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圧倒的な兵力を誇る米英侵略者に対して抵抗するサダムの戦略は、詳しいメソポタミア史を知らない私にとって、十字軍史はあくまでヨーロッパ中心の歴史観にのっとった日本の世界史教育だったようです。下記URLが参考になりました。
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu46.htm
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(中略)
テレビに出ている記者やコメンテーターの解説が非常にお粗末だ。軍事評論家にしろ中東問題の専門家にしろ、知識と分析力に疑問を持たざるを得ない。彼らの肩書ばかりが立派で中身が伴っていないのは御用評論家だからだろう。私の本棚にはリデル・ハートやパウル・カレルなどの戦略書や戦記ものが並んでいる。さらにマキャべリなどの政略書やその他歴史書籍で一杯だ。テレビの解説者の解説には教養を感じさせるものはない。
今回の米英軍のイラク戦争において、サダム・フセインがどのような戦法で戦うかは歴史書を見ればそのヒントが出ている。フセインは現代のサラディンを自認しており、サラディンの戦法を研究すれば、イラク軍が米英軍の補給ラインを攻撃してくることがわかる。だから橋も壊さずに残して米英軍を引きずり込んで、ゲリラ攻撃している。サラディンと十字軍の戦いは次のように書いてある。
彼は1187年の「ハッティーンの戦い」で十字軍の主力部隊を壊滅させ、聖都エルサレムを見事に奪還し ます。かって十字軍がエルサレムを攻略した時のような殺りくが繰り返されることはなく、サラディンは降 伏したキリスト教徒を身代金を取って海岸方面に退去させたのでした。 第3次十字軍が再度の聖地解放をめざしてヨーロッパを出発し、フランスのフィリップ2世とイングランド のリチャード1世(獅子心王)の率いる軍勢が、1191年、アッコンの攻略に成功します。
しかしサラディンにとって 幸いだったのは、リチャードと協同で戦うことに嫌気がさしたフィリップがさっさと帰国してしまったこと でした。リチャードは補給基地となる海岸都市を確保するためアッコンを出て南に進軍、これを追うサラデ ィンはアルスフの森の陰から十字軍を攻撃しますが、リチャードの冷静な指揮による反撃にあって敗北して しまいます。 その後のサラディンはもっぱら十字軍の後方を撹乱する作戦を展開し、このためリチャードは進軍を諦めね ばなりませんでした。1192年には休戦条約が結ばれ、十字軍はアッコンやスールなどの地中海岸の城塞 都市を確保しますが、シリアにおける支配領域は20年前に比べれば大幅に縮小してしまったのです。
「戦術の世界史」リチャード一世とサラディンより(http://plaza4.mbn.or.jp/~tactic/who6.html)
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また、この筆者は、東京新聞からの引用で、同HPに記している。
(中略)
サダムはサラディンと同郷のティク リートの産で、アメリカ十字軍を迎え撃つ現代のサラヂィンをもって自任し ているから、かかる人物にむかって亡 命せよ、降伏せよというのは、見当は ずれもはなはだしい。 アメリカ国防総省を掌握する戦争党 の政治人の面々は、星条旗が進軍すれ ばイラク住民は歓呼して迎えいれ、バ グダッドはたちまちに陥落すると公言 していた。 えせ侍の刀いじり。大日本陸軍参謀 本部なみのアームチェア軍師の集まり であったことがわかる。 サダム体制のモサイク模様は外からのひと押しで崩れそうな気配ではあっ た。
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このような解説は最近のメディアでは見られない。ただただ軍事力学的分析だけで、人の心、アラブの心が抜き去られてしまっています。
アメリカ型史観(強いものが勝つ)ですべてが進んでいる。歴史観を変えねばならない。