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消えたイラク政府(田中宇の国際ニュース解説より転載)
http://www.asyura.com/0304/war31/msg/789.html
投稿者 Gaia 日時 2003 年 4 月 12 日 00:23:03:

消えたイラク政府
2003年4月11日  田中 宇


4月9日、イラクのサダム・フセイン政権が突然消滅した。私はイラクにいるわけではないので、報道で情勢を推し量ることしかできないが、8日から9日にかけての間にイラク政府は活動を止め、政府幹部も姿を消した。国営放送テレビは8日朝、通常のニュースの代わりにフセイン大統領をたたえる映像を流した後、放送が途絶えた。

 外国人ジャーナリストらが泊まっているチグリス河畔のパレスチナホテルには、それまで毎日イラク情報省の職員が現れていたが、9日からぱったり来なくなったという。その数日前にはフセイン大統領とおぼしき人物(替え玉かもしれない)がバグダッド市内の繁華街に現れて健在ぶりを表したが、それを最後に、フセインの行方も分からなくなっている。

 断片的な情報を総合すると、それまでは米軍が占拠しているのは一部の都市で、バクダッドでも大半の地域ではイラク側の行政組織、治安組織が温存されていた。だが9日以降、バグダッドだけでなくイラクの多くの町で政府機関の活動が停止しているように見える。バグダッドやバスラなどでは略奪が横行していると伝えられるが、これは政府の建物を警備する部隊が消えたため、一部の市民が庁舎に入って備品を持ち去ったのだと思われる。略奪は、政府庁舎から一般の商店街などへと拡大しているという指摘もある。

 南部のバスラでは、イギリス軍の司令部に市民の代表がやってきて、消滅した行政機能の肩代わりをイギリス軍がやってほしいとお願いしたが、司令部の入り口で追い返された、とBBCテレビが報じていた。

 米英軍は、正規・不正規のイラク軍と戦うこと以外の活動をしない方針をとり続けている。略奪を行う暴徒の鎮圧、犯罪の取り締まりなど、ふだんは警察が行っているような治安維持活動に手を染めると、駐留米英軍を標的にした自爆攻撃などに悩ませられる状態が長引き、米英軍は撤退したくてもできない状態になる。米英はイラクの治安維持のために自国の軍事力や兵隊の人命、政府予算を使うことに消極的だ。

 イスラエルの新聞「ハアレツ」は「イスラエルみたいになってきたアメリカ」(The Israelization of America)という記事を載せている。通行人を装った自爆テロ攻撃を受け始めたイラクの駐留米軍は、今やイスラエル軍と同じ立場だ、これでアメリカ人も少しはイスラエル人の気持ちが理解できるようになるだろう、といった書き出しの記事である。(関連記事)

 米英軍はまさに、イスラエル軍と同じような泥沼にはまることを回避しようとしていると思われるが、このままいくと米英軍がイラクの治安維持を担当せざるを得なくなる。アメリカが国連に対して歩み寄り、国連が治安維持部隊を出すよう提案するという方法があるが、国連が加盟各国に呼びかけて治安維持の部隊を集め、訓練して派遣するまで、少なくとも半年はかかると予測されている。

 米国務省は世界の各国に警察官のイラクへの派遣を呼びかけたが、これが実現する場合でも実施までにはかなり時間がかかる。その間、治安が自然に回復する可能性もあるが、そうでなかった場合、米英軍がイラクの治安維持を担当するか、治安悪化を放置するしかない。

 また、いったん集団職場放棄したイラクの官僚組織や唯一の政党であるバース党の人々に米英が呼びかけて、職場に戻ってもらうという方法もありえる。だが、アメリカ政権中枢では、フセイン政権の早期打倒に成功したことでタカ派が主導権を握っており、彼らはイラクの既存の官僚組織やバース党の壊滅を方針としてきた。もし米英が呼びかけて、旧来の官僚組織の一部の人々が組織の復活に応じたとしても、いったん完全に消滅してしまった政府機能を復活させるのは簡単ではないと思われる。

▼クルドの町キルクーク

 クルド人地域にある北部の町キルクーク(人口約100万人)では、4月10日に数千人のクルド人武装勢力が市内になだれ込み、町を練り歩いた。市内のクルド人は歓声を上げて応えた。直前まで市内に駐屯していたはずのイラク軍がどこに行ったのか、はっきりした報道が見当たらないが、4月9日にイラク政府が忽然と消えてしまったのを受け、キルクークに駐屯していたイラク軍も戦わずに撤退したのだと思われる。

 キルクークからイラク軍が撤退したのを見て、数千人のクルド人武装勢力や、一般のクルド人たちがキルクーク市内に進軍した。イラク北部では、クルド人武装勢力(peshmerga)がアメリカ軍の傘下で進軍し、キルクーク近郊まで抑えていたが、クルド人勢力は米軍との約束で、米軍の命令がない限り進軍してはいけないことになっていた。しかし、イラク側が一方的に撤退した以上、クルド人が「独立クルド国家の首都」であると考えているキルクークを奪回しない手はなかった。

 カナダの新聞「トロントスター」の記事によると、郊外からキルクーク市内に向かう道路は、武装勢力と、それに続く一般のクルド人たちの車の列ができ、大渋滞になった。反対車線には市内から撤退するイラク軍の車が延々と続いていた。市内に入る手前にイラク軍が作った原油の堀があった。これは米軍が迫ってきたときに点火して黒煙を発生させ、米軍の進軍を妨げようとする軍事施設だったが、イラク軍はこの堀に点火しないままキルクークを去った。キルクークでの戦闘は全く行われなかったのである。米軍は4月15日にキルクークに進軍する予定だった。(関連記事)

 キルクークの郊外にはイラク屈指の油田がある。フセイン政権はかつて、この油田を完全に掌握しようとしたが、キルクーク周辺の住民の大多数はクルド人だった。イラクからの分離独立を目指す彼らが油田周辺の地域の住民の大多数を占めていることは、政権にとって潜在的な脅威であると考えたフセインは、キルクーク市内と油田地帯からその外に地域に、できるだけ多くのクルド人を強制移住させようとした。

 家を追い立てられたクルド人はフセイン政権の30年間で10万人を超えるとされるが、これらの人々が10日、追い出される前に住んでいたキルクークのかつての自宅を取り返そうと、乗合タクシーやトラックの荷台に乗り、市内に殺到した。昔住んでいた家には、今はアラブ系イラク人が住んでおり、この日、昔の家にやってきて、今の住人に立ち退きを求めたクルド人が多くいたという。この問題は今後も尾を引くことになる。

▼トルコの抗議

 クルド人武装勢力がキルクークに入ったことを知り、隣国トルコの政府は大きな危機感を抱き「約束が違う」とアメリカに抗議した。クルド人はイラク北部(500万人)だけでなくトルコ東部(1300万人)にも住んでおり、クルド人はトルコの人口の20%近くを占めている。

 北イラクのクルド人がキルクークと油田を掌握し、そのまま戦後のイラクで自治権を認められた場合、クルド人自治政府はキルクーク油田から産出する石油を世界各国に売る代わりに、第一次大戦後の1920年のセーブル条約でいったん認められたものの、その後取り消されたままになっている「クルド人国家」を国家として承認するよう、交渉する可能性が出てくる。石油を使って世界に独立を認知させようとする作戦だ。

 これが成就すると、イラク側のクルド人だけでなく、トルコ側のクルド人も、自分たちの地域をトルコから分離独立させ、新生クルド人国家に併合させようとするかもしれない。これはトルコ国家を重大な危機に陥らせる。そのためトルコは、今回のイラク戦争前にアメリカがトルコ側からの進軍を要請したときも結局断った。米地上軍がイラクのクルド人地域を通ってバグダッドへの進軍を目指せば、途中でクルド人武装勢力が米軍に協力する場面が多くなり、その見返りに米軍がクルド人のキルクーク油田掌握を容認するかもしれない、というのがトルコの懸念の一つだった。

 結局トルコからの米軍の進軍はなかったが、その代わりに起きたのが、4月9日のイラク政府の突然の消滅だった。キルクークには急に軍事的な真空地帯ができ、クルド人勢力がそれを埋めた。

 開戦前、トルコ政府に対して「キルクークはクルド人に渡さず、米軍が管理する」と約束していたパウエル国務長官は4月10日、トルコ外相からの抗議を受け「米軍の増派部隊をキルクークに急行させており、クルド人を撤退させる」と答えた。クルド人武装勢力も、短期間でキルクークから撤退すると約束した。(関連記事)

 だが、本当にクルド人武装勢力がキルクークから完全撤退するかどうか分からない。米軍と敵対してしまうと逆効果だが、それを回避しつつキルクークを何とか守れば、クルド人国家独立の可能性が高まるが、その一方でトルコ軍が越境進撃してくる恐れも強まる。

 米政権内で主導権を握ったタカ派は、何年も前からクルド人を使ってフセイン政権を倒すことを計画していたこともあり、クルド人の活動を容認するかもしれない。イラクがクルド人地域とその他の地域に分裂すれば、今後のイラクは復興できたとしても、前より弱い国になる。タカ派のネオコン(イスラエル系)は、イラクを含む中東諸国を弱体化させておくことがイスラエルのために良いと考えてきた。そのため、クルド人が独立してイラクが弱くなり、おまけにトルコとの約束を守れなかった中道派のパウエルを弱体化させることもできるという一石二鳥の道が取られるかもしれない。

 イラク北部にはキルクークと並ぶもう一つの大都市モスルがある。モスルでは、キルクークで起きたような混乱を防ぐことを米軍とイラク軍の両方が模索し、10日にイラク軍の第5師団の司令官が、郊外に展開する米軍の特殊部隊に対して投降を申し出て、投降に関する文書に調印した。モスルでは、クルド人武装勢力は市内には進軍しないと今のところは言っているが、情勢は不安定だ。(関連記事)

▼なぜ突然消滅の道を選んだか

 ここまで書いてきて、肝心のことが解明されていない。なぜフセイン政権は突然消滅する道を選んだか、ということだ。フセイン政権は戦って負けて消滅したのではなく、意図的に消滅した可能性が強い。イラク北部では、ほとんど戦闘が行われておらず、バグダッドでも米軍が拍子抜けするほど、国際空港から市内中心部への進軍でイラク側の抵抗が少なかった。イラク側の6つの主な師団のうち、まだ少なくとも3師団は戦わずに残っているはずだとされている。(関連記事)

 残っている師団はフセイン大統領とともに、大統領の生誕地であるティクリットに立てこもり、最後の戦いを試みるつもりだという解説も見た。これが米軍の発表を受けたマスコミでの解説の主流だ。これが事実なのかもしれないが、いくつもあった町をすべて一方的に放棄してしまったことがイラク側の戦術としてありえるのか、私には疑問がある。

 2001年暮れのアフガニスタンの戦争では、タリバン勢力は首都カブールでほとんど戦わずに撤退し、パキスタンとの国境地帯の山の中に分散して隠れた。タリバン勢力は今春の雪解けとともに、再び米軍や新政府系の勢力と軍事衝突を始めている。これとの比較で「フセインはタリバン同様、首都を放棄してティクリットなどでゲリラ戦を再開するつもりだ」という説もあるが、アフガニスタンと違い、イラクでは北部のクルド人地域以外、ゲリラ戦ができそうな山岳地帯がない。しかもタリバンは隣国パキスタン軍に密かに支援されて戦っていた。カブールから撤退したのは、タリバン勢力を無傷で残しておきたいというパキスタン側の戦略に沿ったものだった。フセイン政権のバグダッド放棄とは状況が全く違っていた。

 そのほか、フセイン大統領は4月7日に米軍が行った空爆で死亡したという説もある。これは、イラクの政府機能が停止したのが8-9日であることを考えると、日程的に符合する。この場合、フセインが死んだ後、残った政権首脳たちが政府機能の停止を決定したということになるが、イギリスのMI6は「フセインは死んでいない」と言っている。どれが真実なのか、今はまだ分からない。

http://tanakanews.com/d0411iraq.htm
 

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