックに比べ国連の主張に大いに理解を示していた野党のサムランシー党でさえ、一九九九年来の活動で目立ったのは、工場労働者の労働運動や土地紛争の解決を求める農民への支援活動であった。
ふたつめの含意は、一九七九年と一九九三年のどちらの政治体制の転換も、一般国民にとっては、自分と家族が蹂躙された経験を語っても大丈夫だという安心感をもたらすものではなかったのではないか、という問いである。ここで筆者は、カンボジアの国家体制が常に抑圧的であると言いたいのではない。しかし、一個人が世界に対して、ある体制下で受けた被害を語れるようになるためには、一定の条件が必要である。すなわち、その心身が、別の体制の保護か、普遍的価値観に基づく信念か、もしくは時間の経過に伴う恐怖心の克服か、いずれかの庇護下になければ不可能である。したがって、現在のカンボジアの国家体制は、ポルポト時代の被害者に対し、この種の安心感をもたらすことに成功していないのではないか、という問いを立てられよう。
●被害の共同体という集団意識の有無
理解のきっかけになると思われる第二の点は、被害の共同体がカンボジアではまだ形成されていないのではないか、という問いである。
(中略)
●新しい世代
(後略)
(あまかわなおこ/研究企画部研究事業開発課)