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(回答先: やはり、情けない犬国民は日本だけだな。 投稿者 ZEONN 日時 2003 年 5 月 28 日 02:06:54)
日本人は昔から「共に生きる」ことを考えの中心において生きてきた。それが少ない資源の中で生きる生活の知恵だったのだろうと考えている。そこには相手と自分の立場を「相対的なものとして考える」考え方があり、自分たちの役割を完遂するために集団で物事を検討し判断し行動する考え方があり、相手にも相応の役割を果たすことを求める考え方がある。この「共に生きる」という根底の考えが解らなければあんたのような判断になる。
「共に生きる」ことを根底としているから、日本人は基本的に争いごとがキライだ。争いごとをしなくて済むなら少々の譲歩をしても良いと考えるところがある。
これを「柔軟」と言う。柔軟な考え方や生き方が出来るのは、経済力や教育レベルに裏打ちされているからだ。
ただ、注意しておいて貰いたいのは、相手方に「共に生きる」という考え方が無いと解った場合には、まず相手に役割を果たすように求め、それが果たされなければ果たさせる行動に出る事があるということだ。なにも考えを持たずに他国にたかりながらその日暮らしをしているような国民には「お節介焼き」と思われるかもしれないが、「共に生きるためにはお互いの義務を果たすことが何よりも大切」と判断しているからだ。
列強の侵奪行為に対して大東亜共栄圏の考えを打ち出したのも、戦争に走ったのもその考え方が基本にあったためだと、私は理解している。今もODAとか賠償金やらの名目で「出さなくても良い無駄金」を朝鮮半島や中国をはじめ世界中に出しているのも「共に生きる」ことの実践に他ならない。暴力団や強力(ごうりき)盗犯団を送り込まれても、何とか辛抱して「なじませようと」しているのも総て同じだ。平気で人殺しをするような連中に対する罰則の適用にしても公平な運用に努力しているくらいだ。
それに対して「犬」呼ばわりは何事だ。我々日本人が「犬」なら、たかることしか考えていないこれらの国は「さなだ虫」のようなものだろう。寄生虫だ。そのような国に対しても我々が「さなだ虫国家・国民」と呼んだことがこれまでにあるか。それが解らないくらい頭が悪いのか。
昔、学生であった頃、40年も前のことだが、一時、親の年齢層の考え方が解らなくて悩んだことがあったが、そのとき読み漁った資料の中に出てくる「残酷な刑罰」は総て半島や大陸の作ったものだった。それらの刑を執行している写真にも執行吏をはじめ立会いの役人は総てが「白い装束と三角帽子」のその国の人間だ。各国のレポート類を読んでも、残酷な刑罰を禁止したのは日本人であり、日本と同じような生活水準の達成を計画したり、教育制度の充実を図っているのも日本人だと書いてある。半島や大陸の親達は、そのようなわが国の努力に反し、民族内の階級差別をそのまま私腹を肥やすことのみに利用し、わが国の威を借りて私的な残虐行為や略奪行為を同胞に対して行ってきたのではないのか。都合が悪いことは「日本人のせい」としらを切るとは何事だ。反省すべきは自分たちではないのか。
と、まぁ、このような発言を引き出さないように、言葉に気をつけたらどうかな。金正日にも同じことが言えるけれども・・・