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〜わたしは、これでも、真実に向かって歩んでいるつもりなのですが。
22739 ・社会統合 ・序文 ・科学論
岡潔の直感
三ヶ本万州夫 ( 壮年 兵庫 講師 ) 02/02/01 PM01
>直感と言われると、何かものすごく感覚的で、不確かなもののように聴こえますが、これを「実現回路」として考えると、「直感には邪念の入りようがない」という言葉は凄くすっきりする言葉であると感じました
将棋と直感的感性といえば数学者、岡潔を思い出します。「私は数学の研究に没入しているときは、自分を意識するということがない。」という言葉も、羽生名人の言っていることと深いところでつながっているようです。棋士の米長邦夫が岡潔を名人戦に招待したときのこと。大山ー中原戦の対局を観戦していた岡氏は、突如、感にうたれたのか,庭へ出るとおもむろに地面に何かを書き始めた。後ろから覗くと、それは数式だったそうです。ジャンルこそ違え、実現回路が共鳴したということでしょうか。
「春宵十話」という著作の中で、岡氏は「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっていると言いたい。・・・木にたとえるとインスピレーション型は花の咲く木で、情操型は大木に似ている。・・・情操が深まれば境地が進む。 」と述べています。「情緒・情操」という語の捉え方は様々でしょうが、下部意識の方が根底的であり、瑞々しい潜在思念で対象を捉えるべきだという議論とかなり重なってくるように思われます。
さらに氏は「コピーは紙とインキで作れるが、オリジナルは生命の燃焼によってしか作れない。灼熱した情熱や高いポテンシャルエナジーがなければどうにもならないのである。」と述べ、当時(1960年代)の日本人が、独創とコピーの区別ができないのみならず、コピーのほうを信用して「私はこう思う」などと公言し、実質よりも形式や観念を大切にする傾向に対し、鋭く警告を発しています。既成観念による全面的閉塞状況を目の当たりにしているかのような発言は他にも多く、氏の先見の明には驚かされます。
「十考えても、そのうち本当のものである可能性は一つくらいしかない。その可能性の中で、さらにまた本当のものは十分の一だ。(中略) 可能性の可能性と言うのは、これは「希望」のことなのだ…」
これもまた、「先端可能性収束」ということを、簡潔に表現しているとは思われませんか?一般には忘れ去られている、この世界的大数学者の言葉に、もう一度耳を傾けてみてもいいと思いました。
http://www.rui.jp/message/02/27/39_7ba3.html