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米英は20日、イラク攻撃を開始した。昨年11月、イラクに査察を迫る安保理決議が全会一致で採択され、国際社会が結束して平和解決をめざした。それから4カ月、外交が失敗し、戦争に突入するまでを検証すると、三つの転機の日が見えてくる。
【決別の日】
1月20日、国連安保理で外相級会合が開かれた。議題は「国際テロ対策」だったが、始まってみると、議論はイラク問題に集中した。
パウエル米国務長官は「我々は義務と責任から委縮してはならない」と演説した。しかし、議長国フランスのドビルパン外相は武力行使に慎重な姿勢を打ち出し、ドイツ、ロシア、中国の3理事国もこれに同調した。会合後の記者会見で外相は、「戦争を正当化できるものはない」と米国の武力行使策を厳しく非難した。
パウエル長官は、外相の強い誘いで出席したが、会合後のドビルパン発言をテレビで見て、側近に怒りをぶちまけた。「いったい、これはどういうことだ」
米ワシントン・ポスト紙はこの日の経緯を「外交上の待ち伏せ攻撃」と評した。安保理は自分たちを無視できないという気持ちを米国は捨てる時がきた。米仏が決定的にたもとを分かった瞬間だった。
米仏のめざすものが初めから違っていたわけではない。昨年11月8日、イラクに国連査察の受け入れを迫る安保理決議1441が全会一致で採択された。「安保理の団結」を最優先に、「棄権」と見られていた唯一のアラブ国シリアを説得したのはフランスだった。「外交の勝利」と米仏当局は共に高揚したものだ。
1月20日の外相会合まで、ドビルパン外相は米国の単独行動を牽制(けんせい)してはいたが、直接、米国の政策を非難することは避けていた。そればかりか外相は、「(イラクが査察を拒否した場合は)武力行使は当然だ」(昨年11月12日の発言)と、戦争という選択肢も残していた。目的はイラクの大量破壊兵器の廃棄であり、「最後の手段」としての戦争は容認する立場を再三表明していた。フランスは戦争を政治の一手段と考え、「不戦主義」とは一線を画している。米と仏はなお同じ目標を見据えていた。
だがイラクは予想外に査察に協力的で、国連の査察は98年までとは打って変わった順調な進展を見せていた。1月15日には査察団がフセイン大統領執務室がある宮殿に入った。平和的な武装解除への期待も芽ばえた。欧州では戦争反対の世論も徐々に大きくなりつつあった。
1月20日の外相級会合に臨むドビルパン外相は、米の「武力行使」にクギを刺せば、米政権内で国際協調を重んじる穏健派のパウエル長官への援護となり、米の独走を抑えられると考えた。
一方の長官は安保理協議を「イラクの非協力ぶりをあぶり出し、武力行使に向けて国際社会の結束を固める場」と考えて会合に臨んだ。
戦争は外交の最終手段だと見る仏と、外交を戦争の踏み台と考える米と。両者の「戦争観」の違いが、この日、明らかになった。
【6週間で展開】
イラク周辺に展開する米軍兵力は2月末には20万人近かった。クウェート南部のキャンプ・アリフジャン基地で同月27日、サンプター米陸軍中佐は「湾岸戦争では兵士と武器をそろえるのに半年もかかったけど、今回はたった6週間でこんなに運び込めた」と胸を張った。
この話から、イラク攻撃は前年秋からささやかれていたにもかかわらず、米軍展開が本格化したのは実は国連査察が軌道に乗った12月下旬以降だったことがうかがえる。
査察団がイラク側の協力姿勢を評価した12月19日の報告の5日後には2万5千人。「大量破壊兵器開発の決定的証拠はない」と中間報告した1月9日の直後には6万2千人。大部隊派遣のタイミングは、査察の進展と奇妙な一致を見せる。
2月14日、国連査察団が安保理に追加報告を行い、査察継続を要望した。国際世論が査察継続に大きく振れた日だ。だが、その翌日、ラムズフェルド米国防長官は陸軍の増派を命令。イラク周辺に展開する米軍は16万人に達した。
「この時点で、これほどの大部隊を夏まで駐留させておくという選択肢は非現実的になった」(バイデン前上院外交委員長)のだ。
「イラクに決議を順守させるための軍事圧力」と説明されたが、多くの国々は「査察とは関係なく武力でフセイン政権を倒す」という米国の決意を感じとった。ホルブルック前米国連大使は「兵力展開と外交の歩調が全くかみ合っていなかった。あまりに挑発的で同盟国を警戒させてしまった」とニューヨーク・タイムズ紙に振り返った。
「武力行使の是非については来年1月の最終週に判断」(12月19日付ワシントン・ポスト)
「フセイン政権打倒後、米軍が最低18カ月間は駐留」(1月6日付ニューヨーク・タイムズ)
「攻撃決断を2月下旬から前倒しして2月初中旬に」(1月19日付、ニューヨーク・タイムズ)
米紙は昨年末から、こうした開戦や戦後シナリオを盛んに報じた。米政府高官のリークだった。
フセイン大統領の亡命やイラク軍の反乱を促す脅しと見られるが、対イラク戦を既成事実化して米国民に戦争を受容させる役割も果たした。
デューク大のピーター・フィーバー教授は米紙に「情報リークで、国内の議論は『攻撃すべきか否か』から『どのように攻撃するか』に移った」と語った。
パウエル長官は元職業軍人としての経験から、これだけの大部隊の士気を戦闘なしで維持するのは不可能だと知っている。外交は戦争準備への「時間稼ぎ」の道具になっていた。
【窓が閉ざされた日】
米英スペインが対イラク武力行使容認の修正決議案を出してから、フセイン政権への最後通告で外交の窓が閉ざされた3月17日までの10日間、ブッシュ大統領とパウエル国務長官は積極的な電話外交を繰り広げた。
だが「受話器を置いて、飛行機に乗るべきだった」という米当局者の発言を米紙は掲載している。ひざ詰めで外国の指導者を説得する努力を尽くしたとは言えない。
万策が尽きてから大西洋上のアゾレス諸島で臨んだ英、スペイン両首相との会談は、昨年11月の東欧・ロシア歴訪以来、ブッシュ大統領にとって4カ月ぶりの外国での首脳会談だった。
アフリカの安保理非常任理事国を歴訪したドビルパン外相とは対照的にパウエル長官は米国にこもった。「電話会談の記事が数行新聞に載るのと、訪問の様子がテレビに映るのは大違い」「外国で人気が高いパウエルが直接語りかけたら、国際世論は違っていた」と悔やむ国務省当局者の声が米で報じられている。
90〜91年の湾岸危機でベーカー国務長官は40カ国以上にシャトル外交を繰り広げた。戦略上の要衝トルコにベーカー長官は90年だけで3回訪れ、当時のジョージ・ブッシュ大統領は50回以上もトルコ首脳と電話会談した。今回の危機でブッシュ現大統領がトルコ首脳と意見を交わしたのはたった3回。パウエル長官は結局、一度もトルコに足を踏み入れなかった。
パウエル長官は記者に外遊の少なさを問われ、「私は筆頭の外交アドバイザー。常に大統領の傍らで助言しなければならないからだ」と反論した。パウエル長官は統合参謀本部議長を務めていた湾岸危機で、米国を離れていたために重要政策に加われなかった苦い思い出がある。保守派のチェイニー国防長官(現副大統領)が進めた湾岸への増派計画を訪問先の欧州で知らされた時、「二度と旅行しないぞ」と語ったとされる。それだけに、今回も「強硬派に外交政策を乗っ取られるのを恐れて、ワシントンを留守にできない」と受け止められた。
米は自らの価値観の宣伝には失敗した。一方で戦争を懸念する市民の声はインターネットの普及で瞬時に国境を越えて広まり、世界的な反戦行動を可能にした。自国の反戦機運の高まりにすくんだ安保理中間派の国々の指導者は、たとえ対米支持を打ち出さなくても、国際社会で孤立せずにすむことを悟っていた。 (03/21 08:24)