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(回答先: Re: 宮崎 学さんについて 投稿者 竹中半兵衛 日時 2003 年 4 月 12 日 21:56:15)
公安調査庁スパイ工作集
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/shakai/top/46-8.htm
◆公安調査庁調査官の約2年間の
スパイ工作日誌全文を「画像」で公開◆
●あの有名作家(宮崎学)、弁護士(三島浩司・元都学連委員長)、元革共同政治局員・小野田兄弟(襄二・猛史)……は公安調査庁の協力者(スパイ)だった。その衝撃的事実を本書は、あえて実名で公表・公開。
●公調スパイ養成第一人者の調査官・樋口憲一郎の約2年間の工作日誌、および公安調査庁への報告書の全文を掲載。政治団体などに対する、公安調査庁のスパイ工作の驚くべき実態が、本書で初めて明らかに!!
目 次
『公安調査庁スパイ工作集』を公開するにあたって
編集部……4
第1部 三島浩司・宮崎学関係工作日誌……………………9
第2部 公安調査庁調査官と
宮崎学・オウム信者との会談……109
『公安調査庁スパイ工作集』を公開するにあたって 編集部
公調工作文書の真正性
本書に掲載した公安調査庁の工作文書は、二つに分かれている。第1部は、弁護士・三島浩司氏、作家・宮崎学氏などを公安調査庁の協力者(スパイ)として養成していたことを示す公調調査官の報告書及び日誌である。
第2部は、公調調査官によるオウム出家信者に対しての、オウム破防法適用準備に向けての組織実態の調査であり、これに宮崎学氏もかかわっていたことを示す会談の全文(収録テープ約90分)である。
双方の文書は、いずれも公安調査庁のスパイ養成の第1人者といわれる樋口憲一郎(当時東北公安調査局所属)の作成に関わる工作日誌の全文である。
この公調工作文書の真正性については、公安調査庁の元職員である野田敬生氏によって裏付けられているが(メールマガジン『公安情報 ESPIO!』)、本書に掲載したそれぞれの文書の体裁や形式を見れば、それは一目瞭然である。本書では、この真正性を示すためにも第1部について公調文書を「画像」で掲載することにした。
もっとも、公調調査官の樋口憲一郎が、工作内容を誇張して上司に報告していることもあろう。だが、それは本工作日誌の真正性を疑わしめることにはならない。
工作日誌の本名公開について
一般に、公安調査庁のスパイ・協力者とはいえ、それを本名で公開することには異論を唱える人々もいるであろう。それが運動内の一活動家や支持者であるならば、当然といえよう。
しかし、本書に掲載している公調のスパイ・協力者は、一活動家や支持者ではない。いずれも大衆運動や救援運動に大きな影響力を持つ作家や弁護士である。この事情のために、本年4月、この文書の一部が『公安アンダーワールド』(宝島社)に掲載されて以降、全国の大衆運動内で混乱が巻き起こっているのである。つまり、先の文書公開が一部であったため、運動内に疑心暗鬼が生じているのだ。
こういう事情のために、本書では入手した全文を実名入りで公開することにした。
だが、本来、公安調査庁や公安警察などの権力のスパイ・協力者については、そのもっとも実害を受けた当事者が公開すべきものである。実際に、かつてはいずれの政党・党派といえども、これを機関紙上などで公開し、弾劾してきた。 それは権力のスパイ・協力者というのは、もっとも恥ずべき人間、人としての最低のモラルを欠いているばかりではなく、これらの人物が二度と運動内部で同様の活動ができないように封じ込める意味があるからだ。そして、同時にその工作の手口を全面的に明らかにすることによって、権力のスパイ工作を封じ込め、運動内部に教訓を残すことになるからである。
実際、新左翼の諸党派は、このようなスパイ問題を常に公開してきたし、日本共産党もかつては、その県委員長クラスのスパイをも摘発・公開してきた。(日本共産党は、戦後の再建以来の議長であった野坂参三が旧ソ連の「エージェント」であったことをも公表し、除名した)。
ところが、今回の三島浩司氏や宮崎学氏のスパイ問題については、これについて大きな打撃を受けたであろう党派・団体・グループは、いずれもこれを公表していない。これらはなんとも残念な出来事である。公安調査庁のスパイ工作は、当社発行の「公安調査庁○秘文書集」でも明記しているように、その公調のリストラもあって、次第に工作対象が党派や団体の指導部に向けられているのである。同書でもそれらは明記されているし、実際にも少なからずこれを耳にする。
これでは、運動内部で「疑心暗鬼」が生じるだけではなく、そのスパイ・協力者の「暗躍」でさえ許容してしまうことになりかねない。
言うまでもなく「権力と闘う」団体ならば、公安調査庁や公安警察のスパイ・協力者工作は避けられない。この工作はまた、非公然運動ならいざ知らず、大衆運動を原則的に行っている団体ならば、必ず摘発できる。だから、運動体がスパイ問題で疑心暗鬼にとりつかれる必要はないのだ(『公安警察の犯罪』社会批評社刊参照)。
そして、そのためには、このスパイ問題の実際の摘発の教訓・経験をすべての運動体は公開・公表しなければならないのである。
宮崎学氏の弁明
本書収録の工作文書の内容について、その主要な当事者である三島浩司氏と宮崎学氏は、公安調査庁との「接触」を認めている。とりわけ、宮崎学氏は、当初はその主宰する「電脳突破党」サイトにおいて、事実無根を主張していたのであるが、本件文書が関係者に次第に公開されるに及んで、これを否定できなくなっている。たとえばこうである(「電脳突破党」サイトから引用)。
「親分の核心発言その2:
公安のスパイ説についてHPにも書いたが、あの記事http://www.zorro-me.com/2001-5/010505.htmlは、「公安に会ったとされる日付」「公安に渡した書類」「新左翼系の党派に貸したとされるカネの金額」などすべて間違っており、信頼できない。
が、あの記事は誤りでは終わらせたくない。公安に会ったのは事実。
1995年は、オウムによる地下鉄サリン事件があった年で、何人かのオウムの元信者の身元保証人になったりしたので、ガサ入れもされたし、自分のところの“若い衆”が7人逮捕された。まだ服役中の者もいる。彼らを守るために裏取引をしようと、弁護士を介して公安に会った。結局3回会って、3回目に無茶な要求をしてきたので、ケンカ別れして、その後は会っていないし、会う気もない。
自分は清く正しく美しく生きているつもりはまったくない。若い衆を守るために自己責任において裏取引をした。これは墓場までもっていく。……後は黙秘権を行使したい。
ここで三上さんが『“取引”ったって、どこまでをいうのかねえ。ボス交渉なんてみんなやってるのに。やだなあ、そういうサヨクの“小さなイジワル”運動って。笑い飛ばしていいんじゃないの』」(2001年6月27日、東京・新宿のトーク・ライブハウス「ロフトプラスワン」での宮崎発言を支持者が要約したもの)
宮崎氏は、「公安に会ったとされる日付」「公安に渡した書類」「新左翼系の党派に貸したとされるカネの金額」などすべて間違っており、信頼できない、という。
だが、3回ほど公安調査庁調査官と会ったことは認めている(実際は3回ではない)。もっとも、これらは「すべて間違って」はいないのである。
そして、「若い衆を守るために……裏取引をした」「墓場までもっていく」という。墓場まで持っていくべき重大な裏取引の内容とは何か? この内容は本書を読めば読者にはほぼ判断がつくであろう(某党派の自己批判要求に当初居直っていた宮崎氏は、本書掲載の文書が出てからは、謝罪したという)。
それにしても、「若い衆を守るため」とは、聞いてあきれる。こういえばスパイ行為が許されるとでも思っているのだろうか。カネのためであろうが、身の保全のためであろうが、なんであろうが、スパイ行為は人として許されない。
スパイを擁護する宮崎支持者たち
先の引用では、「サヨクの“小さなイジワル”運動」などという説も登場する。運動内部での反対意見などで「足の引っ張り合い」をすべきではない、という意味では大賛成だ。異論や反対論は絶対に尊重されるべきである。
だがしかし、事はここまで明らかになった「権力のスパイ」問題である。これをあいまいにしていたのでは、運動は必ず崩壊することになるだろう。
宮崎氏の支持者の中には、宮崎氏の盗聴法反対運動などにおいて行ってきた位置・役割から擁護すべきだという意見も多々ある。なるほど、宮崎氏がこの数年の間、行ってきた大衆運動の役割は重要である。しかし、だからこそこの「マッチポンプ」ともいえる宮崎氏の役割は、許されてはならない。
戦前日本共産党の時代に勇名をはせた「スパイM」は、「家屋資金部長」であり、実質上の「党責任者」であったが、この「スパイM」の時代こそ日本共産党はもっとも組織的・運動的発展を遂げたことは明らかだ。だが、この発展した運動も権力の最終的決断によって完全壊滅させられたことも、また歴史的事実である。
宮崎氏は、スパイMほどの「大物」ではない。しかし、この宮崎氏のスパイ問題が「芽の内に」明るみに出たことは、重要な出来事といわなければならない。
なお、市民団体をはじめとする公安調査庁のスパイ工作などの実態や公安調査庁そのものの活動実態については、当社発行の『公安調査庁○秘文書集』を参照されたい。
(補註 本書掲載の宮崎氏に関する文書の中で、宮崎氏から中核派へ金銭の貸借があり、その際、白井朗氏の「印鑑証明」が添えられていたと記されている。これについて、白井朗氏本人からは、「私にはまったく無断で為された事件であり、無関係」という手紙が寄せられている)
2001年8月6日