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【金イング記者の平壌・南北閣僚級会談取材記】「平壌ではイラク敗戦が話題に」 [朝鮮日報]【昨年7月の経済改革後の平壌市民事情】
http://www.asyura.com/0304/war33/msg/661.html
投稿者 あっしら 日時 2003 年 5 月 05 日 14:40:19:


【金イング記者の平壌・南北閣僚級会談取材記】

 統一部担当で、南北関係を取材している金キング記者です。今日は最近平壌(ピョンヤン)を訪問した話をしてみたいと思います(以下、敬語省略) 。

 「皆様、この飛行機はまもなく平壌の順安(スンアン)空港に到着します」
 スチュアーデスの機内アナウンスが終わると、窓の外に低い山々や、田植えを終えたばかりの畑が見えてきた。4月27日午前11時ごろ、平壌・順安空港の上空は淡い霧がかかっているだけで、晴れ渡っていた。
 しばらくして、南北閣僚級会談に参加する韓国代表団と取材団を乗せたアシアナ航空のチャーター機は順安空港の滑走路に降り立った。
 飛行機が発想路に着陸した瞬間、3年前の初めての平壌訪問を思い出した。2000年8月末、第2回南北閣僚級会談取材団の一員として平壌を訪問した当時、以前北朝鮮当局から一度、訪朝を阻止されていた記者は極めて緊張していた。
 しかし、今度はこれまでに北朝鮮国内の金剛(クムガン)山を数回訪問していたためか、落ち着いた気分でいられた。

 記者の北朝鮮訪問は他のメディアの記者とは違って、紆余曲折が多かった。1998年11月19日、現代峨山(ヒョンデ・アサン)の金剛号が歴史的な金剛山観光のため、北朝鮮の長箭(チャンジョン)港に初めて入港した時、記者は北朝鮮当局から入国を拒否された。
 北朝鮮当局は朝鮮日報が1997年6月に掲載した社説で、金正日(キム・ジョンイル)総書記を“非難”したとの理由で、朝鮮日報に対し訪朝取材はもちろん、“爆破”脅威まで行っていた。
 そのため、初めて金剛山観光が行われた時、韓国の200人余の記者中、朝鮮日報記者はKBSの一部記者、統一部職員と共に下船することができなかった。現代側が北朝鮮を説得し、観光の最終日の3日目に下船、少しの間、金剛山を見れたのがやっとだった。
 そして、2000年6月25日の南北首脳会談の直後、初めて開かれた南北赤十字会談で、記者は韓国側の共同取材団に選ばれ、金剛山へと向かったが、またもや北朝鮮当局から入国を拒否された。当時、記者は会談取材もできず、三日三晩を金剛号で滞在しなければならなかった。
 そして同年8月、韓国政府が北朝鮮当局に「共同取材団」は特定言論社を代表するのではなく、韓国側の会談代表団の一員であるため、誰も訪朝を拒否することはできないと説得、第2回南北閣僚級会談の時は平壌に入ることができた。
 その後から、平壌や金剛山など、北朝鮮地域で開かれた各種の会談と行事に朝鮮日報記者の取材が許可された。
 平壌は3年前に比べ、活気があるように見えた。到着した日が日曜だったためか、空港から平壌市内までの道路には、多くの人が見かけられた。
 幼い学生たちが群がってどこかへ移動する姿も見え、三々五々集まって話し合っている若者たち、子供の手を引いてどこかへと急ぐ親の姿も見えた。幼い子供たちが群がって移動するのと関連し、「学生たちは日曜日ごとに『いいことをする運動』の一環として、村の仕事を手伝っています」と、記者の案内員が説明してくれた。
 北朝鮮側案内員の共通した心配事は「重要急性呼吸器症候群(SARS)」だった。すでに平壌で開かれる予定だった各種の南北交流行事が取り消されたという。SARSが発生した中国北京を経由して平壌に入る人だけが遮断されたのではなく、チャーター便で平壌に直接入る韓国人も当分は入国できないという。
 南北閣僚級会談の代表だけ、例外だという。「将軍様(金総書記)が上級(北朝鮮側では閣僚級を上級と呼ぶ)会談代表団だけを例外的に入国するよう許可しました」と、北朝鮮側案内員が説明した。
 代表団は順安空港に到着してチャーター機から降りる前に、北朝鮮側の検疫医師2人から簡単な体温検査を受けた。北朝鮮側医師らは座席に座っている韓国代表団に一々体温計を渡し、脇に挟むよう要求した。
 最近の若者はこのような体温計を見たことがないはずだ。私たちはほとんど、耳につけて体温をチェックする体温計を使っているが、北朝鮮では未だ昔私たちが使用していた細い棒の形をした体温計を使っていた。
 このような体温計であったため、検査に時間がかかった。これを見かねた韓国側代表団の提案で、今回の会談期間中、ソウルから直ちに新型体温計4~5個を持ってきて、北朝鮮側に提供したと聞いている。
 韓国代表団はSARSのため、他の平壌会談の時とは違って、宿所と会談会場である高麗(コウリョ)ホテルの外に出ることができなかった。ただ、韓国側の共同取材班10人中、記者を除いた9人は平壌が初めてだったため、非公式に会談二日目の28日午後1時半ごろ、バスに乗り平壌市内を見物した。
 北朝鮮側が非公式行事だと数回も強調したため、この事実は共同取材団がソウルに送稿する記事に含めることができなかった。初めて平壌市内を見物した他の取材団員たちは、平壌の初印象がいいと言った。

 高麗ホテルの職員たちはいつになく親切で熱誠的だった。ホテル内で酒やお茶を飲める空間は地下1階のカラオケと1階のビアーガーデンコーナー、2階のバーの3カ所。
 昨年7月、物価と賃金を引き上げる措置が取られて以来、これらのコーナーで働く「服務員」たちの月給が成果給に変わったため、“お客”の誘致に熱を上げていた。会談期間中、ホテルには韓国代表団とロシア人6人以外に、投宿客はいなかった。SARSのためだという。

 北朝鮮側の関係者たちが露骨には言わないものの、もはや北朝鮮ではカネがなければ一杯の酒も飲めやしない状況だという。昨年7月1日の措置以降、すべてをカネで購入しなければならないためだという。
 共同取材団の記者室が2階のバーと近くに位置していたため、ここをよく利用した。20代初めの女性服務員と会話をし、北朝鮮側案内員にビールでもおごりたかったためだった。
 2階のバーで会った2人の女性服務員は「月給だけで充分生活できる」と言ったが、韓国代表団と取材団を案内する北朝鮮側要員らが私たちとビールを飲んだ後、カネを出すのは見たことがない。もちろん、私たちの方が客であったが、いつからか、韓国側の人たちが北朝鮮側の人に酒をおごるのが慣例のようになっていた。
 「イラクと私たちは違う。私たちはそんな風に崩れないよ。フセインは大きなことを言っていたのに、まともに戦いもせず崩壊してしまって、本当にもう…。それから、イラク戦を見て(怯えて)米国との協議に応じたと南朝鮮の新聞では書いてあったが、それは私たちをよく知らないから言えることなんだよ。私たちはそんなに弱くない。私たちが米国を怖がっていると思うか?私たちは協議をしようというのが基本的な立場なんだ。米国が私たちの提案を受け入れたのだ」
 初日、会談の進行中、会談会場の外で会った北朝鮮側案内員は一様にイラクの敗戦を話題にしていた。「核保有」についても話した。記者が会った北朝鮮側関係者は北朝鮮側代表団の中でも比較的重量級だった。この関係者はこれまでに数回会って話したことがあったため、気楽に話し合える仲だ。
 彼は米国を相手するためには、そのような強力な兵器を持つべきだと話した。「核兵器を持っている」と直接には言わなかったものの、認めも否認もしない状況で、「米国に立ち向かうためには…」という発言をした。

 彼らは盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が6.15共同宣言について何ら言及もしなかったことに対しても不満を漏らした。

 「一体、南側の新政権は共同宣言の履行をしようというのか、しないというのか。なぜ何も言えないんだ?李ジョンソク(現国家安全保障会議事務次長)が先月(3月)平壌で開かれた南北学者統一フォーラムで発表した(李次長は出席せず原稿だけが発表されたようだった)内容にもこの話は脱落していた。そして、デフコン2を発令したり、われわれと緊張を造成したり…。(対北朝鮮送金)特別検事捜査はなぜやるんだ?」

 彼がもらした不満はすでに私たちが予想していたものだった。だから、自分たちの基本発言(基調演説)に共同宣言履行と関連した言及が多く含まれ、具体的な交流協力事案も盛り込んだと話した。
 また、他の関係者に記者が第10回南北閣僚級会談を北朝鮮側が何ら釈明なく、一方的に延期したこと(当初4月7日から行うことになっていた)を喚起させ、「今後会談を開きにくい事情が生じれば、率直に事前に話し、いつどこで開くと通告するのが信頼を築くことにプラスになる」と話すと、彼は「そうだ。南側もデフコン2を発令すれば、前もって(そのような措置が北朝鮮側とは関係ないと)知らせてくれればいいのだ」と話した。

 北朝鮮の対南パートナー関係者たちは、韓国との関係を持続させたいと望んでいることが再び感じられた。もちろん、個人的には自分の職分と直接結びつくことであるため、自分が生き延びるためにそうしているのだと考えることもできる。とにかく、南北関係を持続させることが自分たちにとってプラスになるのだということを明確に認識していた。

 29日、会談終了日の朝、平壌には夜通し雨が降っていた。出勤を急ぐ市民たちは傘をさして足早に歩いていた。それもビニール傘ではなく、カラフルな色のついた傘だった。 北朝鮮の人々と接したことのある人は知っているだろうが、北朝鮮の人たちは雨が降ってもあまり傘をささない。傘がないためだろう。今年2月、金剛山で第6回離散家族再会行事が開かれた時も、あられが降っていたが、傘をさしているのは全員、韓国の人たちだった。
 しかし、この日だけは違っていた。傘をさしていない人を探す方が難しいほどだった。何かが変わってきていると思った。北朝鮮でもいいもの、楽なもの、きれいなものを捜し求め始めているという意味として受け止められた。
 ホテルの向かい側にある一般人のアパートにも、3年前に比べはるかに多くの電気がついていた。ホテルのエレベーターの速度も速くなっていた。誰もがはっきりした答えはしてくれなかったが、電力事情は3年前に比べよくなったようだった。
 韓国側代表団に見せるためにそうしているようには見えなかった。北朝鮮もこれ以上、事情が厳しいことを隠そうとはしないためだ。しかし、平壌の夜は依然として暗かった。街灯をあまりつけていないためだ。北朝鮮側の電力事情に対しては、引き続き見極める必要があると思った。
 会談では再び、双方の代表団の間で神経戦が展開された。核問題を共同報道文にどのような形で盛り込むかを巡り、双方は激しく対立していた。
 これとは違って、会談会場の外では、韓国取材団と北朝鮮側服務員、案内員たちが和気藹々のムードを作っていた。彼らが韓国取材団に見せた親切が、必ずしも私たちの持っている“カネ”のためだけではないと思われた。もちろん、そのような側面がないわけではない。酒をおごってくれ、たばこを買ってくれ、ひどい時は、自分の飲んだアイスコーヒー代を払ってくれと頼まれたこともある。
 そのような場面を見る北朝鮮側の若い女性服務員は苦い表情をしていた。しかし、その分だけ、韓国の影響力が北朝鮮で強くなっていると感じたりもした。
 少なくとも、高麗ホテル内の服務員たちの間から、朝鮮日報に対する非難が消えていた。彼らの生活において、そのようなことはそう重要でないと考えたためかも知れなかった。ある女性服務員は、韓国記者が伝える外部の“生活情報”に耳を傾けた。彼らから“党”、“体制”、“思想”といった単語は聞こえなかった。
 北朝鮮を離れる前、彼らに「朝鮮民主主義人民共和国の未来があなた方にかかっている」と話すと、神妙な表情でうなずいていた。
 彼らと朝方の3~4時まで交わした会話の内容をすべて紹介することはできないが、確かに、彼らは生き延びるためには、変化しなければならないと考え始めていることが肌で感じられた。次の平壌取材で、このような考えがどれだけ成長しているか、確認してみたいと思った。

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2003/05/05/20030505000005.html

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