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民主主義のわな (平成15年3月31日)差出人: 不明??
テロと戦争を区別して考えられると思うこと自体、大きなうそにだまされている。
大国は体制側に不都合な暴力をテロと呼び、自身の暴力の行使を戦争と呼ぶのである。 そもそも、国民国家という単位でものごとを考える思考こそが、だまされたイデオロ ギーなのだ。 国家は人為的な利害共同体で、正当な根拠などないと考えるべきなので ある。
「話し合いで解決するのが民主主義」というのは小学校や中学校で何度も聞かされ た騙されたイデオロギーである。 話し合いで解決できなければ、いったいどうするの かまでは、まともに教えられていない。 せいぜい、よく話し合って、最終的には多数 決と言う暴力を行使するということのみだ。 そして、国際政治では話し合いで解決で きないことが通常であるのが現実である。
話し合いで解決しないとき、少数の弱者は不平等な抑圧を墓の中にまで持って行けとでも言うのか。 だれも民主主義の少数者の 弱者を救済する現実的な方法は答えられない。 その結果、世界には、政治的、経済的 に不平等さを放置されている少数民族がいくらでも存在する。 民主主義には本質的な 理論的矛盾があるのだ。
自由とは、いったい、何の自由を言っているのか。 自由と言われる国では、大半の 人は会社などの組織に属し所得を得ているが、その会社や会社の幹部を自由に批判で きるのか。 自由と言われる国でも、所得を得ている会社を自由に批判のできない生活 を強いられているのではないか。 所得を得ている会社のこと以外なら自由に批判でき るというのは、イラク国民がアメリカのことなら自由に批判できると言うのと同じこ とである。
違うことは、自由と言われる国では、どの不自由な会社に属するかを自由 に選択できるということなのである。 つまり、自由と言われる国と独裁と言われる国 とは、自由に質の差があるのではなく、程度の差があるだけなのだ。 これは「目糞、 鼻糞を笑う」のようであって、戦争という暴力によって解放するという判断は、極め て高度に慎重でなければならない。
9. 11テロが正当化されるのは、大国の国民の大半が民主主義的な暴力によって 抑圧された少数者を結果として放置し続けた責任が薄く広くあるからである。 民主主 義的な話し合いで解決できると言うなら、なぜ、強者側は妥協しないのか。 恐ろしい ほどの経済格差は民主主義的なごまかしによって獲得され続けている。
たとえば、いじめにあった子供が、いじめの首謀者を刺し殺してしまったことを強 く非難できるだろうか。 そのような状況に追い込んだ首謀者はもちろん、緩やかにい じめに参加した者、傍観していた者、これらのいずれもいじめを受けた子供から暴力 に訴えられたとしても、強くは非難できないであろう。 刑事的責任を追及されるとし ても情状は大きくなる。 それはなぜだろうか。
テロ組織も同じである。 自爆テロをしなければならないような精神状態に追い込ま れる人間を多数生み出す状況を放置する強国の国民には、その責任が全くないとどう して言えようか。 傍観しているのは体制側に加担したに等しいのだ。 そして、テロが 間違っていようがいまいが、自殺する気でテロを起こす者をどうやってあきらめさせ ることができるのか。
刑罰を重くして、死刑にでもする気なのか。 死刑など、自爆す る者にはまったく馬鹿馬鹿しいことである。 それでは、自爆テロを起こす者を先に殺 し尽くすとでも言うのか。 自爆テロを起こす者は、次々と生み出されている。 強者が 弱者から強力に巻き上げるというシステムを変えない限り、弱者は次々と生み出され、 弱者の中から自爆テロをする者が次々生み出されるのだ。 自爆テロが間違っていよう ともいなくとも、それを防ぐにはテロをする側に譲歩するしか解決はないのである。