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(回答先: リバータリアンとはなにか? 投稿者 副縞 日時 2003 年 5 月 11 日 10:46:19)
IMAGINE
─マレー・ロスバード
「当世風の型にはまった考えから脱却するために、自由には危険が伴うということ、自由は物質的平等を生まないということ、自由はまた飢えで死ぬ危険をも含むということを認識しなければならない」。 ピエール・ルミュー『無政府国家への道』
Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace...
自由放任派に属するアメリカの経済学者マレー・N・ロスバード(Murray N. Rothbard)は、P・S・フローレンスやW・G・フリードマンとならんで、企業社会における政府と企業との関係に関する大胆な学説を発表している。ロスバードは、一九七〇年に刊行した『権力と市場 政府と経済』において、企業社会における政府と企業の関係を二者間干渉と三者間干渉に分類している。二者間干渉とは、干渉者である政府が、企業との間の強制的交換、または企業の側からの強制的贈与を強要する場合であり、典型的例は国家支出と税金の徴収である。国家支出は政府による資金の移転支出である補助金と政府の資源使用的活動の公共事業にわけられる。三者間干渉とは、干渉者である政府が複数の人々に交換することを強いたり、あるいはそうすることを禁止する場合である。この干渉には交換条件を規制する価格統制と生産物および生産者の条件を規定する価格統制とがある。前者の例として高利禁止令や物価統制令があげられる。後者には特定生産物の生産ないし用役の提供を一般的に禁止したり規制するケースと特定企業あるいは企業集団にのみそれを許可するケースの二つがある。ロスバードは強制カルテル、事業許可制、関税、移民制限、幼年労働の規制、最低賃金、失業扶助、反トラスト法、資源保全法などを第二のケースの例としてあげている。日本では、一般に、国家が管理・統制しなければ、私的なものは営利追及に走り、欲望を満足させてしまうのではないかという危惧がある。だが、私的なものが暴走するのは、もともと国家の過度の管理・統制に原因がある。地上げは政府の山手線の内側を高層ビル化するという計画提案と公定歩合の引き下げ、急激な円高によって私的なものを誘発して始まったのである。私的なものが自律して、地上げを行ったわけではなかった。公的なものが私的なものに持つ力は法的規制だけである。どの法律にも社会的な力関係が刻印され、その法律の成立した経緯や存在意義はその力関係に負っている。法的規制は公的なものと私的なものとの関係から派生するものなのである。そこでロスバードは政府干渉には一般的に資源配分と所得分配の最適性を阻害する危険性があり、市場機構を重視するべきだという説を展開していき、そして、いつも通り、次のように叫ぶ。「国家は盗賊である」。
自由放任派には、右派としてルードヴィヒ・フォン・ハイエクやミルトン・フリードマン、左派ではロバート・ノージックが属している。フランスのアナーキストであるピエール・プルードンの「所有は盗みである」(『所有とは何か』)を思い起こさせる主張をするロスバードは最左派の位置にいる。「アナルコ・キャピタリスト」とも呼ばれる左派は自分たちの思想を「リバータリアニズム」と称している。ハイエクも、フリードマンも「古典的自由主義者」と自称しており、リバータリアニズムの創設者の一人であるかもしれないが、自分は違うと言っている。「リバータリアン」という名称は、一九世紀ヨーロッパで、アナーキズム啓蒙紙『レビスタ・ブランカ』が創刊された際、セバスチャン・フォールが唱えたものである。もともとは、当時アナーキズムの宣伝が禁止されていたため、カモフラージュをかねて、従来のイメージを覆す目的で使ったとされている。リバータリアンの語源は、リベラルとは違い、道楽者、放蕩者を意味するlibertine であり、ユーモラスな響きがある。リバータリアンは大企業の企業家に支持され、彼らが愛する作家は悪の官僚組織と戦う正義の企業家を描くエイン・ランドであるが、大著『リンカーン』で知られるリベラル派の作家ゴア・ヴィダルは自由放任によってアメリカ合衆国が「企業国家」になりさがったと国家の企業化を苦々しく批判している。合衆国は企業、大統領は社長であり、選挙民は株主だというわけだ。ラッファ曲線を信奉して、レーガノミックスを始めたロナルド・レーガンは、確かに、カルヴァン・クーリッジの“The chief business of the American people is business."という言葉を好んでいた。けれども、リバータリアニズムはアメリカの宗教右派のような反動ではなく、リベラル派以上に自由主義なのだ。
教条的な自由放任派であるロスバードは自由主義に関する信念を基盤に、国家は最悪の犯罪集団だと断罪する。そもそも揺籠から墓場まで、警察から裁判、刑務所まで、ありとあらゆることすべて私有化できる。警察や消防の仕事も保険会社や警備会社が行うだろう。現行の組織以上に犯罪や火災を抑制すれば、利益があがるから、各会社間の競争によって、間違いなく、治安は改善される。実際、国境で阻まれている(ハッキングやストーキングなどの)コンピューター犯罪への対処は警察ではなく、コンピューター会社自身が認める合法的ハッカーが行っている。ところが、女性や子供をターゲットにした人身売買の犯罪組織は民族や宗教を超えて連携しており、国家概念そのものがこうした許すべからざる犯罪を助長しているのだ。犯罪組織にとって、犯罪はビジネスである以上、リスクが利益に比べて大きいとなれば、それから手を引く。犯罪組織の持つ機動力と柔軟性に対して、国家は全然ついていけていないのだ。司法権も民営化は可能である。国家が司法を独占している体制では、国家に有利な判断が下されることは明白だ。日本の下町には、「焼き鳥屋は、三軒あって、繁盛する」という諺がある。いかなるものも独占状態はもちろんのこと、二項対立でも成功しない。官の独占だけでなく、官と民の対立も克服しなければならない。現行の司法の制度はうまく機能していないし、世論は司法に対して不満だらけである。それに、国家の裁判独占を市場は必要としない。司法の独占体制がなくなれば、自発的な民間仲裁が発達することは確実だ。ヤクザに仲裁を依頼するのは、司法が国家に独占されているからである。裁判を紛争解決の手段ではなく、紛争そのものと見なしているような、あるいは裁判に訴えられない非自由競争的な認識が、暴力組織の介入をもたらしている。脱税による非合法的な資金があり、保護・調停・治安を業務として求められている以上、暴力組織の活動は法規制によってなくすことは困難である。暴力組織の民事介入などは、それを要求する非合法的なマーケットの場があるから登場する。シャンシャン総会にしたい取締役たちの思惑のために、暴力団や総会屋、右翼といった暴力を背景にした組織が介入してくるように、彼らは市場を嫌う。暴力組織が暗躍するのは公的部分であり、政治家や行政機構、産業界もさまざまな面で利用してきた。暴力組織は法的規制かないところに発生してくるのではない。過度の法的規制が暴力組織を生み出してしまう。暴力組織の活動が活発であるのは自由競争が停滞している証拠である。法的規制は何度行ったとしてもその抜け穴が見つかるであろう。規制を撤廃し、すべてを市場に任せるべきなのだ。法的規制が撤廃されても、市場が自由競争を十分に支えられる最大の要因の一つは情報公開である。リバータリアンは民間企業を神聖視しているわけではない。民間企業にしても、なるべく情報を公開したくはないだろうし、見られていないと思えば、不正やごまかしもするかもしれない。自由競争から逃れるために、企業間でカルテルやトラストを結ぶ事態が起こる恐れがある。だからと言って、国家がそれを規制・監視する必要はまったくないのだ。それは問題のすりかえにすぎない。民間の調査機関・格づけ機関が監視し、情報を公開すればよい。市場は情報交換の場所である。市場で売買されているのは、実は、情報なのだ。最も情報公開に消極的なのは国家の機関だと断言できる。ギュゲスの指輪への懸念を解決するのは市場の監視である。市場がそれを支持してくれるには、信用がなければならない。信用は契約を守ることによって生じる。信用を与えるのは、一つの文化的・風土的基盤だけに基づく公的なものではなく、時としてまったく異なった背景を持つ私的なものである。ところが、信用を二の次にする官僚組織は情報公開を拒み、既得権益を死守する。ヨーロッパ諸国がとりくんでいるように、電力の自由化をすれば、脱原発も十分可能なのに、経済効率が悪く、安全性にも問題がある原子力発電所を日本で増設しようとしているのはその典型であろう。信用を失うということは市場では致命的である。自由競争に耐えられず、安全面を不問にしたままでいるものは、市場によって淘汰されていかなければならない。情報を開示せず、不正をやっている企業には市場が鉄鎚くらわす。市場が見捨て、株価が下落し、怒り狂った株主の追及から逃れられると思っている経営者はいないだろう。自由放任論者は資本主義者であると同時にアナーキストであるけれども、ロスバードはアナーキストよりもラディカルである。プルードンのようなアナーキストにしても、司法権は公に属するべきだと主張しているからだ。公というものはまやかしである。だから、国家は幻想であって、その実体は無だ。ただ、それと呼ぶことに合意した個人の集合にすぎない。そうした人々が、国家の名の下に、暴力や税金を徴収する独占的な権限に正統性・適法性を与えることを決めたのだ。ロスバードは言う。「国家、あらゆる時代を通じて、歴史上どんなマフィアより、効率的で恐るべき大きな犯罪組織なのだ」。税金は納税者のために使われたためしがない。税金は国家維持のために浪費されているにすぎないから、国家は税金を義務化するのだ。税金を誰も喜んで払っていない。徴税は泥棒、場合によっては強盗のやることと同じだ。間接税重視の政策にしたところで、税金が盗みであることに変わりはない。多くのイデオローグは税金を正当化しようとする。「国家なり自治体なりに帰属することのみ返りが税金なのだろう」。しかし、「税制に公平はない。税制に合理性はない」(森毅『税制に公平はない』)。国家と人民の間には社会契約が結ばれており、理想的な社会実現のために、人民は税金を自発的に払っているというわけだ。しかし、税金は、脱税があとをたたないように、非自発的に徴収されるのである。第一、国家は選挙権もなく、政治的発言が制約されている外国人や子供からも税金を徴収している。税金は盗みであり、その税金を浪費する典型の戦争は最大の犯罪であって、兵役は奴隷制である。「まず、自由放任社会は誰も脅かさない。それで争いの危険は減る。それでも争いが起これば、消費者が防衛費を払う。そこでも私的防衛体制間の競争で質が改善される。侵略された場合、所有者からなる人々は敵に対して断固たるゲリラ戦を行うだろう」。ゲリラはカスティーリャ語で「小さな戦争」という意味だが、ナポレオン率いるフランスの国民国家軍にスペインの民兵が勝利したことから由来する。ゲリラこそが国家を崩壊に持ちこむ活動なのだ。さらに、ロスバードはほかのリバータリアンとも違い、福祉国家だけでなく、「夜警国家」(フェルディナント・ラッサール)や「小さな政府」も認めない。国家を擁護するからだ。国家の否定に関していっさい妥協はしない。社会契約説は「自然状態」を想定して導き出されているのであり、積極的な根拠はない。また、国家の金融システムの根幹と見なされている中央銀行にしても、その存在理由は歴史的にたまたま形成されたにすぎず、ハイエクが指摘している通り、なければならないものでもない。あくまで国家を前提にしている以上、現存自由放任は真の自由放任ではない。自由主義者でありながら、減税要求をするなどというのは、矛盾した主張だ。自由主義者たるなら、税金の全面撤廃を求めるべきなのである。規制を緩和し、官僚組織を縮小し、小さい政府を目指すなどというのは臆病者の発想だ。国家の延命策にのっかるような一般的な自称自由主義者は修正主義者にすぎない。ロスバードに言わせれば、欧米の古典的な自由主義者は裏切り者になる。レーガノミックスは、結果として、国家費用の増額だった。合衆国の右派は自由主義者を自称してはいるが、安全保障に税金を使うことにはやぶさかではない二枚舌の卑怯者だ。また、彼らは銃の所持は当然の私的権利だと主張しておきながら、国家に依存しきっている。合衆国最大の圧力団体NRA(全米ライフル協会)の議会に対するたくみなロビー活動を見れは、それは明らかである。銃の規制は国家が行うものとはリバータリアンも思わないが、銃の蔓延は市場経済とは関係ない。銃の問題は市場の判断に委ねるべきなのだ。さもさも銃は、国家建設の際に、先住民族の土地を奪うために、使われたものであり、自衛が目的なのではなかった。「フロンティア・スピリット」も「アメリカン・ドリーム」も、国家の統制が強まっていく中で、事後的に生み出された幻想にすぎない。真の自由放任派は、「何よりもまず、このような『偽の兄弟』からわかれねばならない」(マルクス一八五九年二月一日付ヴァイデマイヤー宛書簡)。ロスバードが「私は、一部の左翼、平和主義者、環境主義者が警察の抑圧に反対し、国家の命に従った企業に反対する以上、彼らの客観的な味方だ」と告白するのも当然であろう。
ロスバードは、自由放任派の中でも、反国家の点で突出している。彼と比べれば、ハイエクの「自由主義的知識人は煽動家にならなくてはならない」などサビ抜きの寿司にすぎない。また、ロスバードとの長い対話から個人主義的無政府主義の理論に関して知的刺激を受けたと言う左派のノージックですら、『アナーキー・国家・ユートピア』の中で、「暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる。それ以上の拡張国家はすべて、特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し、不当であるとみなされる」と書いているくらいだ。「無政府状態に警官一人」とカーライルが揶揄した自由放任を重農主義者も古典派経済学者も支持していなかった。彼らは政府の市場への介入はある程度少ないほうがよいと考えていたが、政府の介入が悪であるとか、それをゼロにしろとは言ってはいなかった。一切の例外を認めない自由放任を信奉したのはフランスのフレデリック・バスティアだった。この自由放任主義者はジョージ・バーナード・ショーばりの諷刺や皮肉を駆使した文体を操り、保守主義、社会主義、リカードゥ主義に対する攻撃の手をゆるめなかった。経済理論家としてはたいした存在ではなかったが、流布者としては経済思想史上、最大の一人であろう。リバータリアニズムはロック流、ベンサム流、ヒューム流、ミル流などさまざまにわかれているが、ロスバードはこのバスティア流である。ロスバードは、確かに、アメリカでさえも、ハイエクやフリードマン、ノージックほど知られた存在ではない。しかし、彼は「現代のリバータリアン思想の理論的構造を建設し、この理念を政治活動に活用するという両方の面で重要な役割を果たした。(略)リバータリアンたちは、ロスバードを政治経済理論を統合したマルクスになぞらえたり、不撓不屈の急進的運動を組織したレーニンになぞらえたりした」(デイヴィッド・ボウツ『リバータリアニズム入門』)。
元来、自由放任的な思考はフランスの重農主義者から始まった。自由放任が本格的に議論されるのは一八世紀の産業資本主義の登場である。この自由放任をめぐって、アダム・スミスからピエール・プルードン、マックス・シュテルナーまで左右にわかれていた。二〇世紀では、自由主義は市場経済であり、社会主義は統制経済であるから両者は対立すると考えられている。プルードンの社会主義がアナーキズムと呼ばれたように、社会主義は自由放任主義の一種なのだ。
さらに、ロスバードが「アナルコ資本主義のマルクス」と呼ばれていることからも明らかだが、リバータリアニズムは決してマルクス主義と遠くない。「自由の王国」への飛躍や国家に対する憎悪は両者に共通している。そもそもマルクスの「アソツィアツィオン」はリバータリアンの展開するコミューンとほぼ同じである。だから、ロスバードが行っているのは、実は、国家に対する批判ではない。彼の意図は国家に対する批判を可能にしている装置を問題にし、それ以外に自由を見出すことなのである。実際、自由化政策が、必ずしも、保守派の政権によってのみ実施されたわけではない。一九八〇年代前半に破綻したニュージーランド経済を自由化政策によって回復させたのは保守派の国民党ではなく、労働党政権である。一九八四年、デイヴィッド・ロンギを首相にした第四次労働党内閣が発足した。このとき、大蔵大臣に就任したロジャー・ダグラスは「ロジャノミックス」と呼ばれる大胆な自由化政策をうちだして、対外信用度が失墜し、街に失業者が溢れていたニュージーランドの経済基盤を再建した。だいたい一般にマルクス主義的政治体制として知られている統制経済・民主集中制・生産手段の国有化はマルクスやエンゲルスとは関係がない。ビスマルクは、当時、その三本柱を政策として実施していた。エンゲルスは、『反デューリング論』の註の中で、それを「国家社会主義」と呼んで、批判している。マルクスにしても、エンゲルスにしても、政治理論をほとんど著わしていない。マルクスは経済学批判に匹敵するような批判的政治分析や国家論を残さなかったし、エンゲルスも『反デューリング論』でデューリングの国家論を批判するスタイルで国家の死滅について言及している程度である。けれども、彼らが国家論を描かなかった点を否定的に考えるべきではない。国家は消滅していく以上、その後の政治体制を描くことは背理である。ブルジョア国家に対置するプロレタリア国家など存在しない。共産主義社会は実現してしまうものであって、各個人が自由であるために、描写すべきものではない。共産主義社会は何人にも、たとえマルクスやエンゲルスであったとしても、管理された社会であってはならないのだ。従って、それは自由放任の状態に置かれる必要がある。
マレー・ロスバードは、一九二六年、ニューヨークに生まれ。コロンビア大学を卒業後、ニューヨーク大学、プリンストン大学で助教授をつとめる。一九六八年から八五年まで、ニューヨークに住み、地域社会のボランティア活動に積極的に参加している。一九八六年から、ネバダ大学ラスベガス校教授に就任し、その後、ネバダ大学で教えている。ネバダ州は、ロスバードにとっては不十分かもしれないが、全米一「自由」な州である。ロスバードは、ギ・ソルマンの『二十世紀を動かした思想家たち』によると、「ラスベガスはよい趣味ではないが、広島よりずっといい。自由放任の哲学は決して人を殺さなかったし、誰も自由放任の名の下では人を殺さないのだ」と言っている。「わしらは、国家のない国に生まれたかったのう」(井伏鱒二『黒い雨』)。今日、自由放任社会の具体的なモデルを見たいと思ったら、ラスベガスにいけばいい。ラスベガスは、まだ十分ではないが、自由放任社会の先取りである。世界中の財政難に苦しむ国家や地方自治体は、カジノを中心にギャンブルを公認したラスベガス・モデルを実施したり、真似しようとしている。しかし、今やラスベガスはテーマ・パークの町なのだ。二十世紀の経済は、確かに、ギャンブル的だったから、カジノで収益があがっていたけれども、二十一世紀はそうもいかない。鉱山資源で栄えながら、それが廃れると同時に、衰退した苦い経験から、ネバダ州の人々は次の時代の予兆を読むことに長けている。二十世紀はアメリカの世紀だったが、ラスベガスはアメリカよりはるかに先行している。ラスベガスはアメリカの内在的批判、ポスト・アメリカないしはハイパー・アメリカである。ロスバードは、日本語への翻訳はほとんど行われていないけれども、経済学だけではなく、政治学や自由主義哲学に渡る著作−−『人間、経済、国家』、『自由について考えたこと』、『自由の倫理』、『新しい自由のために』、『権力と市場 政府と経済』、『個人主義と社会科学の哲学』、『一八一九年のパニック』、『貨幣とは何か』、『政府がわれわれの金に何を行っているのか』、『独占と競争』、『古典派経済学』、『行動の論理』、『アダム・スミス以前の経済思想』、『新しい土地、新しい人々』、『服従の政治』、『アメリカの大不況』、『革命への前進』、『銀行業務と景気循環』、『銀行業務のミステリー』、『金利と投資』、『フォン・ミーゼスの本質』など−−を発表している。ロスバードは、これらの著作を通じて、国家の不在から生じてくると思われる人々の不安や疑問に対して、明快に次々と答えている。そして、ロスバードはハイエクが結成したモンペルラン協会の一員として、「自由党」の理論家でもある。選挙結果はたいしたものではないが、全米に自分たちの主張を選挙という場を通じて響かせることこそが大事なのだ。彼らの主張と比べると、日本の「自由党」は「国家党」と改名したほうがいい。と言うよりも、日本で政治的場面で保守派が使う「自由」はすべて「国家」のことなのだ。
現代の自由放任派はオーストリア学派のルードヴィヒ・フォン・ミーゼスを守護神としている。オーストリア学派は経済現象すべてを個々の経済主体の主観的立場から研究する必要性を主張していた。経済的プロセスにおける時間の役割を最重要視し、価格形成だけでなく、景気循環や貨幣的撹乱の研究にも主観主義的=限界主義的アプローチを応用することを提唱していた。個人の選択は目的に従っているから、あらゆる妥当な経済的推論の根拠を構成するというのがミーゼスの持論だった。ミック・ジャガーが卒業生として知られるLSEの教授だったハイエクはミーゼスを継承してケインズに果敢に論争を挑んだが、オーストリア学派はケインズ派に破れ、その権威を失墜してしまい、ミーゼスにしても、ハイエクにしても、経済学ではなく、哲学の領域の研究に向かうことになる。ところが、日本での自由化論の多くは政経分離を前提にしている。彼らは経済においては自由化を主張しても、国家の権威や機能を強化しようとする。ジェレミー・ベンサムの「最大多数の最大幸福」という基準の根本にある「幸福の計算」も、自由主義の仮面を被った国家主義者は経済学ではなく、法学に適用してしまう。自由主義は国家主義や民族主義と根本的に違う。日本の自由化推進派は福祉国家論者より悪質である。なぜなら、自分たちに都合のいい部分だけ自由放任派を利用しておきながら、その本質部分を無視して、自由主義に関する認識を歪曲して世の中に広めているからだ。福祉国家論者は、一貫しているという点で、彼らよりよっぽど良心的である。福祉国家論者は、良心的であったとしても、自由競争が弱者を切り捨てることだと非難しているから、これは大きな間違いだと言わなばならない。公的なものが弱者の面倒を見ているという考えは、税金を通じてしか弱者を援助できないということを意味している。公的なものの独占・規制が強いところでは、民間のボランティア活動も育成されない。法的規制は公的なもの自身に対して甘いし、弱者救済の名の下に行われる法的規制は、自らの工夫のなさを保護するための方策になっている。強者が弱者を支援する方式をとり、強者と弱者の関係を多様化・流動化させる。強者と弱者の差の拡大、貧富の差の拡大といった現在市場経済の問題と福祉国家論者がしているものは、市場に原因があるのではない。すべては国家の存在のせいなのだ。国家のプロパガンダのために、原因と結果を転倒している。国家の干渉から解放された市場においてはそんなことが起ころうはずもない。市場を国家の存在を前提にした制度として考えるのではなく、リビドー的に把握しなければならないのである。さらに、日本だけでなくアジアでは、自由化はアングロ・サクソン流の発想であり、アメリカはそのローカルなものを世界中に独善的な態度でおしつけているという誤解が広く流布している。確かに、修正自由主義はそうだろう。しかし、それも真の自由主義であるリバータリニズムが世界に浸透するのを妨げようとする国家のプロパガンダなのだ。あるリバータリアンが老子を援用しているように、自由放任の社会が世界交通の場である以上、その発想も世界交通の産物である。だいたいリバータリアニズムは、アメリカでは、フーリエ的なユートピアとして斥けられ、依然として少数派である。市場経済によって拝金主義が蔓延するというのも誤解だ。なるほどリバータリアンは倫理も市場が規定すると言う。残念ながら、現在、市場には倫理の決定権を十分に委ねられてはいない。倫理の決定権を市場から奪っていおきながら、倫理の不在をあげて自由放任派を批判することは根本的に誤っている。かつてジョン・マクフィーは、水爆の開発者の一人で、素人による核兵器開発の危険性を指摘していたテッド・タイラーを取材し、『結合エネルギー曲線』(邦訳は、ちゃっ太くんでおなじみの文化放送開発センター出版部から、『原爆は誰でも作れる』のタイトルで出版された)を発表したが、誰もがインディペンデントなゲリラになれるインターネット社会では、核開発の知識をいかなる人でも手に入れることができる。可能であるからといって、それを実行に移すかどうかは倫理の領域に属し、それを最初に破ったのは国家である。核開発を市場が望むかどうかなど考えるまでもない。国家において倫理は最も不在になる。自由放任社会ではたんにルールを守るだけではなく、創造的につくることが求められる。
そのルールをつくれれば、JOQRのアナウンサー藤木千穂が、「世界三大美女の一人」と称して、谷崎潤一郎的理想を一身に受けつつ、次のような「ちぽりん写真館」なるサイトを開設するのも、まったくの自由である。
http://www.joqr.co.jp/people/html/people-frm.html
http://www.joqr.co.jp/people/html/tiporin.html
また、同じJOQRアナウンサー水谷加奈が「画伯」として、おそらくパブロ・ピカソ的理想を体現している自作を次のようなウェブを通じて公開するのも、自由である。
http://qteamer.net/kana-tenzi.htm
電子産業では従来のルールを適用することはできない。メーカーは、発売したコンピューター・ソフトについて、ユーザーに指摘されたミスをフィードバックすることにより、品質を向上している。これはコンピューターそのものに似ている。市場は、このようなイノヴェーションの速度が速いコンピューター業界に対して、鉄鋼業界と比べると、ゆるいルールを適用している。後者がボクシングだとすると、前者は場外乱闘やスリー・カウント以内なら反則さえも許されているプロレスのルールで戦っている。そのほうが消費者のメリットになるからだ。これは、ハイテク産業時代には世界に名だたる地位を持っていた日本が、行政による規制が強く、市場を十分に生かしきれなかったために、IT時代に突入した途端に、優位性を失ったことからも明らかだろう。国家は自分にとって都合が悪いのものだから、この市場のルールの創造を倫理の不在と言いがかりをつけているのだ。シカゴ学派の一人であり、主流派経済学者から「知的帝国主義者」と非難されるゲイリー・S・ベッカーは、従来社会学、心理学、人類学に属していると思われていた領域を経済学と結びつけているベッカーは、『罪と罰−経済学的接近』の中で、倫理は決して「公共の利益」によって決まるわけではなく、もし「罪」というものの期待便益、もしくは逮捕や刑罰の可能性に換算した罪の期待コスト、ならびに彼らの特別なリスク選好が与えられているならば、「罪」とはある人々が完全に合理的理由から行うもう一つの仕事にすぎないと書いている。とは言っても、市場が突飛な倫理を求めるのではないかという懸念は無用である。日常の中で、人々が平和で生産的、協力的な人生をおくれるようにすることこそが市場の導き出す倫理である。極端な緊急事態を想定してリバータリアニズムを批判するのは見当はずれだ。戦争のような非日常的状態をつくりあげているのは国家であって、その国家のプロパガンダにのってはならない。オーストリア学派は新古典派経済学の主流に合流し、一九三〇年代に消滅したわけだが、一九七〇年代に入ると、アメリカで新オーストリア学派として復活した。これにはミーゼスの弟子だったハイエクに負うところが大きい。ただ、シカゴ学派とも呼ばれる新オーストリア学派は、旧オーストリア学派と違い、一般均衡論、数理経済学、計量経済学、経済学的予測をすべて拒絶する。彼らは、最終的な均衡状態の特性分析よりも、むしろ、ある均衡に達するまでの競争プロセスの分析に関心をよせているのだ。言うまでもなく、サンタフェ研究所を中心とした複雑系の経済学が登場してからは、均衡経済学がいささか古びている点は否めない。そのため、自由放任派も複雑系を導入しつつある。
Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world...
ロスバードはこのような新オーストリア学派の認識・方法をラディカルに押し進める。すべての問題は、現体制では、公の領域に属している。いっさいは市場の判断に委ねるべきなのだ。環境汚染を考えてみよう。空気や水を誰も所有していないため、人々は結果も考えず、汚してしまう。人間はまず生まれながらに所有権を持っていることに気づくべきなのだ。ただし、この所有権には、市場が許す限りにおいて、各個人の同意に基づく共有も含まれている。所有と共有を対立する概念として考えているレヴィナス派の思想家もいるが、それは市場を無視した誤解にすぎない。市場はそんなに愚かではないのだ。確かに、ハイテク産業が膨大なゴミを排出している。ユルゲン・ハーバーマスが、緑の党の躍進を受けて、環境問題への関心が世界を動かす力となりうると言っているように、市場も消費者のエコロジーへの関心に反応している。ハイテク企業も、市場の動きを尊重するなら、エコロジーに向わざるをえない。十九世紀の段階で,クェーカー教徒は「倫理志向型投資」を始めていた。これは道徳的要素を判断基準にして投資を行うというもので、今では,各種教会を中心に,さまざまな種類が存在する。「雇用を創出しているか」,「従業員が自由に発言できるか」,「障害者の雇用を進めているか」,「外国出身者が働きやすい環境であるか」,「商品やサービスが社会に貢献するものか」,「環境保護に積極的に取り組んでいるか」等が基準になり、また、途上国に進出している企業の場合には,「現地の人の管理職を養成しているか」,「現地へ技術移転を行っているか」,「進出先の職業教育に協力的か」,「進出先の経済的ニーズに応えているか」などがさらに加わる。こうした投資グループは問題企業を告発することはしない。ただ、投資を見送るだけだ。利益は会員の年金に当てたり、発展途上国で活動する非政府組織への寄付にまわしたりしている。まだ倫理志向型投資は、投資全体から見れば、規模は小さいが,いずれ無視できない勢力になるだろう。市場では、論理と倫理に投資される。論理と倫理を欠けばどうなるかは、デフレを招いた日本の政治・経済が示している。。所有欲を倫理的に律するのは、所有の認知だけである。所有から切り離された実定法など存在しない。基本的人権は所有権である。合衆国憲法補正第一条の「出版の自由」も、所有権なくしては、ありえない。
AMENDMENT T
Congress shall make no law representing an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech, or of the press, or the right of the people peaceably to assemble; and to petition the Government for a redress of grievances.
自由にできる電話が一つでもなければ、インターネットにしたところで、個人は自由に発言することすらできないだろう。その権利を行使するには、電話を所有するか、電話を所有している人から借用しなければならない。所有に対する侵害はすべての人権に対する挑戦である。自由は所有と同意義だ。「自由とは、各個人が、自分自身および、交換や贈物で得たものを処分できる自然権だ。所有と自由はしたがって不可分である。所有に対する侵害は自由に対する侵害となる。自由と所有権を切り離す社会は、その権利の行使の条件を人間から奪うことになる」。ロスバードは、原則的に、暴力革命を認めないが、自由を求める場合は別だ。一七七六年の合衆国の独立と一八四八年のフランスの二月革命は、ロスバードによれば、自由を促進した代表的な革命である。二〇世紀のすべての革命の出発点は自由への渇望があった。国家に反対し、私的所有を支持する動きがあり、それは個人的自由と物質的豊かさを獲得しようとする自然発生的な運動だった。一九一七年のロシアと一九四九年の中国の革命は私的所有を求める農民の反乱であり、彼らは平等を求めていたわけではなかった。まして国民国家建設などまったく眼中になかった。そもそも平等と自由の関係は並列ではない。平等はすべての人間に所有権が認められ、選択の自由があるということだ。革命の最終結果にとらわれて、最初の要求が何だったのかを見失ってはならない。自由を保証するのは市場であり、市場を優先させるなら、すべてに所有権を持たせないとうまく機能しない。市場の完全性を阻むものは費用逓減産業と外部(不)経済の二つがある。前者は生産量を極端に大きくしなければ、一単位あたりの生産費が最低点を示さないような巨額の資本を必要とする産業である。大型の土木・建築工事がそれにあたる。「土建国家」とも揶揄される日本で、自由化が進まないのは、経済学的には、当然である。経済学における外部とは市場を通さない領域あるいは部分である。市場経済を二〇世紀が選択した以上、外部を想定すべきではない。二〇世紀、多くの移民や難民、亡命者がアメリカを目指したが、それは彼らがアメリカでの生活に憧れていたからではなく、二〇世紀がそこに体現されているからだ。二〇世紀はアメリカの世紀である。村上龍が『希望の国のエクソダス』という脱出・建国物語を書いているが、これは恐ろしく時代錯誤的かつ土着的な作品と言わざるをえない。脱出信仰はアメリカ以外でのみ有効である。村上龍の不徹底な認識を受け入れている点からも、日本人が市場経済をまともに考えていないことは明白であろう。アメリカを脱出すべく、若者を中心にヨーロッパやアジア、アフリカ、ラテン・アメリカに向った。しかし、それは幻想でしかなかった。アメリカからの脱出はアメリカにおいては不可能である。アメリカには、二〇世紀においては、外部はない。外部を安易に希求するよりも、二〇世紀では、むしろ、(複雑系の源泉でもある)E・フッサール流の「方法的独我論」を追求すべきである。外部経済は、山地の植林と平地の農家、もしくは鉄道の新駅と地主、養蜂家のように、市場を通さないで利益をあげることであり、一方、外部不経済は、公害や環境汚染のように、市場を通さず、損失をつくりだすことを指す。しかし、どちらも、産業資本主義の時代の話であって、市場経済の発展の下では、時代遅れとなっているのは明白だ。むしろ、道路はすべて私有道でなければならない。公道が存在しないなら、道路建設の許可をとる必要もなく、土地の所有者は自分の意思に基づいて道路をつくれ、整備のいきとどいた道路を利用できるだろう。フランク・ナイトは、『社会的費用の解釈における若干の誤謬』において、ピグーの『厚生経済学』の重大な欠陥、すなわち道路の渋滞が道路税という形の政府の介入を正当化するピクーの提言の欠陥を発見した。ナイトは道路の所有権を私有化すれば、有料通行になり、渋滞を自動的に抑制できると反論したのだ。所有権論の第一命題は希少資源の所有権が明確に限定されている場合にのみ、市場は効力を生ずる。道の所有者は通行料を徴収し、それに基づいて、道路をつねによい状態に整備するだろう。通行しない道路のために料金を支払わなければならないという矛盾は解消される。かりに道路整備を怠ったり、不当な金額をとろうとすれば、誰もその道路を使わなくなり、別の道路を通ることになる。不必要な道路は建設されず、通行料金は適性に維持され、安全性も、当然、格段に高まる。
規制がいかに幻想を生み出しているかを交通の例で示してみよう。交通を見れば、その地域の人々の意識を把握することができるからだ。一九九七年に発表されたウィンドウズNT4.0の開発コード名であるカイロには、信号や横断歩道がほとんどない。道路は四車線以上がほとんどである。老若男女を問わず、人々は走っている自動車の間をぬうようにして道を渡る。なかなか流れが切れなくても、軽く手で合図を送れば、車も速度を落とし、渡ることができる。その脇を自転車やバイクの運転手や同乗者が手信号を示して曲がり、子供たちがロバやラクダに乗って通学していく。みんなお互いを配慮している。歩行者も、ドライバーも、いやすべての人々が流れを読むことに慣れているから、車が多く、道がいりくんでいるために、交通渋滞で有名なカイロだが、交通事故はほとんどない。初めての旅行者も、うまそうな地元の人の後についていけば、心配いらない。渡れてしまうのだ。西アジアや北アフリカの都市部ではほぼ同じ光景が見られる。重要なのは国家による規制ではない。こうした自然発生的な人々のルールの共有である。日本では、交通事故を減らすために、信号や横断歩道が必要なのだと信じられている。実際には、信号や横断歩道を増やしても、交通事故は依然として増加し続けている。しかも、業者と官僚が癒着し、税金を無駄に使っているだけなのだ。譲り合いの気持ちを推奨するようなスローガンが虚しく掲げられている日本の道路では、今日も、誰かが傷つき、亡くなっている。業者と官僚を肥えさせている信号機は、あたかもその墓標のように、立っているのだ。一方、西アジアや北アフリカでは、自動車道路と並列している歩行者道路において、若者の「爆笑」ガール・ハントを見かける。初対面の日本人女性に、いきなり、「ねえ、僕と結婚しない?」と声をかけてくる。女性が、当然、「えっ?でも、あなたのことよく知らないし」と答えると、「じゃあ、友達になろう」と言ってくる。これがまず一般的な情景なのだ。この光景が信号も横断歩道もない「路上」(ジャック・ケルアック)である。
Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...
自由放任社会では、各人が自分自身の所有者である。個々の思想・信条の自由は尊重される。何人もそれぞれの生命・自由・財産を侵害してはならない。自然発生的な個人行動に対して干渉が少なければ少ないほど、よりよい状態なのだ。かりにエルトン・ジョンを反道徳の汚らわしい存在と見なす保守的なキリスト教徒の年老いた女性の家主がゲイのカップルに部屋を貸すことを拒否した場合、彼女に国家権力を使って強要させるのではなく、リバータリアンはそれを議論する場を置くことのほうが重要だと考える。リバータリアニズムは参加の哲学である。自由放任の社会は管理社会とは違うが、さりとて、野放しの状態でもなく、人々がいかなることにも関心を持ち、参加するようになっている。確かに、自由放任の世界には法律(ロー)はない。けれども、規則(ルール)がある。この世界は交通によって構成されているからだ。制限速度の遵守以上に流れに乗ることのほうが重要であるように、交通には法律はないが、規則はある。二〇世紀のメディアはパーソナル化し、この現状にあって、自由放任が機能できる用意ができた。国家が崩壊してしまえば、個人に至るまで際限のない解体が続き、そのアトムとしての個人のケミカルな連合が始まる。自由放任の社会には無数の小国寡民のコミューンが存在するだろう。それぞれ毛沢東主義コミューンであろうが、ガンジー主義コミューン、ウッドストック・コミューンであっても、ゲイ・コミューンでも、阪神タイガースのファンのコミューンであったとしても、かまわない。コミューンは集団的匿名である。コミューン間の人々の移動は自由である。好きなコミューンに入り、好きな言語を話し、好きな文字を使っていい。嫌になったら、変えればいい。望むなら、コミューンをいくらでもかけもちしてもいい。すべては自由である。自由は選択が許されているということだ。国家から一方的に押しつけられたアイデンティティは無効である。アイデンティティという「戸籍の道徳」(ミシェル・フーコー)は自由放任の世界においては完全に消滅する。だいたい誰もが発信者になれるインターネット社会である今でさえも、「日本人」というアイデンティティ以上にプロバイダーと契約できる信用があるほうがはるかに重要である。自分自身が何者であるかということも自由に選択できる。選択の自由が尊ばれるからだ。美容整形するのも、性転換をすることも、離婚も自由である。自由放任の哲学は寛容だ。もちろん、すべてが思い通りになるというわけではない。国家の廃絶は権力の消滅を意味しないし、規則がある以上、タブーは存在する。それに、科学技術を筆頭にする時代的な限界もあるだろう。このユートピアではそれを個人が変える自由を残している。従って、コミューン間にも、コミューン内にも、結びつきはできるかぎりゆるやかにする必要がある。リバータリアニズムはアナーキーだとしても、共通理解をお互いに持つことができるかを考慮に入れている。共通理解の一つは選択の自由の保証である。麻薬や賭博、売春、安楽死は、十分な情報開示が行われた上で選択された場合、個人的な事柄であって、個人レベルで行われるかぎりにおいて、犯罪ではない。禁止の範囲や項目を決めるのも市場である。ただし、麻薬依存や賭博依存、性差別、貧困といった社会的問題は、自由放任社会は個人に幸福をもたらすから、そこでは減っていく。
移動の自由は、選択の自由に基づいて、完全に保証される。通行の自由は絶対であり、市場が規制しないかぎり、移民も自由である。移民は国家概念を脅かすから、警察を使って取り締まり、規制するのだ。第二次世界大戦以降差別は人種主義的姿から文化主義的なものへと変質した。今の極右は同一化を強要せず、むしろ、差異を重視し、それを固定化させて主張する。あるフランスの極右のメンバーは、「われわれはアラブ人がフランス人より劣っているとは考えていない。アラブの偉大な文化を尊敬さえしている。ただわれわれはフランス人だから、フランスに住むべきであり、アラブ人はアラブで生きていたほうがいいと思っている」と言っていた。この種の主張は、日本では、差別意識だと認識されず、メディアの前で、口にされている。「この点では、二十一世紀の日本にとっては、外国移民の問題が救いになるかもしれぬ。賛否がどうあれ、その時代には千万のオーダーの移民が予測されるから。教養ある知的階層、『優秀な人材』に移民を限定するという政策はまずいし、実際にもうまくいくはずがない。『文化水準』ということでは、『優秀でない人材』が当然に入ってくる。アメリカでも、プエルトリコやチカノに関して、差別発言をした人と同じ 状況が、二十一世紀の日本にも来る。しかしながら、アメリカの本当の底力は、『文化水準』の低いマイノリティ、『優秀でない人材』がどんどん入ってくることによって支えられている。マイノリティの二世 や三世が、新しい文化的活力を持った人材となっているのだ」(森毅『考えすぎないほうがうまくいく』)。外国人の規定は国民国家にとって都合のいい形で決まる。国民全体の救済を掲げているから、国民国家を国民が支持してしまう。国民全体の救済は、実際には、外国人を排除し、その犠牲を強いることを意味している。市場の自動調節機能は、国家同様、幻想であろう。しかし、市場は国民全体を救済しない。市場には外国人が存在しないからだ。国民国家は移動の自由を嫌う。国家はパスポートやビザ−−本来、モンゴル帝国のイスラーム教徒が自由かつ安全に移動するために考案したにもかかわらず−−を移動の制限の道具として発行している。国家はいかなることも自分の延命策の一つにしてしまう。労働運動の衰退も、やはり、移動の制約に原因がある。企業は国境を自由に移動できるが、労働者にはそれができないから、相対的に労働者の力は低下し、労働者は移民排斥に賛同してしまう。国家は人を心理的にも屈折させてしまうのだ。
現代世界で主流の国家概念は「国民国家」であり、世界各地で起こっている戦争、紛争、対立、抗争はこの国民国家の矛盾に起因している。人権抑圧を非難しても、国民国家では内政干渉として斥けられてしまい、結果として、多国籍軍による軍事介入だけが問題解決の方法と見なされてしまう。イラクには、アラブ系のシーア派イスラーム教徒とスンナ派、クルド系スンナ派がほぼ拮抗して住んでいる。これをアラブ・ナショナリズムで結束しようとすれば、クルド人は抑圧され、スンナ派イスラームでまとめようとすれば、シーア派が排除される。イラクという国民国家は国民主義とアラブ主義、イスラーム主義という三つの理念の微妙なバランスの上で成り立っている。人口比では、シーア派が最も多く、人口の約六割を占めているにもかかわらず、権力中枢から締め出されているため、彼らの疎外意識は高い。イラクでは、クルド人の存在自体を認めないトルコとは違い、クルド語も、アラビア語とならんで、公用語に指定されている。そんなイラクで、湾岸戦争からアメリカが目の敵にしているサダム・フセインが権力を強化できたのは当のアメリカのせいである。アヤトラ・ルッホラ・ホメイニに率いられてイスラーム革命を達成したイランの影響を受け、過激化したイラク内のシーア派に危機感を抱いたアメリカが、イラクの事情を無視して、国益の名の下に、アラブ系スンナ派のサダム−−彼のバース党はもともと世俗的なアラブ民族主義政党である−−を支援したのだ。バランスの崩れたイラクで、イランとの戦争の間だけで、サダム・フセインは、BBCによると、化学兵器や爆撃、収容所を用いて、二十万人のクルド人を虐殺し、百五十万人を強制移住させ、難から逃れるため、イランへ二十六万人、トルコへは六万人のクルド人が難民として脱出している。
こうしたアラブ世界の人々から見ると、日本人の持つ「国民」意識は世界で最も国民国家的であり、異常な精神構造である。国民国家を建設しなかったアラブ人にとって、「国家」は自分たちを帰属させる数多い枠組みの一つでしかない。国民という意識は非常に弱く、国境を軽視している。アラビア半島の国々の中には国境線が確定していないところもあるが、アラブ人たちは別に気にしていない。「日本人とは何か」という議論が蔓延しているのは、選択の自由が否定されているからであろう。「二つ以上の方法があって、そのうち一つが大災害につながる場合、人はそれを選んでしまう」(ジョン・スタップ)。このマーフィーの法則を日本人は実証している。古代の国家は、階級関係の固定化と支配拡充のために、支配階級が推進して成立し、支配者階級は、同一の信仰を通じて、全成員の共同意識を強化したわけだが、近代日本の精神構造はこれと同じである。国民国家は、存立基盤を確保するため、聖徳太子の「日出る処」から「日の丸」、万葉集などから寄せ集めて「君が代」を考案したように、忘れられていた過去の幻想を実体化する。国民国家建設には内戦と少数派弾圧がついてまわるが、日本の場合、戊辰戦争と西南戦争、アイヌへの弾圧がそれにあたる。アイヌ語は公教育の場から完全に追放された。その上で、国民国家は個人にあらゆる手段を使ってアイデンティティを強制する。抽象的な国家の存在を視覚的表現である国旗と聴覚的表現である国歌によって象徴させる。国民国家は偶像崇拝によって成り立っている。国民国家は、そのため、歴史を嫌う。歴史を研究すれば、国民国家の基盤がたんなる幻想にすぎないことが明らかになってしまうからだ。ユダヤ教を信じていたのは、歴史的に見て、ユダヤ人だけではない。七世紀から一一世紀までコーカサスからカスピ海北岸に居住していたトルコ系のハザールは、八世紀にユダヤ教を奉じて東ローマ帝国と対立している。かつてロシアと東欧で「ユダヤ人」と呼ばれていたのは、西欧の場合とは異なり、このハザールに起源を持つものほうが多かった。現在、イスラエルでは、「ユダヤ人」とは母親が「ユダヤ人」である者かユダヤ教徒を意味する。母親が「ユダヤ人」であれば、戒律を守らなくとも「ユダヤ人」と見なされるし、母親が「ユダヤ人」でなくとも、改宗すれば、「ユダヤ人」になれるといううわけだ。ただし宗派によって見解は異なっているので、「ユダヤ人」に関する定義は決定的ではない。国民国家は規定を強制したがるが、すべては世界交通の産物である以上、完全な規定は幻想にすぎない。だから、国民国家は公教育と常備軍を通じて国民を生産する。それらはあくまで国家を維持していくための機関であって、個人のためにあるわけではない。沖縄戦の際、軍人が民間人に対していかなる姿勢をとったか、さらにたんなる写真を守るために何人が死んでいったかを思い返すだけで、これはわかるだろう。軍事力の発動は国内の経済のいきづまりから国民の不安をそらすために行われている。ロスバードのユートピアを空想的と批判する前に、軍の考える兵器や作戦がそれをはるかに凌ぐことを忘れてはならない。竹槍でB29を墜落させようという作戦は、いかなる国家主義者でさえ、国家の廃絶以上に非現実的だということを認めるだろう。
アウグスト・ピノチェト元チリ大統領に対するスペインやフランスの検察当局の動きもそうだが、国家概念が破綻していることは合衆国政府自身が認めている。一九九八年、合衆国はアフガニスタンとスーダンをミサイル攻撃した。オサマ・ビン・ラディンから資金提供されているテロリストの訓練施設と化学兵器施設があるという理由だった。これはケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件への報復であり、あのテロにはオサマ・ビン・ラディンをスポンサーにするテロリスト組織が関与していると見られていた。いくら攻撃されても、タリバーン派の支配するアフガニスタンは国際的な発言権を持っていない。北部に追いこまれたラバニ派が依然として国連の発言権を握っているからだ。オサマ・ビン・ラディンはタリバーン派に影響力を持ち、その支配地域を活動拠点の一つにしている。正統性は国際社会から承認されて初めて成立する。合衆国はタリバーン派自体と戦争をしているわけではない。あくまでオサマ・ビン・ラディン個人の支援するテロ組織と戦争をしている。個人は国家と戦争ができるのだ。コーエン国防長官は「ビン・ラディンが米国に戦争を宣言している限り、彼個人も戦争行為に絡んでくる」と声明を発表している。ある情報担当高官は「米国に対する報復攻撃の恐れは非常に大きい。これはテロに対する本物の戦争だ」と語った。サウジアラビアの建設実業家の息子であるオサマはその莫大な財産をイスラーム戦士養成と諸々の援助に注ぎこんでいる。ビン・ラディンが資金提供しているテロ組織はアフガンやチェチェン、ボスニア=ヘルツェゴヴィナなどにイスラーム戦士を派遣していると言われ、中東から中央アジアにまたがる極めてゆるやかな国際的なネットワークであって、国家概念はこうした個人の国際的連合体によって脅かされている。資金取り引きの禁止をしようにも、あまりにはっきりしないために、不可能である。軍事力は経済的な問題の下にあり、国際秩序維持はそれに対するまやかしを帯びている。国民国家の概念は崩壊しているにもかかわらず、安全保障に関する認識は依然として変わっていない。安全保障は、国家にとって、外交とならんで、独占事項だからだ。寺山修司は、『ヒットラー』の中で、中学時代、「戦争権」を国家に独占させず、個人に委ね、「戦争したい人たちの団体申込み」をまとめて、したい相手に送ることを夢想したと書いている。国家はあまりにも甘い汁を吸ってきたので、それを手放すことはない。実際には各国の安全保障を脅かしているのは、ヨーロッパ諸国がEUを結成して国家の垣根を低くしようとしているように、国民国家概念そのものである。第一、国民国家の崩壊を体現しているのもはアメリカ合衆国自身なのだ。アメリカの一極支配は世界の解体を生じさせた。それはパーソナルのレヴェルにまで行き着いている。フランシス・フクヤマはアメリカの支配と歴史の終わりをヘーゲル主義に基づいていた。ヘーゲルの死後、ヘーゲル主義者が分派闘争を始めたごとく、統一は解体の予兆である。アメリカ人は、ネイティヴ・アメリカンとかアフロ・アメリカンといったように、形容詞が欠かせない通り、実体としては存在せず、アメリカ合衆国は、ヒューム流に言えば、知覚の束にすぎないのだ。
これほどまで国民国家概念が崩壊しているのに、ロスバードによると、人々がその存在を自明視しているのには理由がある。いかなる体制も、王政であっても、独裁制であっても、共和制であっても、世論の支持がなければ、保持できない。ただし、この支持は積極的でなければならないということはなく、シニカルな諦めで十分である。ラ・ポエジーは、『自発的服従について』の中で、国家は集団の同意による少数派の専制権力だと定義している。国家は、それを利用して利益を獲得する個人や集団のために、存在しているというわけだ。とは言っても、国家はF・オッペンハイマーが論じたような有力な種族あるいは階級がほかを征服して誕生したわけではない。漁夫の利ということもありうるように、有力だから支配者になれるとは限らないだろう。国家を含めたすべての権威的な制度は人々が熟慮の上で生み出したものでも、功罪ともに承知して構築されたものでもない。国家には領域・人民・主権という三つの要素がある。主権は統治権を意味し、対内的には最高の権力であり、対外的には独立の権力である。国家を正当化しているのはイデオローグである。国家はイデオローグを採用する。消費市場において、知識人に対する需要は決して高くない。国家が正当的な概念と考えられているのはイデオローグの仕業なのだ。国家はイデオローグを雇い、彼らに個人で犯した罪を罰し、国家による集団の罪は正しいというイデオロギーを正当化させてきた。J・K・ブルンチェリやH・スペンサーは国家を生命ある有機体と見なし、その構成員の個人は全体の機能を分担するだけという考えを示した。「元首」という概念はこの発想に基づいている。また、K・F・ゲルバーやG・イェリネックは、国家とは法的関係の主体となり得る法人であって、主権は君主にも人民にも属さず、国家自体にあり、君主は法人である国家の機関として統治を行うと言っていたし、H・J・ラスキやR・M・マッキーバーは国家が諸集団の利害や機能を調整していると主張した。国家は政治の機能を遂行するための組織であって、国家権力、すなわち政治権力は警察権・刑罰権・徴税権など法律ら基づく強制力を所有し、これを背景に政治の目的を実現する。国家は強制力を持っており、それがほかの諸集団と異なる点である。しかし、実際には、国家が国民的利益を政策に立案し、その実現を計れたことはない。「全体の利益、民衆の利益は、明らかに平和にあって戦争にはない」(マルタン・デュガール『チボー家の人々』)。国家はイデオロギーによって存在している。イデオロギーの終焉は、国家がある以上、ありえない。イデオロギーの内容は変化してきたが、その目的は同じだ。国家の存在は必要不可欠だと人々に納得させることである。イデオロギーは、物理的暴力以上に効果的だ。暴力とイデオロギーの関係はイソップ寓話の北風と太陽の関係と同じである。支配者はそれを知っていた。物理的暴力は強制的服従を人々に求めるにすぎず、反発を招きやすい。短期的にはいいかもしれないが、長期的にはむしろマイナスの効果しか生まない。そう考えると、中央集権的な福祉国家概念は、国家を存続させるには、まったくうまいやり方だった。国家に依存させて、人々を国家中毒にしてしまった。国家を廃止しようとすると、「Cold Turkey」(ジョン・レノン)に悩まされてしまう。国家のイデオロギーはすべてプロパガンダである。イデオロギーは世論を自発的服従に、そうと思わないように、させられる。イデオロギーさえあれば、その暴力も、少なくとも、必要悪くらいまでは世論を納得させられる。歴史的に、国民国家は官僚制度を整備し、有力な知識人をイデオローグとして味方にひきこむことこそ、存在における不可欠の条件となった。ヨーロッパにおいて、中世までは僧侶階級がその役割を果たしてきた。近代に入ってからは、専門的知識を持った学者が、彼らに代わって、それを担った。イデオローグは、程度の差こそあれ、表現や伝達経路を管理し、情報を統制する。自由に目覚めた民衆が革命を起こすことを阻止しなければならないからだ。国家がイデオローグを必要とするように、一度国家にとりこまれた知識人たちも国家に依存している。国家がなくなれば、彼らは失業してしまう。知識人に対する需要は国家が最も多いのだ。労働市場では知識人サーヴィス提供の需要はさほどない。国家は圧倒的に供給過多の状態に知識人養成を行っている。だから、国家は知識人を最低価格で雇えるし、知識人にしても、職が保証されることは喜ばしいことになるのだ。さらに、ロスバードは、カール・ポパーに代表されるウィーン学派の通説に従い、知識人にはプラトンの哲人政治への郷愁があると指摘する。プラトンはギリシアのデモクラシーに反発し、彼の哲人政治のモデルは古代エジプトのような専制政である。イデオローグは支配者になる欲望を満足させたいのだ。世論は国家のイデオロギー装置のために、国家がなければ社会はまったく機能せず、生活もままならなくなると思いこまされている。事実は逆だ。国家がなくても、いや国家がないほうが、社会はうまく働くのである。
ロスバードを含めリバータリアンには、言うまでもなく、ある種の認識が欠けている。オーストリア学派は時間を経済学に導入した。かつて技術革新は熟練労働者から職を奪う悪だったが、オーストリア学派はその技術革新を重視した。街頭にあったテレビが、技術革新のおかげで、お茶の間、さらには寝室にまで置かれるようになった。貧困が生ずるのは国家が技術革新を規制するからだ。コンピューター業界が冷戦崩壊後著しく発展したように、国家に管理されている軍事ほど技術革新を阻害するものはない。「自由放任社会では、経済成長はとても早いだろう。国家がもはや、税金や規制で成長を抑えないだろう。したがって貧乏人は減るだろう。そして慈善が復活する。現行制度では、貧乏に直面すると、われわれの反応は“国家がやることだ”と言うだけだ。自由放任社会では、連帯と共同体の相互扶助の精神が再生するだろう」とロスバードは予測する。貧困を解決するのは技術革新というわけだ。ところが、コンピューター業界では、技術革新の速度が速すぎることによって、苦境に陥っている。とうとうマックはウインドウズに白旗をあげた。リバータリアンは技術革新の速度は頭に入れていても、加速度を考えていなかったのだ。現在を所有できても、未来に対して所有権を主張することは難しい。さらに、自由化は各業界に再編成を促しているが、加速し続ける技術革新と拡大する市場に対応するため、寡占体制が生まれている。寡占体制はリバータリアンが非難してやまない大家ジョン・ケネス・ガルブレイスが高く評価しているものである。ガルブレイスは制度学派の長老であり、自由放任を厳しく戒めてきた。だいたい売り手が少数で、しかも生産物の差異化と市場支配力をかなりの程度持っている寡占体制は、経済学において、最も分析されていない市場である。リバータリアンは完全独占市場や独占的競争市場を批判したが、完全競争市場ではなく、寡占市場がその帰結なのだ。
けれども、その寡占市場の内実はリバータリアニズム的であると言っておかなければなるまい。企業体も従来のヒエラルキー構造から、インターネットのように、中心のないダウンサイジングしたグループのゆるい連合体化している。下部醸造が上部構造を決定するというわけだ。「リナックス」OSはそういう社会の生み出したまさに時代の申し子であろう。ネット社会は、本質的に、ボランティア活動によって支えられているが──市場とボランティアの両立こそリバータリアニズムの理想である──、リナックスはそれも体現している。一九九一年、フィンランドのヘルシンキ大学に在学中のLinus B. Torvadsというスウェーデン語を話す21歳の若者が、「minix」というOSを開発した。minixのニュースグループであるcomp.os.minixへ現在開発中のOSにいかなる機能が必要なのかを尋ね、初期のLinuxのカーネル──システムの中心になる核──の配布をアナウンスした。その後、インターネットを通じて、そのOSは「Linux」として無償で公開された。世界中の技術者が情報を共有して、それに改良を加え、一九九四年、初の公式カーネル「Linux 1.0」がリリースされ、次第に、ウインドウズOSやマックOSにひけをとらない(AT&Tソースコードをいっさい使用しないフルスクラッチで開発したこともあって)無料基本ソフトに成長した。Hej! Hur har du det? Vad sa du? Hur har du det? Tack, mycket bra. Saanko tulla mukaan? Totta kai. Kiitos. 正式な配布版が存在しないリナックス・コミューンには、「たこは財産」という言葉がある。「たこ」はセクハラの民事訴訟で敗訴した大阪府知事を指すわけではなく、初心者のことである。初心者に対する高い信頼性を実現し、とっつきやすくすることが、普及には欠かせないと考えているからだ。ただこの普及はたんなるユーザーの増加を意味しない。リナックス・コミューンにおいて、リナックスを文化と捉えている。リナックスは、従って、青いリンゴをかじりながら、汽車の窓にハンカチ振ることはあっても、赤いシャッポを脱ぐことはしないのだ。「モナドには、そこを通って何かが出入りできるような窓がない」(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ『モナドロジー』)。ちなみに、広告が絶えず画面に入る猥雑さが嫌いではないわれわれは「Official RedHat Linux 6.1」も持っている。
多少の予想は外れていても、国家が市場に脅かされているのは、喜ばしいことに、事実なのだ。ジョージ・ソロスによって、イギリス政府がポンド切り下げに追いこまれたように、国家が市場に屈服したケースさえ少なくない。ヘッジ・ファンドの問題点は融資の審査の甘さにあった。それを許したのは国家だったのだ。ところが、国家は、「所得の再配分と社会的公正」の大義名分の下に、自らの無力を顧みず、市場に対する規制を強化しようとしているのである。スタンフォード大学教授ローレンス・レッシグは、『CODE─インターネットのの合法・違法・プライバシー』の中で、最もリーバータリアニズム的な空間であるネットに対する政府の管理がいかに文化的発展を妨げているかを雄弁に語っている。彼によれば、サイバースペースでは「コード」、すなわちプログラムやアーキテクチャーが法であり、政府はそれを管理の下に置き、規制を強化している。彼らは自由を郷愁の彼方に追いやろうとしているのだ。これは文化破壊にほかならない。国家は、無駄な抵抗はやめて、市場に敗北宣言しなければならない。さもなければ、不幸な人々を増やすだけだ。自由放任社会の樹立は長く続くことだろう。国家は、今でもそうだが、ありとあらゆる手を使って延命策を計るからだ。国家に群がるマフィアは無節操にも戦略も議論もなりふりかまわず変更するだろう。けれども、いつの日か、市場が国家を完全に見放して、国家に勝利し、窮乏と隷属という一九世紀以来の旧秩序に別れを告げるときがくる。国家は安楽死を望まざるをえない。国家なき社会、国境なき社会はユートピア的理想ではない。確実に訪れるただの現実である。自由放任の世界は必ずや到来する。その自由放任社会は完璧な世界ではないだろう。しかし、国家が支配する世界よりは、はるかにましな社会なことは確実だ。そうマレー・ロスバードは信じている。
You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one.
(John Lennon “Imagine”)
http://www.geocities.co.jp/Bookend/4208/unpublished/rothbard.html