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イラク侵略を言い出したのは強硬派シオニストのウォルフォウィッツ、というのを再確認しておく。
12年前に始まった戦争
●同時テロ5時間後
国防長官「イラクたたきの情報を」
米東部時間01年9月11日午後2時40分、ワシントンの米国防総省スタッフがラムズフェルド長官の指示を書き留めている。アメリカン航空77便が同省に激突した5時間後だった。
「いい情報を早く。UBL(オサマ・ビン・ラディン)だけでなく、同時にSH(サダム・フセイン)をたたくのに十分な情報を」(02年9月4日の米CBSニュース)。
同時多発テロがビンラデイン氏率いるイスラム過激派組織アルカイダの犯行であることを疑わせる情報は、すでに長官の手元に届いていた。長官はさらに「イラク」との結びつきを求めた。米国が衝撃と悲嘆にくれていたこの時、米政府中枢では「イラク戦争」への歯車が回り始めていた。その夜、プッシュ大統領は国民に「テロリストと彼らをかくまう勢力を区別しない」と報復を宣言。大統領は「敵」として「国家」も想定していた。
翌12日、ラムズフエルド長官は「テロリストと総力戦を行うのなら、イラクを攻撃目標にせざるをえません」と大統領に提案。15日の会議で、ウォルフォウィッツ国防副長官も「今こそイラクを攻める時期です」と進言した(ウッドワード「ブッシュの戦争」)。
米国民は経済的繁栄を謳歌し国際間題に関心を失っていた。そこへ起きたテロは「安全保障への関心を高めた」 (ケネス・ポラック・ブルッキングス研究所中東研究部長)との見方がある。しかしなぜ、報復の矛先にイラクが浮上したのか。山岳戦で膠着の恐れがあったアフガニスタンより、イラクの方が戦いやすいとの意見も政権内にあった。
だが「イラク攻撃は対テロ戦争への国際協調を損なう」というパウエル国務長官らの反論にあう。
その後も、「テロ実行犯がプラハでイラク諜報将校と会った」「炭そ菌テロの糸を引くのはフセイン政権」など、イラクとテロを結びつける「未確認情報」が強硬派周辺から断続的に流された。だが決定的な証拠はない。対テロ戦争の「第1幕」はアフガンを舞台に切って落とされた。
●タリバーン崩壊間近
大統領「そうだ、・イラクをやろう」
01年11月13日、米英軍に支援されたアフガンの北部同盟が首都カブールに進攻した。ビンラデイン氏をかくまっていたタリバーン政権ば崩壊した。約2週間後の26日、ブッシュ大統領が記者会見で述べた。イラク政権が査察受け入れ拒否を続けた場合、「サダムは思い知ることになる」。
米政府の従来の見解の繰り返しではあったが、イラクの脅威に世界の注意を向けさせる政治的な暗示と受け止められた。なりを潜めていたイラク主戦諭が「アフガン後」に再び鎌首をもたげた。
もともと大統領は対テロ戦争を「複数の局面を重ねる戦争」と考えていた。だが、「次の局面」の舞台の候補としては、むしろアルカイダの影が濃いソマリア、イエメン、ストダンなどの国々が挙がっていた。
ライス大統領補佐官(国家安全保障担当)によると、タリバーン崩壊のめどが立ったところで「大統領は、まるで電球が頭の中で急に明滅したように、『そうだ。イラクをやろう』と考えた」(03年2月20日の米PBSテレビ)という。
02年1月22日、「暗黒の王子」という異名を持つリチヤード・パール国防政策諮問委員長が「サダムを放置し、イエメンやスーダンなど小さなテロ支援国家を作戦対象にすれば、米国はイラクのような大きな国には手が出せないというのと同然だ」と発言した。イラクを対テロ戦争「第2幕」にする説明だった。
1週間後、大統領は一般教書演説でイラクをテロ支援の「悪の枢軸」の一つに挙げ、「危機が近づくのを座視しない」と先制攻撃を示唆した。
これより前大統領は01年12月21日の記者会見で「来年(2002年)は戦争の年になると予告している。再選を狙う大統領選(04年)までにイラク問題は片づけたい。攻撃に不向きな砂漠の猛暑を避けるなら03年春までには開戦の必要があった。
イラク戦争への時計の針は「9・11」から回り始めていた。だがその源流は今から12年前にさかのぼる。
●湾岸戦争終結5カ月後
国防次官草案「54日でイラク制圧」
91年2月27日、当時のブッシュ米大統領はイラクヘの勝利を宣言した。湾岸戦争が地上戦に入ってわずか100時間後だった。米国が率いる多国籍軍は、敗走するイラク部隊に猛攻をかけていた。だがバグダッドには進撃しなかった。米政府内では「クーデターや反乱で、フセイン政権は崩壊する」という楽観論と、「イラクが分裂し、もう一つの脅威であるイランの力が強まる」という警戒心が交錯し、「フセイン後」の構想がなかった。だがフセイン政権の息の根を止めなかったことを悔やみ、不満を募らせる人々も政権内にいた。ウォルフォウィッツ国防次官(現副長官)はチェイニー国防長官(現副大統領)の元で冷戦後の国防計画を練っていた。湾岸戦終結の5カ月後に策定を始めた極秘草案が92年3月に明らかになる。
「米国の軍事的優位を維持しライバル出現は許さない。危機の際、場合によっては単独行動する。大量破壊兵器の脅威には先制攻撃も辞さず」
イラクについて「90年代半ばまでに制裁は実効性を失い、イラクは軍事力を再強化して再び中東の脅威になる」と予測した。「米軍が集中攻撃し54日間で制圧」というシナリオも添えられていた。
その年の11月、ブッシュ大統領は再選に失敗。次のクリントン政権は、査察と経済制裁、イラク南北に設定した飛行禁止区域を軸とした「封じ込め」政策をとる。「フセイン討伐」の計画は葬られたように見えた。2000年の大統領選出馬に意欲を示した息子のブッシュ・テキサス州知事の公邸には、99年春ごろから専門家グループが集まっては、「外交音痴」と呼ばれたブッシュ氏に安全保障政策を延々と説いた。ウォルフォウィッツ氏もその中にいた。
クリントン時代、同氏の「予言」通り、イラクヘの経済制裁は有名無実化し、フセイン大統領は権力基盤を囲めていた。「米国に政権打倒の意思はない」とみたフセイン政権は、査察への筋害を強めた。
●02年9月20日
米新戦略「先制攻撃ためらわず」
ウォルフオウィッツ氏らは、国益と共に同盟国との協調を重んじる伝統的な現実主義とは一線を画し、米国の軍事力パワーで米民主主義を広めて一極支配を目指すことから「新保守主義者」と呼ばれる。プッシュ氏に「長年、果たせなかった夢」をかけた。キリスト教右派の影響から「善と悪」の世界観が色濃いブッシュ氏も、「世界の悪魔を退治する」シナリオを抵抗なく受け止めた。ブッシュ新政権も当初は原油密輸出や武器輸入の阻止など、制裁の徹底を目指した。米ブルッキングス研究所は01年末、「戦争になればイラク兵の死者2千〜4万人、米兵死者は400〜4千人」という試算をまとめた。酒井啓子・アジア経済研究所主任研究員によると、当時のブッシュ政権も同種の試算をまとめたという。繁栄を謳歌していた当時の米世論に「これだけの犠牲を受け入れる余地はなかった」と酒井さんは指摘する。
同年9月9日付のロサンゼルス・タイムズ紙でパウエル国務長官は「フセインはいずれ自壊する。追放が可能か、予見はできない」と語った。その2日後、テロリストが乗っ取った旅客機が3千人近い米国民の命を奪った。ニューヨーカー誌は、テロをフセインを追放するための「神のたまものだ」と評した。
ブッシュ政権は02年9月20日、政権発足から練り上げてきた「米国の国家安全保障戦略」を発表した。その文書にはこうある。
「米国は、我々と同等かそれ以上の軍事力を築こうとする潜在的な敵を思いとどまらせる軍事力を持つ」
「必要とあれば単独行動をためらわず、先制攻撃で自国を守る」
その言葉づかいは、91年のウォルフォウィッツ草案に酷似していた。
朝日新聞2003年3月27・28日朝刊