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ニールス・カドリツケ(Niels Kadritzke)
ジャーナリスト、在ベルリン
訳・池田麻美
トルコの与党である公正発展党(AKP)の実権を握るエルドアン党首は、ブッシュ米大統領に対して異例の提案をした。「欧州連合(EU)が我々を受け入れないなら、我々は他の解決策を見つけるだろう。私はアメリカ大統領に、我々をNAFTA(北米自由貿易協定)に迎え入れてくれないかと持ちかけた(1)」。アメリカ、カナダ、メキシコによる自由貿易圏へのトルコの統合という考えに驚いたのはホワイトハウスだけではなかった。エルドアンは、2002年11月3日に行われた総選挙での勝利により、いずれ首相に就任すると目される政治家だ(2)。その彼がトルコのNAFTA加盟を求める発言を行ったのは、EUの拡大を議題とするコペンハーゲン首脳会議のまさに前日だった。これによって彼はトルコ外交の古い原則に立ち戻ることになる。つまり、ヨーロッパとアジアを結ぶこの国は、地理的に東洋と西洋の間に位置するだけでなく、ヨーロッパかアメリカかを選べる立場にあり、ヨーロッパに対してアメリカというカードをちらつかせることもできると考えているのだ。
しかし、トルコがアメリカの仲介によってEU加盟を実現できる見込みは薄い。コペンハーゲン首脳会議を取材した記者たちも、「大西洋の向こうからの圧力は逆効果に働く」と報じている(3)。いずれにせよ、EUは最初から、アメリカが用意した料理の給仕をするつもりはなかった。トルコという客の支払いまで負担しろと言われればなおさらだ。
このようにアメリカが執拗に働きかけたせいもあり、コペンハーゲン首脳会議は加盟交渉開始の時期を定めず、次の段階について、しかも後倒しで決めるだけに終わった。つまり欧州委員会は、2004年末になった時点で、交渉を開始するのに十分な改革が行われれたかどうかを決定するにすぎない。これがエルドアン党首とギュル首相の期待に添うものでなかったことは明白である。彼らはEUが2004年5月までに決断することを望んでいた。なぜなら、もしそれ以降にずれ込んだ場合、EUの加盟国は15カ国から25カ国になり、各国がそれぞれトルコの加盟について拒否権を持つことになるからだ。トルコが懸念するのは、このイスラム国家の加盟申請に対し、古くからの加盟国より新しい加盟国の方がさらに難色を示すのではないかという点だ。
コペンハーゲン首脳会議の直後から、トルコ政府は賢明にも、2004年末までに残された時間を有効に活用すべく、加盟に向けて国内の法律、制度、経済の整備に乗り出した。エルドアンは、この改革がトルコにとってEU加盟のためだけでなく、民主主義の発展のためにも必要であるとする声明を出し、トルコが本気で加盟を目指していることを印象づけた。トルコの対ヨーロッパ政策は、今や決定的な段階にさしかかっている。しかも親ヨーロッパ勢力は、国内にも乗り越えるべき多くの障害を抱えている。
そこには3つの原因がある。第一に、親ヨーロッパ勢力と新政権の前には、ケマル主義を奉じる旧来の強力な指導者層が立ちはだかっている。この指導者層は建国の父たるケマル・アタテュルクのナショナリズムに依拠し、ヨーロッパを選択するような姿勢は明らかにしていない。第二に、EU加盟をめぐる問題群は、キプロス問題と切り離せなくなっている。ケマル主義のエリート層、少なくとも軍部は、この問題を国家安全保障問題とみなしている。第三に、トルコは対イラク戦争に参加することになるだろう。そうなれば、アメリカの「戦略的パートナー」としての軍の役割が強調される。イラク北部に「第二戦線」を築こうとすれば、トルコの協力が必要不可欠であるため、アメリカはトルコの懐柔を図っている。その結果、ケマル主義の軍部エリート内では、ヨーロッパから距離を置こうとする傾向が強まっている。
この錯綜した状況は、政権運営の経験の浅いAKPにとって不安の種である。対イラク戦争は新政権の恐るべき試金石となっている。同党の支持者は他の国民にもまして参戦に反対しているからだ。軍部もまた、参戦に懐疑的な態度を示している。もしイラクが解体されれば、クルド人国家の樹立に直結するおそれがあるからだ。国内のクルド人地域での分離主義勢力の復活を懸念するトルコ政府は、そのような展開は絶対に避けたいと考えている。
とはいえ、クルド人国家が樹立される見込みはないだろう。なぜなら、トルコ軍上層部とアメリカは、イラク領内のクルド人地域、特にモスールとキルクークの油田地帯を米軍が占領すると取り決めているからだ。もっとも、参謀本部は米軍に同行する部隊の派遣を決定したと伝えられる。アメリカが約束を守るかを見届けようというわけだ(4)。
キプロス問題
1月末の国家安全保障評議会(MGK)(5)による参戦の決定を受け、ケマル主義の指導者層はその実現に向けて動き出した。ある解説者は、「軍と外務官僚は任務を果たし、アメリカとの多面的な協力関係の基礎を築いた」という勢力図を描きだし、「これまでの成果を公式のものとする決定を議会から取りつけられるかどうかは政府次第だ」と述べている(6)。こうした状況の下、「イスラム主義」政党と(自称はしないが)呼ばれているAKPが、旧来の権力中枢の論理を執行する役割を負うことになりそうだ(7)。
これにより、ケマル主義のエリート層は、副次的とはいえ狙いどおりの2つの結果を得ることになる。国民に歓迎されない決定により、政府は支持者を失望させるだろう。また、すでに目に見えるようになっていたAKP上層部の亀裂がさらに深まることになるだろう。「大衆迎合主義者」のエルドアン党首と、参戦の意向を早くから表明したギュル首相の役割分担は、競争関係へと変わりかねない。
MGKにとって、参戦は必然的だった。イラク北部に利害関係を持ち、また国際通貨基金(IMF)に依存している以上、トルコにはいかなる選択の余地もない。それに、戦争の経済的影響を補償してくれるのはアメリカだけだ。要するに、二者択一の問題である。地域貿易の混乱で損失を被りながら、なんの補償も受けずにいるのか、それとも「北部戦線」におけるトルコの役割に対する補償を受け、アメリカの「戦略的同盟国」としての地位を固めるのか(8)。
軍の政治権力中枢はAKP政権に対し、この力比べに続けて、キプロス問題という第二の外交問題を突きつけた。AKPが選挙で勝利を収めた直後、アナン国連事務総長は長らく行き詰まっていた交渉に新たな推進力を与えた。彼は2002年11月11日に、ギリシア系キプロスとトルコ系キプロスのEU同時加盟に道を開くものとして、両者の連邦構想に基づく包括的解決策を提案した。
12月のEU首脳会議前の状況で、この提案に基づいた交渉妥結が望めなかったことは事実である。とはいえ、両当事者はこれを議論の基礎として受け入れた。ギリシャ系キプロスは直ちに応じ、「北キプロス・トルコ共和国」を名乗る保護領のデンクタシュ大統領は、トルコ政府の圧力を受けてしぶしぶ応じた。ところがEU首脳会議が終わると、デンクタシュはアナン構想の主要部分を「人道に対する罪」呼ばわりして拒絶した。それを知ったエルドアンは激高し、彼を時代錯誤の政治屋とこき下ろした。コペンハーゲン首脳会議の際に、ギリシャ系の南部キプロスの加盟を認めることが発表されると、北部では何万ものトルコ系住民がデモに飛び出した。彼らは先頭にEUの旗を掲げ、「デンクタシュよ、アナン構想に署名するか、さもなくば辞任しろ」と叫んだ。
地元から見捨てられた北キプロス大統領は、トルコの信頼を失わない限り、辞職はしないと宣言した。そして、デモ参加者は買収されていて、民族の心をヨーロッパに売り渡すつもりなのだと主張した。そこでは2つの点が露呈された。第一に、デンクタシュは地元住民の意見には耳を傾けず、トルコの権力だけに忠実である。第二に、トルコといっても、彼にとって大事なのは政府ではなく、自分を常に支えてくれたケマル主義の軍部エリートである。今回もまた、彼はこの友人たちに訴えて、うまく成果を上げた。MGKは1月末に次の声明を発している。「キプロス問題は、単に同島に住む『トルコの同胞』の問題とみなすにはあまりに重要である。トルコ本土の安全保障にとって非常に本質的な問題であり、これと直接的に結びついたものなのだ」
AKPのエルドアン党首は、キプロス住民の声を真面目に聞くように求めたことで公然と非難された。キプロス問題はトルコのEU加盟に連動させるべきだとする彼の見方は、誤りであり危険であると評された。逆に、北キプロスの国際的な承認を望むデンクタシュは、それについてのMGKの全面的な支持を取りつけた。それは、キプロスが単一の主権国家としてEUに加盟することを想定するアナン構想の明らかな拒絶を意味していた。
ケマル主義の根幹
キプロス島の戦略的な重要性というトルコの固定観念は、キプロス問題が生じた当時から存在する。これがアナン構想への反対の主要な論拠とされたのは、言うまでもなくイラク危機と結びつけられたからだ。ジャーナリストのメフメット・アリ・ビランドは、国連提案に対する軍部の「拒否戦線」について、「対イラク作戦のおかげで優れた切り札を手にし、より優位な立場で交渉を再開できると思い込んでいる」と論評した(9)。さしあたり、国連提案に対するアンカラの反対姿勢は、ギリシャ系キプロスでアナン提案に難色を示すパパドプロス大統領の誕生に寄与する結果となった。だが、国連事務総長は2月下旬、合意は間近との声明を出している(10)。
ビランドの表現を借りるなら「凝り固まった」この勢力は、キプロス問題の解決を封じるだけにとどまらず、2つの政治的攻撃を開始するつもりでいる。1つは、言うことをきかないキプロスのトルコ系住民に対してだ。EU加盟を熱烈に求めることで、彼らが愛国主義者の風上にも置けないことが暴露された。もう1つは、エルドアンに対してだ。彼は大胆にもケマル主義の指導者層に逆らおうとした。トルコの専門家たちは、そこに軍部とAKP党首の権力闘争をみてとっている。エルドアンが勝つことはあり得ないし、参戦問題に関する態度の豹変によって彼の人気は大きく下がることになるはずだ。
トルコとEUの接近に常にブレーキをかけてきた勢力は、このように対イラク戦争によって非常に強化されている。これは何も唐突に起こったことではない。トルコがEUに加盟するためにやり遂げるべき最大の改革で、不利益を被るのは軍部である。EUがトルコの進展状況に関する年次報告で常に強調してきたのも、トルコがいずれは軍事に対する政治の優位を確保すべきだという点である。
トルコ問題の専門家であるハインツ・クラマーは、この問題を次のように要約した。「軍の民主的統制は形式的にしか保証されていない。実際には、軍上層部は独立した決定中枢を形成しており、文民統制にはほど遠い」。これを改革するには参謀本部を国防省に従属させるべきであり、その逆ではない。そうなれば、「政治と安全保障の絡んだ決定における軍上層部の絶対的権力」の問題は克服される(11)。クラマーによると、そのような「文民」改革には、まるまる一世代の歳月が必要とされる。それぐらい、軍に委ねられた守護者としての役割は疑問視されていない。この現実は、トルコのEU加盟にとって最大の障害となるおそれがある。
トルコの「ヨーロッパ化」という考えは、2つの理由から伝統的なケマル主義に反する。第一に、アタテュルクの言う西洋化は、西洋的な意味での「民主化」を指すのではない(12)。第二に、彼のナショナリスティックな主権概念によれば、トルコの主権を部分的にEUに委譲することは禁じられる。このことは、国際刑事裁判所に対するトルコの態度からも推し量ることができる。トルコはその設立条約に調印していない。グローバルな管轄権という考え方は、アメリカの指導者層にとってと同じぐらい、ケマル主義のエリート層にとって疑わしいものにみえている。
このように、ケマル主義を奉じる権力の中核には、アメリカという帝国的大国との思想の一致がみられる。このことは、ヨーロッパの中で、トルコの加盟交渉の開始時期を見直そうとする流れを助長することになりかねない。その危険を避けるためには、トルコの内部で新しい躍動が生まれなければならない。それはケマル主義でも、イスラム主義でもなく、ヨーロッパ主義であるべきだ。イラク戦争が終結してもトルコはアメリカ西海岸のどこかではなく、エーゲ海に面しており、数千万のトルコ人はカリフォルニアのようなNAFTA圏内にではなく、相変わらずヨーロッパに住んでいるのだから。
(1) ロイター電、2002年12月12日付。
(2) 欠格条項により総選挙への出馬を阻まれたエルドアン党首は、新議会による法改正で立候補資格を獲得し、2003年3月の補選で議員となった後、同月11日に首相に指名された。[訳註]
(3) ト・ヴィマ紙, アテネ、2002年12月13日付。インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙、パリ、2002年12月13日、14日付。
(4) ヒュリエト紙、2003年2月4日付。
(5) エリック・ルロー「トルコ共和国における軍の重み」(ル・モンド・ディプロマティーク2000年9月号)参照。
(6) Ilnur Cevik, Turkish Daily News, Ankara, 3 February 2003.
(7) トルコ議会はギュル内閣が提出した戦争協力法案を3月1日に否決したが、エルドアン内閣はイラク北部へのトルコ軍の展開と米軍機の領空通過の承認に関する限定的な法案を提出、3月20日に可決された。[訳註]
(8) Jurgen Gottschlich, Tageszeitung, Berlin, and Turkish Daily News, 30 December 2002.
(9) ターキッシュ・デイリー・ニューズ紙、2003年2月4日付。野党CHP(共和人民党)は大胆にも、対イラク戦争へのトルコの参加と引き替えに、アメリカが北キプロス・トルコ共和国を承認することを要求している。
(10) 当初2月末日に設定されていた両キプロスの回答期限は3月10日に延長されたが、アナン提案への合意は得られなかった。[訳註]
(11) Heinz Kramer, << Die Turkei und die Kopenhagener Kriterien >>(トルコとコペンハーゲン基準), SWP-Studie, Berlin, November 2002.
(12) アタテュルクは次のように述べた。「トルコは民主政にも社会主義にも相応していない。トルコは何ものにも相応しておらず、我々はそれを誇りとすべきである。なぜなら、我々は自分自身にのみ相応しているからだ」
(2003年3月号)
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