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アメリカがイラクを攻撃したどさくさに紛れて
イスラエルはパレスチナ人を攻撃し続けている。
政府はこれに対して「不快感の表明」ぐらいはしたのだろうか。
巷では政府は「ポチ」と呼ばれているようだ。
しかし、犬ならばたまに「飼い主の手を噛む」こともある。
と言うことは、どうも犬でさえないようだ。
さしずめネズミというところかもしれないが
ネズミでもたまには噛みつくガッツというものががあると聞く。
実験用のハツカネズミか何かなのだろうか。
この政府が支持する所の政権は武力抜きに何ができる?
そんなに武力に頼るなら二丁拳銃でも半月刀でも何でもいい、男対男で決闘でもすればいい。
そうすれば他の誰かがとばっちりをを食って苦しむこともない。
こういった「指導者」たちが自分以外の者に弾を込めた銃を渡す。
その引き金を引くことが何を引き起こすのか考えたことがあるのだろうか。
しかし、軍隊というところでは「考えるな」と言う。
ただ考えないだけなら特に害はないだろうが
問題はその次に「ただ命令に従え」が付いてくることだ。
なぜ考えずに命令に従わなければいけないのだろう。
恐らくちょっとでも考えたらその命令がが正気の沙汰ではないことが分かってしまうからだ。
その命令とは端的に「殺せ」ということだ。
美しい物事をする時には
自分がやっていることに無理な理屈を張り付ける必要など一つもない。
ところが醜い物事となると、その上に美しい理屈を張り付けることが必要になるようだ。
そこで兵士たちも自分たちのやらされていることに
何とか美しい理屈をつけて自分を納得させようとしている。
これはテレビでも放映された。
しかし、この理屈が成功を収めることはないだろう。
彼らはこの先ずっと人殺しの記憶を持ち運ぶことになり
その記憶が襲うたびに「愛国心」とか「正義」とかいう美しい理屈で
抑えこまなければならないだろう。
そしてこういったことを引き起こす訓練やマインドコントロールは
「政権」にとっては兵士を黙らせるためにはとても役立つのだろう。
これをやらせている「指導者」たちは「平和」をうたっているが
銃口から放たれたものが平和を引き起こすとでも言うつもりなのだろうか。
それとも「敵」から放たれた銃弾には「テロ」と書いてあり
自分たちの銃弾には「平和」と書いてあるとでも主張するのだろうか?
弾を込めた銃は木々や花々を育てる手に持たれるものではない。
それは木々や花々を蹴散らし殺人を引き起こすものだ。
そしてこれは通常兵器と呼ばれている。
「通常」という言葉でいったい誰を騙すつもりなのだろうか。
さらに、大量破壊兵器と通常兵器という言葉を分けている人々がいる。
日本もクラスター爆弾を隠し持っていることが暴露された。
そして驚いたことには「クラスター爆弾を所有するのなら国民に納得の行く理由が必要だ」
と言う人々がいる。
これで誰を騙そうというのか。
まるで人殺しを効率化する「兵器」を所有するのに
納得の行く理由があるかのような言い分だ。
では、納得の行く理由とはいったい何なのだろう。
誰かが
「隣人がナイフを持っていて危険だから
あなたはもっとでかいナイフを所有すべきだ」と言ったら
これを勧める人物をどう思うだろうか。
「親切な人だ、いいことを聞いた、確かに危険だな、
あいつよりももっとでかいナイフを持つべきだ」
などと考えて大きいナイフを買いに出かけるだろうか。
そして用意されたものは使われる可能性がある。
それが現実のものとなった時には
これを勧めた人物に感謝するだろうか、それとも聞いてしまったことを後悔するだろうか。
そして、この「防衛」の成り行きがどちらに転ぼうとも
持つことを勧めた人物はこのように言うことだろう。
「持っていて良かっただろう?」 あるいは
「もっとでかいのを持つべきだったのだ!」
そして、この類の忠告には決まって不安と恐怖が使われる。
さらに、この忠告者は商品を持って現われる。
この類のことを口にし、行なう者たちが言うところの
「平和」や「愛」の後ろは恐怖と不安が支えている。
恐怖から如何にして平和を生み出すことが出来るというのだろう。
ところが彼らは
「『衝撃と恐怖』の後ろを見てごらん『平和』が控えているだろう?」 と言っている。
この類の者たちは
「愛」や「平和」と「恐怖と不安」を使い分ける。
「愛」や「平和」が人を殺して回ることによって生み出されたなど、絶えて聞いたことがない。
人の不安を煽り、この二つを使い分ける者には気を許さないことだ。
ところが世界には爆弾を積み上げ続ける者たちがいる。
その言い分に「これがあるお陰で平和が保たれている」というものがある。
人を騙すにも程がある。
爆弾が支えている緊張状態を如何にして平和などと呼ぶことが出来るだろう。
どこでそんなおかしな理屈を習ってきたのだろうか。
そして、こういった人々が口にする言葉に「愛国」というのがある。
「国」という字は以前は「國」と書いた。
中にある小さな口は人民を表し、その下の _ は土地を表す。
戈は武器を表し、口は城壁を表す。
つまり、人と土地を武器の下に収め、周りを囲むと「國」になる。
では誰がそれを行なうのだろう。
人と土地だけで十分ではないのだろうか。
恐らくこの類のことに熱意を燃やす者たちは
人が平和に暮らしているのを放っておけないのだろう。
武器を持ち出した上に回りを囲って何を始めようというのだろう。
税金の取り立てだろうか。
そしてこの金を使ってさらに効率のいい殺人兵器を作り続ける。
これが正気の沙汰と言えるのだろうか。
國は人々の願いよりも國を押し通す。
税金の使い方が不正でも隠し通す。
空港を作るためには暴力と法律で土地を取り上げる。
数十年も前に決めた公共事業が、今、必要か否かの再検討さえも渋る。
國と愛は相容れないものだ。
もし、國に愛が溢れることがあったとしても
それは不安と恐怖が原因では決してないだろう。
まして、自由にものが言えない雰囲気に封殺されたからでもない。
もし、そんなことで沸き起こるものがあっても精々のところマスターベーションだろう。
「神に選ばれし人々」「予言の成就」「わが神こそ最高なり」「わが国は神の国なり」
こういうことを平気で口にする人たちの頭にはいったいどういったプログラムが入ってしまったのだろう。
恐らくこういったことを口にする人たちは、埃をかぶった「悪い冗談」を信じているに違いない。
ところがたとえ「悪い冗談」であったとしても大勢の頭に入ると解除するのが非常に難しくなるようだ。
普通の悪い冗談ならばすぐにばれるが、これは証明も反証もできない類のものだ。
そしてこの「悪い冗談」プログラムが元で争い事が絶えなかったように見うけられる。
解決策は、当の話題の主が現われて「あれは本当だ」と言うか、
「すまん、あれはジョークだ」と表明するしかないように見える。
神も予言も選ばれることも最高になることもなしに生きることは
不可能ではないように思うのだが、それとも、ないとまずい人たちがいるのだろうか。