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「私たちが直面している問題」(愚妻の駄文ですが)
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投稿者 笠井一朗 日時 2003 年 4 月 12 日 13:38:37:hjlOpqOBwUqa.

みなさまへ

 ラジオからは「バグダッドは事実上陥落した・・・」というニュースが繰り返し流れてきます。もう戦争は最終局面を迎えたと見なす人も多いかも知れません。でも、そうではありません。まだ戦闘は続いており、情勢は混乱しています。私たちは引き続き、というよりも、なお一層この侵略戦争に注意を向けていく必要があります。
 イラクに対する米英の攻撃が国際法や国連憲章に違反する犯罪行為であることは、日本国内でも良識ある人々によってきちんと指摘されています。もちろん、国際社会においてもこの戦争に反対する声は圧倒的に多い。世界中で激しい反戦デモが繰り広げられているのを見ても、それは分かります。このことをしっかり踏まえていないと、日本は今後さらに間違った方向へと突き進んでしまうでしょう。
 政府は北朝鮮問題を理由に、戦争を支持するに至ったと説明しています。しかし、それに続くはずの説明を省いているところに、私は大きな不安を感じます。日本はアメリカに何を期待しているのでしょうか。抑止力としての軍事力でしょうか?それとも、イラクに対するのと同様の、軍事力の実際的な行使でしょうか?
 あらゆる点で態度を曖昧に見せかけることの多い今の政府ですが、それは、政府・与党が今月中にも採決したいと言っている「有事法制」についても同じです。これはテロや災害発生時も考慮されていると言われますが、基本的には軍事目的の法律です。「有事」の際には憲法第9条が全面停止されるなど、日本が武力行使を行うことを想定した法律です。平和憲法をくつがえす力を持つものであり、これまでの日本のあり方を根底から変えてしまうものです。
 今、政府は北朝鮮の脅威を強調するとともに、国民に「国の防衛」の必要性を訴えています。でも、現行の日米安保条約や自衛隊法以上のものが、果たして本当に必要でしょうか?野党の間でも、また、知識人や国民の間でも、この法律に強く反対する声があがっています。(災害についても、対応できる法律がすでに存在しています。)
 それに、軍事力による安全保障という考え方に対して、すでに世界は疑問視しています。何といっても、武力を持つことはその行使に繋がりかねないからです。(それは歴史を見れば明らかです。)そんな中で、「交戦権を否定し、武力も持たない」と規定する日本とコスタリカの憲法は、平和を実現する新しいあり方として注目されています。
 殺りくのない社会を実現する方法を、今、世界は手探りしています。それなのに、日本はアメリカの戦争に加担し、国内では参戦への道が切り開かれようとしている。軍事力への信望と戦争願望を持つ政治家たちが国を動かそうとしている。「国を守る」とか「愛国心」という呪文を口にしながら。
 アメリカとの関係や北朝鮮との関係など、確かに難しい問題はあります。でも、もしも私たちが平和を、人の命を奪わない方法を望むなら、やはり平和憲法を尊重するしかないと私は思います。そして、国が憲法を尊重しない方向へ進もうとするのなら、それに対して何としても「NO」と言う必要があります。
 これは、具体的にはなかなか難しいことだと思います。勇気もいります。私も今、どうしたら良いか模索しているところです。ただ、一番基本になるのは、自分なりの考えをしっかり持つこと、そのために正確な情報を得るよう努めることだと思います。マスコミは偏った報道をしがちなので、批判的精神を持って聞く(見る)ことをお薦めします。
 なお、日頃考えていることを通信のかたちにまとめてみました。お時間のあるときに読んでいただけたら幸いです。
2003年 4月 11日 シャプイ

シャプイのラ ★ ブーブーレター
(第一号 2003年4月10日)
私たちが直面している問題

われブーブー言う、故にわれ在り
 何事につけても満足することが無く、ひとこと言わずには気が済まない・・・ちょっとまわりを見渡せば、必ずやそんな人物がいるものである。私はその一人である。
 生まれてこの方、私は常に「不満」という反発的な感情を抱えてきた。まだ感情も言葉も未発達だった赤ん坊のころは、オギャーオギャーと泣き声をあげては不快を訴え、ずいぶんと母親を手こずらせた。言葉を習得するにつれて私は生活のさまざまな場面で不満の表明を試み、それが私の性格形成にも大きく作用したと思う。「アマノジャク」。私が初めてこの言葉を聞いたのは、私を表して言ったスイス人の父親の口を通してであった。
 やがて私は大人になった。内心どこかで、私は大人になればぶーぶー言う癖が自然に治ることを期待していた。というのも、絶えず不満を感じて心がざわついている状態は、それなりに疲れるものだからだ。
 しかし、現実はそう甘くない。何かにつけ不満を覚える性向はその人の自我に深く根ざしているのであって、自然治癒する類のものではない。治そうと思ったら、よほどの努力がいるだろう。およそ努力の出来ない質の私は、最初から諦めることにしよう。
 すなわち、私はブーブー言う人間である。ブーブー言ってこそ私なのだ。

最近のブーブー
 夜明け前、ラジオのスイッチを入れる。パンの仕込みを始めるものの、まだ私は寝ぼけている。体も重い。なのに気がつくと、私の口はラジオに向かってすでに全開の力で叫んでいる。
 「何だそれは!!」            米国戦車に轢かれる国連憲章
(Khaldoun Gharaybeh, 2003-4-1)
 「今のは抗議しないといかん!!」etc.
これが、私の生活の中でよく見られる朝の光景である。
そうした私の朝っぱらからのブーブーは、このところ専らイラク攻撃に向けられている。
 3月20日、ついに米英軍はイラクへの攻撃を開始した。国際法も国連憲章も踏みにじり、常識と良心を備えた世界中の人々の声を無視して、だ。
 それまで日本政府の立場について答えをはぐらかしてきた小泉首相は、「私は支持します」と神妙な顔つきで戦争加担を宣言した。もちろん、これは日本国憲法第9条に抵触する。一方メディアの多くが、まるで日米同盟を重視せざるを得ないのが日本の宿命とでも言うかのように、政府の見解を繰り返しては攻撃反対の声を封じ込めようとしている。しかし、政府が持ち出した日米同盟でさえ、そのベースとなる「日米安全保障条約」において国連憲章の遵守を定めている。政治家もマスコミも、何故これに言及しないのだろうか。

法は理念ではない
 国際法や憲法というと、何だか非日常的なもの、或いは雲の上の崇高な理念のように思えるかも知れない。でも、そうではない。この世界にはさまざまな国と人々が、それぞれの環境と条件の下に存在している。法はそうした国々や人間が共存するためのルールであり、モラルである。とりわけ弱い立場にとって、法は自分を守ってくれる砦となる。弱い者たちが強者の横暴から身を守る拠り所とするのが法である。その法が今回破られたのだ。しかも、世界随一の軍事力を持つ国、アメリカによって。そして、私たちが今こうして暮らしている国、日本によって。
 「弱い立場」というのは他でもない、私たち民衆のことだ。権力も武力も持ち合わせていない、私たち民衆。今回の侵略戦争は私たち民衆の生命に対する侵略である。世界中の人々が、この殺りく行為を止めさせようと立ち上がっている。それは、自分たちの命を脅かす巨大な暴力への断固たる抗議なのだ。

「でも悪いのはイラクでしょう?!」
 今回のイラク攻撃の不当性を説明しようとすると、必ずやこの反論に出くわす。大量破壊兵器を所有しているとか、国際社会を欺いてきたとか、フセイン政権の独裁だとか、今や政府の広報室と化したマスコミのイラク関連ネガティヴ報道が頭の中にうまく染み込んで、人々に思考停止を起こさせている。
 でも、事実を少し丹念に追ってみれば、国連査察の継続を求める査察団や圧倒的多数の国際世論の意向をまったく無視したのはアメリカであり、日本政府であることはすぐに分かる。日本政府は攻撃の根拠として幾つかの国連決議を持ち出してはみたが、かえってそれは根拠のなさと無恥をさらけ出したようなものだ。
 そもそも、アメリカは世界の警察ではない。アメリカは世界最大の大量破壊兵器保有国であり、使用国である。圧倒的に強い。では、モラリストとしてどうかと言うと、同じ「世界一」でもワーストのほうだ。それに、万が一アメリカがモラリストであったとしても(この仮定はこれまでの歴史と現状を見ればあまりに馬鹿げているが)、世界を取り締まるポリスではない。

ならず者
 「あの人には気をつけたほうがいいわよ」と忠告する人に対してこそ要注意なのが庶民の常識だが、どうやら国際社会でも同じらしい。
 イラク攻撃の首謀者であるアメリカは、しばらく前からミサイルをごっそり積んだ艦隊や軍隊を集結させ、巨大な軍事的圧力をかけながらイラクに裸になるよう迫り、そうかと思えば、査察が効果を上げつつあるところをぶっつぶし、攻撃を強行してしまった。何のためか?それは、イラクが保有しているとアメリカが一方的に主張する、大量破壊兵器の廃棄のためではない。イラクに最後通牒を突きつける前にブッシュ自身が言っている。「我々はイラク国民を解放するのだ」と。「フセイン政権を倒し、民主的な政権を樹立するのだ」と。これには唖然とする。国連の場でお題目としてきた大量破壊兵器廃棄という名目は今やかなぐり捨てられ、「解放」「民主化」という大義名分のもと「侵略」することが宣言されたのだ。これは紛れもなく、イラクへの侵略戦争である。
 人を「ならず者」と呼んだ当の本人こそが「ならず者」だったわけだ。保安官気取りのあの人物にはとうてい自覚出来ないことだろうが。

「だって北朝鮮のことがあるから・・・」
 「日本には北朝鮮問題があるから」というのが日本政府による攻撃支持の説明になっている。国民の間にもこの見解はずいぶん浸透しているらしく、たとえ武力行使そのものに反対でも、北朝鮮の脅威を考えるとアメリカの力に頼らざるを得ないと結論づける人たちが多いようだ。
 私は知りたい。「頼らざるを得ない」とは、何をどのように頼るのか。頼った後はどうする(どうなる)のか。また、いったい日本は北朝鮮との関係をどうしたいのか。現状のままにとどめるのか、良くしたいのか、悪くしたいのか。日本政府だけでなく、皆の意見を聞かせてほしい。それとも、小泉首相はここでも「仮定の話には答えられない」「その場の雰囲気で決める」とこちらを煙に巻くだろうか。
 政治家の本心はさておき、庶民の多くがここでもある種の思考停止に陥っているような気がしてならない。イラク問題の場合と同じように。

日本は平和を望んでいるか?
 ブッシュ大統領が、これまた大国の指導者としての品位を疑ってしまうところだが、イラクやイランに次いで北朝鮮を「悪の枢軸」と名指ししたことは周知の通りである。彼がこれらの国々に対して「先制攻撃も辞さない」と見得を切ったときには、私の庶民感覚ではもうどうにも理解出来ず、頭を抱えたものだ。今回のイラク攻撃はそうしたブッシュ戦略の第一弾ということになる。そうした中で、北朝鮮が次の標的にされかねないと危機感を募らせるのはごく当然のことだ。
 もしも日本政府が北朝鮮との関係を良くしたいと望んでいるのなら、その危機感を和らげようとするのが自然だろう。けれども政府は、「日本に対し威嚇行為を行う可能性がある」として米軍機と共に自衛隊の偵察機を飛ばしたり、この微妙な時期に軍事衛星である情報収集衛星を打ち上げるなどの軍事行動を行っている。危機感を和らげるどころか、逆に刺激しているのが現状だ。
 マスコミはマスコミで、ノドンやテポドン、不審船、核開発疑惑、金正日総書記の(またしても)独裁など、北朝鮮をめぐる不安材料をドラマチックに報道する。「あの国は恐ろしい」というフィルターを私たちの目に被せようというのか?相手方が神経をとがらせているときにマスコミが国民の不安を煽る一方なのは、理解に苦しむ。両国の隔たりをいっそう広げたいのだろうか。何かしらここには意図があるようで、私は大きな不安を覚える。

恐怖
 互いに目と鼻の先ほどの距離にありながら、北朝鮮と日本との間にこんなにも張りつめた空気が流れているのは悲しいことである。両者の間には、しこり(核開発疑惑、拉致問題、かつての植民地支配や強制連行の問題)が根を下ろしている。しかし、小泉首相はそうした問題を踏まえた上でピョンヤンへ行ったのではなかったか。金総書記と握手したのは、双方に横たわっている問題に双方が真摯に取り組むことを約束出来たからではなかったのか。それとも、あれは首相ならではのパフォーマンスに過ぎなかったのか。いずれにせよ、その取り組みを日本側は早々に棚上げに、というか、ほっぽり出してしまった。
 私は、日本政府やマスコミの言葉と報道によって、私たちのバランス感覚がかなりぐらついているのではないかと思う。相手の問題点ばかりを見て、ひどい、変だ、不気味だと言っている。
 過度に感情的になると、物事を冷静に判断することが難しくなる。今の日本は9・11直後や現在のアメリカの状況にどこか似ている。ちなみにアメリカでは、度重なるテロ警報が米国民の不安を煽り、その不安がアフガニスタンへの報復攻撃や今回のイラク侵略戦争を政府に許してしまった。どちらもブッシュ政権があの手この手で攻撃の根拠をこしらえ、しゃにむに正当性を主張しているが、実際には独善的な侵略行為である。にもかかわらず、怯えた心にはそれを察知する余裕がない。やられたから、やり返す。危ないから(正確には「気に入らないから」)先回りして叩きつぶす。すごい論理だ。日常的にこんなことが起こるようになったらたまらない。
 ところで、アフガニスタンは果たしてアメリカを攻撃したことがあったか。イラクはアメリカ(ブッシュでなく)にとってそんなに怖い存在なのか。誰か私に教えてほしい。

まやかし
 「犠牲はある。戦争とはそういうものだ。」
 イラク攻撃において民間人に犠牲が出ていることについて、わが国の官房長官はそう述べた。この言葉を聞いたとき、私が咄嗟に思い浮かべたのは、若いアメリカ人女性活動家がイスラエルのブルドーザーによって轢死した事件だった。3月16日のことである。彼女は、パレスチナ人の住居を壊そうとするイスラエル軍の前に盾となって立ちはだかっていた。事故ではなく殺されたのだった。
 戦争において人が死ぬのは当然、と政治家は言う。でも、彼の言う「人」にはリアリティーがない。彼にとって、それは単なる「もの」と同じである。ブルドーザーが女性の存在を無視して進み続け、キャタピラで轢いたのと同じように、「人」が命を持つ存在であることを彼はまったく目に入れようとしていない。
 そんな彼らが臆面もなくイラクの「戦後復興」を語っている。破壊と殺りくを行って、何が「復興」なのか。もとのものを都合が悪いからと言ってぶっつぶし、殺し、そして今度は自分たちに都合良くつくり変える。解放だとか復興だとか言っているが、どれほど人が命を奪われ、心を引き裂かれ、築き上げてきたものが壊され、土地や水や空気が汚染されていると思うのか。「復興」や「人道」を口にする前に殺りくを止めよ。
 嘘とまやかしに充ち満ちていることに、あらためて驚かされる。「難民支援」というのも、あれはいったい何だ?「大量の難民が出るものと予想される」などと言っているが、「難民」という民はいない。それは生ゴミでもない。「惨禍を逃れてくるイラク国民」だ。その惨禍をもたらしているのは誰だ?!
 アメリカ軍は精密誘導型兵器を使っているという。目標を的確に攻撃していると主張する。しかし、誤爆も、そして意図的としか思えない誤爆も繰り返しある。だが、それが問題なのではない。正確な着弾であろうと誤爆であろうと建物をぶっ壊し、燃え上がらせ、人間を血まみれにする。発射されるミサイルや遠くの建物があげる煙など、マスメディアは攻撃側の動きを報道するが、それとは別に各国のジャーナリストや活動家たちが命がけで戦乱の生の姿を伝えている。痛ましいそれらの映像を目の当たりにすると、「戦争とはそういうものだ」とうそぶく政治家の傲慢さと卑劣さがますます感じられてくる。彼らは戦争を推進したり傍観する人間であって、戦闘に巻き込まれる兵士や民衆ではない。こうした政治家たちに私たちは命を預けていて良いものだろうか?
 「人権」「命の大切さ」「心の豊かさ」・・・常日ごろ私たちの身の回りでうたわれていた言葉が、今、意味を伴わない空虚な言葉になろうとしている。人の命を奪ってはならないという極めてシンプルで根本的な人間のルールが、国を守るとか正義のためにという大義名分のもとですっかりくつがえされ、それに異を唱えようとする声をかき消すために、心を冷血にせよと圧力をかけている。私たちは今度から自分自身と子供たちに、こう言い換えなくてはいけない。場合によっては人を殺さなくてはいけないのよ、と。心を豊かにすることよりも、悩まず人殺しが出来るように心を単純にしなくてはいけないのよ、と。
 私はたびたび政治家たちや知識人、或いはその卵みたいなものたちが、戦争に反対する人々を指して「彼らは情緒的だ。」「彼らは甘い。現実(国際社会)はそんな甘いものではない。」「国のレベルと個人のレベルを混同している。」と発言するのを耳にした。果たしてそうだろうか?他者の命も自分の命も守り尊重することが、理性とは無縁なセンチメンタリズムだとでも言いたいのだろうか?そして、その信念を国家間においても打ち出し、話し合いという地道な方法で取り組もうとすることが、果たして混同と言えるだろうか?

瀕死
 私たちは今、大きな危機に直面している。国のリーダーたちは、私たちが外からの脅威に曝されていると強調する。北朝鮮の軍事的脅威のことだ。この問題に対して、政治家たちの間で妙に軍事力に頼ろうとする動きがある。これがアメリカの国家戦略と連動し得るということに、私たちは注意しなければいけない。
 以前から日本はアメリカの戦争に加担してきた。「国際貢献」を理由として、戦闘行為に直接参加するわけではないという奇妙な自己弁明をしながら、軍事行動している米軍に自衛艦を使って燃料補給をしたり、米軍のためにイージス艦を派遣したりしている。また、遡ってみれば湾岸戦争のときにも日本は多大な資金援助をしたし、そもそも、在日米軍に対して毎年莫大な費用を支払っている。日本と極東アジアの安全保障を担うとされる米軍基地は、米軍による軍事行動の重要な拠点でもある。実際のところ、日本は平和憲法を掲げつつアメリカの戦争に加担するという自己矛盾を、常に抱えてきたのだ。
 なのに、私たちはのんびりと無批判に過ごしてきてしまった。国際貢献の一環だと言われればそうなのかと納得し、脅威だからと言われれば仕方がないかと受け入れる。受け身でいることを好み、追求すること、批判することは極力避ける。そんなことをしているうちに日本は自己矛盾をどんどん拡大させてしまった。いまや、外からは狂人的にして好戦的なブッシュ政権に背中を押され、内側では「脅威に対する自己防衛」として「有事への備え」を唱える声が追い風となって、憲法第9条を停止し、国民を戦争に総動員出来るような魔の法律まで登場しようとしている。
 平和憲法は死に瀕している。平和的なあり方を望む人々の拠り所となり、武力に対する最後の歯止めとなってきた平和憲法が大きく揺らいでいるのだ。

何とかしなくちゃ
 私は「脅威」に対して軍事力で応じることに反対だ。双方の緊張は高まり、対話は遠ざかり、衝突を招きやすくなる。互いに、自己防衛を理由に相手への攻撃さえ厭わなくなる。そうなると、私たち国民は「国を守る」ために心を国に譲り渡し、家庭や職場といった日常から身を引き剥がして、ひたすら戦争に臨むように強いられる。私たち民衆は、戦争に役立つ道具であるか、不要なゴミか、危険物かに仕分けられ、役立つ者は褒められたり脅されたりしながら駆り出され、そうでない者ははじかれるのだ。国を守るというと聞こえは良いが、実際は相手の命を奪う殺りく行為だ。危険に命を曝し、残虐行為をしたりされたりするのは民衆だ。一方、国のリーダーたちはそんなときにも身の安全を確保しているのが常で、だからこそ、対話が面倒くさくなると「もう対話は尽きた。あとは軍事的手段しかない。」などと言って早々に交渉を切り上げたがるのだろう。
 私はやっぱり平和を選びたい。リーダーたちには、自暴自棄にも無責任にもならずに(ましてや私利私欲なんぞに走らずに!)平和的手段でものごとに臨んでもらいたい。国民を本当に危険に曝したくないのなら、軍事力など頼ったりせずに地道に取り組んでもらうしかないはずだ。そのための人間性と品格とスキル(能力)を、ぜひ政治家には持ってもらいたい。

 巷には、政治家たちの参考になるような人々がたくさんいる。今ある戦争を終わらせるために、新たな戦争を生まないために、それぞれ地道に活動している人たちだ・・・日本の過去の罪をふり返り、その罪に関わざるを得なかった人たちの痛みを理解しようとする若者たち。原発から出る核廃棄物の行方を追跡する人たち。劣化ウラン弾の恐ろしさを伝えようとする人たち。草の根レベルの交流を通じて、異文化の人々と信頼を築こうとする人たち。或いは、侵略戦争に抗議して毎週アメリカ領事館の前に一人立つ女性。戦争反対の署名を呼びかける中学生。戦禍に苦しむ子供たちに思いを馳せて詩を書く老人・・・みんな決して華やかではないし、誰もが試行錯誤しながらやっている。ただし、こうした人たちの誰もが問題を我が身に引き寄せて考え、自分の心で感じ、そして、何とかしたいと思っている。

壊れかけた平和のために何をすべきか。
今、一人一人が問われている。

では、私には一体何が出来るだろうか?ブーブーが唯一のとりえ(?)である私は、これからもブーブー発信しながら模索してゆこうと思う。


シャプイのラ・ブーブーレター
(第一号 2003年4月10日)
私たちが直面している問題

西花ジョゼシャプイ
〒052-0115 北海道有珠郡壮瞥町弁景195番地
0142-65-2244(TEL/FAX)
MGH00343@nifty.com
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