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ジョージ・W・ブッシュ大統領
米国大統領に選ばれたジョージ・ウォーカー・ブッシュは、2001年1月20日に大統領に就任した。
ブッシュの名前は、米国の指導層の間で広く知られている。ジョージ・W・ブッシュは、第41代米国大統領ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュの長男である。父子で大統領を務める例は、米国史の初期に、第2代大統領ジョン・アダムズの息子ジョン・クインシー・アダムズが、1825年に第6代大統領となって以来のことである。
ブッシュ大統領は、州知事職から米国で最高の公職に就任することになる。最近では同様の例が、ジミー・カーター(民主党、元ジョージア州知事、1976年に大統領当選)、ロナルド・レーガン(共和党、元カリフォルニア州知事、1980年当選)、ビル・クリントン(民主党、元アーカンソー州知事、1992年当選)、そして今回のジョージ・W・ブッシュ(共和党、1994年にテキサス州知事当選)と続いている。
ブッシュの選挙運動におけるメッセージは、米国の2大政党である共和・民主両党の保守派・中道派、無党派、男性・女性、ヒスパニック系、アフリカ系米国人など、全米の幅広い有権者に受け入れられた。ブッシュは、選挙運動のテーマの1つに、「包含」の概念を挙げた。彼は、「わが国は繁栄しなければならない。しかし、繁栄には目的がなければならない。それは意欲ある者すべてにアメリカン・ドリームが訪れるようにすることである。繁栄の目的は、除外される者、取り残される者がないようにすることである」と述べた。
ブッシュ大統領は、この哲学を「思いやりのある保守主義」と呼んでいる。ブッシュは、有権者に対し、「私は、保守主義の哲学は思いやりの哲学であると確信している。それは個人を解放することにより、個人が可能性を最大限に発揮することを可能にする」と語った。「減税は保守主義であり、国民の可処分所得を増やすことは思いやりである。地方自治体による学校の管理、高い基準やすぐれた成果を要求することは保守主義である。すべての子どもが読解力を身に付け、落ちこぼれる子どもがないようにすることは、思いやりである。就業を要求することで、福祉制度を改革することは保守主義である。国民を政府への依存から解放することは思いやりである。少年法を改正し、悪い行いには責任が伴うことを要求するのは保守主義である。アメとムチがともに必要であることを認識するのは思いやりである。」
ブッシュの考えでは、このような保守主義は、「ソフトでもなく、あいまいでもない。それは、明瞭かつ強力な保守主義である。大切なことは、善意ではなく、良い成果である。思いやりのある保守主義の下では、保守的な自由市場の原則が、貧しい者、恵まれない者を含むあらゆる現実の人たちを支援するという現実の取り組みに適用される。また、思いやりのある保守主義に関する私のビジョンでは、米国が世界でリーダーシップを発揮することが求められる。わが国は、いまや世界で唯一の超大国であり、われわれは平和を維持し自由の拡大を促進するため、持てる力を強力かつ思いやりのある方法で使わなければならない」。
また、「ワシントン・ポスト」紙のコラムニスト、E・J・ディオンヌ・ジュニアは、「ブッシュがほとんど誰からも受け入れられる秘訣の1つには、彼がいかなる人をも自分を好きにさせることができるという、最も古くからある政治技巧を身に付けていることである」と書いている。
仕える義務
ブッシュ大統領は、長年にわたって政治を価値ある天職としてきた家系の出身である。父方の祖父、プレスコット・ブッシュは、1952年から1963年まで上院議員(コネティカット州選出)を務めた。父ジョージ・ブッシュは、1966年にテキサス州ヒューストン市の有権者の支持を得て、下院議員に当選し、政治家としてのキャリアを開始した。父親のジョージ・ブッシュは、1981年から1989年までロナルド・レーガン政権の副大統領を務め、1989年から1993年まで米国大統領を務めた。ブッシュ大統領の弟、ジェブ・ブッシュは、フロリダ州知事である。
ジョージ・W・ブッシュは、自伝「A Charge to Keep」(果たすべき義務)の中で、「私の祖父、プレスコット・ブッシュは、人間の最も永続的で重要な貢献は、公職者としての使命を自覚し、それを果たすことであると信じていた。祖父は、金銭や物質的なものは、長い目で見れば人生の尺度ではない。金銭や物質的なものを持つ者には、代償として、仕える義務があると考えていた。」
ジョージ・W・ブッシュは、1946年7月6日、コネティカット州ニューヘブンで生まれた。当時、父親はエール大学の学生だった。2年後、エール大学を卒業した父親は、妻バーバラと幼い息子を連れてテキサス州西部に移住し、石油事業を始めた。ジョージ・W・ブッシュは、少年時代のほとんどをテキサス州ミッドランドで過ごし、現在に至るまでそこを故郷と考えている。
ブッシュは、自伝の中で、「ミッドランドは、小さな町であり、小さな町の価値観に溢れていた」と述べている。「私たちは、年長者を敬い、年長者の言うことを聞き、良き隣人となることを学んだ。私たちは教会に通った。家族がいっしょに戸外で時を過ごし、大人が近所の人たちと話をしている間に、子どもたちは野球やビー玉やヨーヨーをして遊んだ。私たちの宿題や学校の勉強は大事なことだった。町の有力者は、地元の学校に最も優秀な先生を集めるべく力を尽くした。友人や隣人を信用することができたから、家のドアに鍵をかける者はいなかった。それは、幸せな子ども時代だった。私は、愛情と友人とスポーツに囲まれて育った」。
中でも、スポーツの存在は大きかった。幼なじみのマイク・プロクターによると、「放課後も休み時間も、いつも野球をしていた。適当な野球場へ行って、相手チームを探して試合をした。(ジョージは)率先してキャプテンを務めた」。
1949年12月には妹のロビンが生まれ、幼いジョージは兄となった。1953年2月には、ブッシュ家に3人目の子ども、ジョン(愛称「ジェブ」)が生まれた。ジェブの誕生からわずか数週間後に、血液検査の結果ロビンが進行した白血病にかかっていることがわかった。白血病は、現在では治癒可能な場合が多いが、当時はあまり詳しく知られていない病気であり、ロビンはその年の10月に3歳で亡くなった。
幼いブッシュにとって、妹の死は衝撃的な体験だった。彼は自伝の中で、「私は、悲しみ、呆然としていた」と述べている。「ロビンが病気であることはわかっていたが、死を思うことは耐えがたいものだった。数分前にはいた妹が、突然いなくなった。46年後の現在も、その時が私の子ども時代の最も荒涼とした記憶である。それは、幸せな日々のおぼろげな思い出の中で、唯一の鋭い痛みである」。
ブッシュ家には、テキサス州西部で、1955年にニール、1956年にマービン、1959年にドロシーと、さらに3人の子どもが生まれた。ドロシーの誕生後まもなく、父親は、共同で創設した海底石油採掘会社の経営を引き継ぐために、テキサス州南東部にあるヒューストンに、家族とともに移った。当時、ブッシュは、ミッドランドのサン・ハシント中学校の7年生を終了し、新学年の級長に選ばれたばかりだった。ブッシュは、父の転勤にともない、慣れ親しんだ学校から、ヒューストン郊外の私立学校、キンケイド・スクールに転校することになった。
伝統的な教育
1961年秋、ジョージ・W・ブッシュの両親は、彼をマサチューセッツ州アンドーバーのフィリップス・アカデミーに入学させた。同校は、米国で最も著名な大学進学準備校で、ブッシュの父親の母校でもある。ブッシュは、15歳で初めて家を離れることになったが、当時の彼は、米国北東部の木々の茂る丘より、南西部の広々とした景色の方が、はるかになじみがあった。しかし、彼はそれに適応した。
「アンドーバーは、私に考えることを教えてくれた」とブッシュは述べている。「私は、それまで体験したことのないような方法で読むこと、書くことを学んだ。そして、その後成人してからも続いている新しい関心を発見した。そのきっかけを作ってくれたのは、トム・ライアンズという、素晴らしい歴史の先生である。ライアンズ先生は、歴史に対する情熱を持ち、その情熱と関心を生徒たちに伝える能力を持っていた。先生が私に教えてくれたのは、歴史は過去とその教訓を現在に生き返らせること、そしてそうした教訓は未来の予測に役立つことが多い、ということだった」。
1964年にフィリップス・アカデミーを卒業したブッシュは、コネティカット州のエール大学に進学し、伝統的な学生の活動に専念した。フラタニティ(男子大学生の友愛会)の1つである「デルタ・カッパ・エプシロン」に所属し、会長に選出された。また、大好きなスポーツ活動を続けた。相変わらず野球好きではあったが、本人によれば「才能が熱意に及ばなかった。私は、エールの1年生チームの平凡なピッチャーだった。3年生の時にラグビーを始め、練習の結果、4年生の時には先発チームのメンバーになった」。
ブッシュは、1968年5月、エール大学歴史学部を卒業した。卒業の2週間前に、ヒューストン郊外のエリントン空軍基地にあるテキサス州空軍州兵事務所へ赴き、パイロット訓練生となった。動機の1つは、第2次世界大戦でパイロットだった父親のように飛行機の操縦を習うことだった、と彼は述懐している。ブッシュは、少尉に任命され、F-102迎撃戦闘機のパイロットとして2年間の現役勤務を終えた。その後4年近く、非常勤のパイロットとして、州空軍のF-1022機を常時警戒態勢にしておくため、時折飛行任務に携わった。
事業、政治、貧困
この間、ブッシュは、父親の元パートナーのもとで働いていた。このパートナーは、石油採掘事業をやめて、ヒューストンで農業会社を設立し、家畜や鶏から熱帯植物までさまざまなモノを扱っていた。ジョージの仕事は、米国各地や中米諸国に出かけて、買収対象となる苗木畑を探すことだった。
1972年春には、この仕事をやめ、アラバマ州で、上院議員に立候補した共和党のウィントン・ブラウントの選挙運動に参加したが、彼は落選した。
ヒューストンに戻ったブッシュは、専門職指導者連盟(PULL)という組織で、アフリカ系米国人の青少年のカウンセラーとなった。この組織は、スポーツ、芸能、実業界からボランティアを募り、青少年のためのさまざまな奉仕活動をしていた。ジョージは、バスケットボールとレスリングを指導し、また担当した子どもたちが少年院などへ入ることのないよう、少年院の実態を見学させた。
同じくPULLに参加していたプロフットボール選手のアーニー・ラッドは、「彼は、実にすばらしい人だった。誰からも深く愛されていた。人と接することが上手だった。皆、彼にはやめてほしくないと思っていた。」
ブッシュは、自伝「A Charge to Keep」に、プロジェクトPULLは「それまで見たことのなかった世界を垣間見させてくれた」と書いている。「それは、悲劇的で悲痛な世界であると同時に、精神を高揚させる世界だった。私は多くの貧困を見た。誤った選択も見た。それは、麻薬、酒の乱用、そして女性に子どもを産ませたまま行方をくらませ、未婚の母として1人で子どもを育てる苦労をさせる男たちなどである。また、字を読むことができず、学校の勉強が大きく遅れている子どもたちも見た。しかし一方で、こうした子どもたちを悲惨な状況から抜け出させようと努力する、すばらしい人たちも見た」。
1973年秋、ブッシュは、マサチューセッツ州ケンブリッジのハーバード大ビジネス・スクールに入学した。母親のバーバラ・ブッシュは、「ワシントン・ポスト」紙のインタビューに答えて、「ジョージにとってハーバードは大きな転機となった。彼は何と言ったらいいか、組織というものを学んだと思う」と語っている。
職業上の挫折と私生活の勝利
1975年に経営学修士号を取得したジョージは、ミッドランドに戻り、石油事業を試みることにした。まず、土地の採掘権を調査し、石油採掘の見込みのある土地の借地契約を交渉する「ランドマン」になった。ほどなく彼は、鉱業権や鉱区使用権の取引や、採掘プロジェクトへの投資を行うようになった。
1977年夏、ミッドランドの友人宅で開かれた夕食会で、ブッシュは、ローラ・ウェルチと出会った。ローラはミッドランドで生まれ、テキサス州ダラス市のサザン・メソジスト大学教育学部を卒業した後、同州オースティン市のテキサス大学大学院図書館学科修士課程を終えていた。ジョージと出会った頃には、オースティンの小学校で図書館員を務めていた。
友人たちにとっては、2人の仲がうまくいくかどうか定かではなかった。ジョージは、「ローラは穏やかな性格で、私は精力的である。彼女は落ち着いており、私はじっとしていられない。彼女は辛抱強いが、私は気が短い」と述べている。正反対の性格がうまく補い合い、2人は恋に落ち、出会いの3ヵ月後に結婚した。
その頃、ジョージはすでに、米国議会議員選挙への立候補を決意しており、43年間下院議員を務めた民主党議員が引退した後の空席を争うことになった。そのため、結婚式を挙げた2人は、新婚旅行を延期して、選挙運動を開始し、広大なテキサス州西部の下院議員選挙区を隅々まで遊説して回った。ブッシュ候補は、共和党の指名候補となったが、結果は落選に終わった。しかし彼は、1度も共和党員を選出したことのない選挙区で、投票数の47%を獲得した事実に満足した。
「敗北は、人を謙虚にする」と、ブッシュは自伝に書いている。「努力し、夢を描き、他の人たちも支持してくれることを願うものの、突然幕が降り支持されなかったことがわかる。政治的敗北と個人的敗北を切り離すことは難しい。投票用紙には自分の名前がはっきりと書かれているからだ。それでも、私がそうであるように、有権者の見識を信頼するならば、失望を乗り越え結果を受け入れ、前進するのである」。
ジョージにとっての前進とは、ミッドランドの石油事業に戻ることだった。彼は、スペイン語で「ブッシュ(茂み)」の意味となるアルブスト・エナジーという会社を設立し、後にブッシュ・エキスプロレーションと改称したが、事業は失敗に終わった。1980年代初めに石油価格が下がり始め、新しい企業には経営が難しくなった。1984年、ブッシュは別の中小石油探査会社と合併する決断をし、スペクトラム7という新企業の社長となった。
この間1981年には、ブッシュとローラの間に、双子の娘バーバラとジェンナが生まれた。ブッシュは、自伝の中で、「私は、子どもたちの世話をすることを当然のことと考えていた」と述べている。「私は、現代的な父親だったし、双子の世話は2人がかりでも大変だった。しばらくは保母を雇っていたが、私も子どものおむつを代えたり、風呂に入れたり、ミルクを飲ませたりすることを学んだ。私たちは、2人の娘を乳母車に乗せて長い散歩に連れていった」。
石油価格の急落が続き、スペクトラム社の財務状況は逼迫した。1986年には、スペクトラムより規模の大きいハークン・エナジー・コーポレーションが、同社を買収した。ブッシュは、しばらくの間ハークン社のコンサルタントを務めたが、その後は、父親の大統領選挙運動に、顧問兼スピーチライターとして参加した。
野球チーム経営者から州知事へ
1988年に父親が大統領に当選した後、ブッシュはテキサス州ダラスに移った。目的は、ダラスで事業を開始することだった。しかし、ダラス郊外を本拠地とするプロ野球チーム、テキサス・レンジャーズが売りに出ているという話を聞いて、彼は計画を変えた。これまで生涯を通じて消えることのなかった野球への情熱を、現実に結びつける機会が訪れたのである。彼は裕福な投資家たちを集め、およそ7500万ドルでレンジャーズを買収した。ブッシュ自身も、スペクトラムの売却で得た資金を投資して、小株主となった。ブッシュと、エドワード・「ラスティ」・ローズというもう1人の投資家が、チームの日々の経営を任された。
ブッシュの自伝によると、「ラスティは、スピーチをしたり、マスコミと話をすることが好きではなかったので、私がテキサス・レンジャーズ経営陣の顔と声になった。私は、懸命に入場券を売りまわった。テキサス州内の広大な地域にわたるレンジャーズの市場を回り、市民団体や商工会議所でスピーチをした。私は、数千回もマスコミのインタビューを受け、野球が家族連れで楽しめるスポーツであり、娯楽として大きな価値があることを宣伝した」。
その過程で、ブッシュ自身がテキサス州で著名な存在となり、父親の名声の影から抜け出すことができた。1993年に父親が再選を賭けた大統領選挙で敗北した後、ブッシュは再び公職に立候補することを決意し、今度はテキサス州知事に立候補した。彼は、現職の民主党知事、アン・リチャーズに挑戦し、公教育の改善と少年裁判制度、福祉、そして州不法行為法(被害を受けた者が損害賠償請求訴訟を起こすことができる制度)の改革を公約した。
ブッシュは、「この4つはいずれも重要であるが、私にとって最も大切なのは教育である。毎回スピーチで述べてきたことであるが、州政府にとっての教育は、連邦政府にとっての国家防衛と同様、最優先事項であり、最も急を要する課題である。州政府が子どもたちの教育を怠るなら、また連邦政府が外国からの脅威に対する国家防衛を怠るなら、それ以外の課題の重要性は、はるかに小さくなる」と述べている。
1994年11月、ブッシュは、得票率53%対46%でアン・リチャーズを破り、テキサス州知事になった。評論家のほとんどは、ブッシュの州知事就任1年目の実績は非常に優れたものであったという点で意見が一致している。上下両院ともに民主党が優位を占めるテキサス州議会で、ブッシュ州知事は民主党とうまく協力し、選挙運動中に公約の中心に据えていた課題に関する法案を可決させることができた。
ブッシュ州知事は、テキサス州史上最大の減税法案2件(総額30億ドル以上)を支持し、これに署名した。ブッシュ州知事在任中には、地元による学校の管理を重視し、基準を引き上げ、勉学の基礎に重点をおくべく州のカリキュラムを改正するための法を制定した。また、テキサス州における成人粗暴犯の仮釈放制度の実質的な撤廃、裁判所が少年粗暴犯を成人として裁くことのできる年齢の引き下げ、そして武器不法所持や銃犯罪に関わった少年に対する禁固刑の義務付けなどを定めた法律も、ブッシュ州知事の下で可決された。就業の義務付けや、生活保護受給期間の制限によって、生活保護需給者数が減少した。また、ブッシュ州知事のいう「くだらない」訴訟を減らすために、不法行為法が改正された。
ブッシュは、州知事当選と同時に、プロ野球チーム、テキサス・レンジャーズの所有権を委託し、チーム経営の責務を辞した。レンジャーズは、後にダラスの事業家に売却された。ブッシュ州知事は、1998年に再び州知事に立候補し、投票数の69%を獲得して、再選を果たした。その直後、彼は米国大統領選出馬の可能性を検討し始めた。
大統領選挙戦
知事選が終わると、「大統領選出馬を巡る決断を求める圧力が高まり始めた」とブッシュは述べている。「私は、決断に悩んだ。家族のことが心配だった。私はこのような環境について普通以上によく知っているだけに、家族をそうした環境に晒すことが心配だった。愛する者が全国的な舞台でこき下ろされるのを見るのはどういう気持ちか、私は知っている。したがって、娘たちや妻にそのような困難な体験をさせることが心配だった。一方で、私は、自分の国のことが心配だった。すべての国民に機会を与えるという米国の希望が脅かされ、世界における自由の番人としての米国の地位を脅かされていく方向への傾斜が強まっていることが心配だった」。
結局、彼は出馬を決心し、2000年8月に共和党の大統領候補の指名を受け、11月の大統領選挙で、クリントン政権で副大統領を8年間務めた民主党のアル・ゴア候補を破って当選した。
元大統領の息子であるという事実は、ブッシュ大統領にとって財産になるだろう。「私は、父の大統領職、そして選挙運動から、大小さまざまな教訓を豊富に得た」とジョージ・W・ブッシュは述べている。「私は、父が外国の指導者と友情や人間関係を築き、それによって世界における米国の威信の向上に貢献する様子を見ながら、個人外交の大切さを学んだ。私は、率直な意見を述べることを恐れず、事態が悪化しても逃げることのない、賢明、有能で忠誠心のある人々や友人をまわりに集めることの重要性を直接学んだ。また、上級顧問は上司に直接話ができるようにしないと、挫折と幻滅を感じるようになることを学んだ。そして私は、偉大な指導者である父から、何よりも大事な教訓を学んだ。それは、政治の世界に入り、立派な業績を挙げ、批判の石つぶてや矢を受け止めながらも、威厳と誠実さを、そして家族への愛情を失わないことが可能である、という教訓である。」
ブッシュ大統領の、今回の選挙運動以前、あるいは選挙運動期間中のスピーチや文章は、彼が大統領として何を目指すかを明確に表わしている。
彼は、米国民は、連邦政府が社会の問題をすべて解決することを期待して政府に依存するのではなく、自ら同胞を支援する意志を持たなければならない、としばしば述べている。「今われわれは、国民が国民の問題を解決する代わりに、政府が国民の問題を解決できるという考え方は誤まりであり、的外れであったと、躊躇せずに言うことができる。それは、国民を支援すべきではないということではなく、より効果的な支援方法を探すべきだということである。われわれは、連邦政府の範囲と規模を縮小することで、その役割を再び適切に限定されたものに戻し、地方政府、地域、そして個人に、自由と責任を返さなければならない」。
「官僚主義の問題点は、コストがかかりすぎることだけでなく、あまりに冷淡な点にある。親身になってくれる親切な人のおかげで、破綻した人生から立ち直る例は多い。そういう親切な人は、『私はあなたを愛している。信じている。私はあなたの味方である』という気持ちを行動に表す。これは、具体的な人間の顔と声のともなう思いやりである。」
ブッシュ大統領の大きな関心事の1つは、すべての米国民が十分な経済機会を持つようにすることである。「われわれは、果てしない繁栄の時代にある」と、彼は述べている。「しかし、その豊かさの中に、貧困がある。豊かな地域社会の周辺に、繁栄の陰で暮らしている人たちがいる。数百万人もの米国民に奇跡をもたらした経済が、やはり数百万人もの米国民にとっては手の届かない存在である。新聞やテレビは、このハイテク経済の勝者を賞賛し、紹介する。しかし、われわれは決して、勝者がすべてを手に入れる社会にしてはならない。われわれの経済は、工場や農場で懸命に働く人たち、そしてウェートレスやウェーターやタクシー運転手の厳しい労働、すなわち、起業精神だけでなく純粋な労働、技術だけでなくつらい労働も尊重し、報いなければならない。将来、この時代は繁栄の時代だったと言われるようになる。しかし、それと同時に、われわれはその富を賢く利用し、目的をもって繁栄を投資し、機会の門戸を開き、そして誰もが米国での生活という大きな夢に迎え入れられたというようにしたいものである」。
ブッシュ大統領のビジョンは、米国内にとどまらない。彼は、自伝の中で次のように述べている。「世界は米国のリーダーシップを求めており、自由と正義と平等に価値を置く国のリーダーシップを求めている。米国のリーダーシップは、傲慢な独裁者の家父長的なものではなく、偉大で高潔な国家の友好的なものでなければならない。われわれには、個人としての家族や地域社会に対する責任とともに、世界で最も偉大で自由な国家の国民という集団としての責任もある。米国は、国境の内側に閉じこもってはならない。米国の最も偉大な輸出品は自由であり、われわれには、世界各地で自由を擁護する道徳上の義務がある」。
未来へのビジョン
2000年8月、共和党の大統領候補指名を受諾したジョージ・W・ブッシュは、米国の目標を新たにするための「作業を始める意欲に満ちている」と宣言した。「私は、皆さんの信頼を得られるなら、その信頼を大切にする権限を与えられるなら、それを活用するこの国を指導する機会を与えられるなら、指導者となる」と、米国民に対して述べた。
過去10年間の米国の経済繁栄を振り返り、ブッシュは、豊かな時代も、危機の時代と同様に、米国の資質が試される時であることを指摘した。
彼は、「繁栄は、わが国を築き、向上させるための道具となり得る一方で、体制内の麻薬となり、緊迫感、共感、義務感を薄れさせる可能性もある」としている。
彼は、この米国の可能性の時機をとらえ、この好機を偉大な目標のために活用することを約束し、次のように述べた。「われわれは、この時代の課題が、子どもたちの世代の危機となる前に、国家安全保障に対する脅威、われわれの健康や老後の保障に対する脅威といった困難な課題に立ち向かう」。
「そして、全国の隅々で忘れられている地域にもすべて、繁栄の約束を拡大する。すべての国民に成功のチャンスを与え、すべての子どもたちに学ぶ機会を与え、すべての家族に、威厳と希望のある生活の機会を与える」。
そして最後にこう述べている。「私は、私を待ち受ける任務の重要性を認識している。大統領職とは、誇りを祈りに変えさせるものであることを認識している。しかし私は、将来の課題に取り組む用意がある。そして私は、米国が新たな始まりを求めていると確信している。
http://usembassy.state.gov/tokyo/wwwhj072.html