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現代に復活する真の正史『竹内文書』
『竹内文書』とは
『竹内文書』とは、漢字伝来以前の太古の文字である神代の文字によって綴られた、日本の皇統系譜を中心とする歴史書である。
『竹内文書』が世の出たのは明治四十三年、武内宿禰から数えて六十六代目の子孫に当たる竹内巨麿という人物によってであった。彼は竹内家に密かに伝世していた『竹内文書』を公開し、もともと富山にあったと言われる皇祖皇太神宮を茨城県北茨城市磯原に<天津教>として再興し、『竹内文書』に基づく太古以来の祭祀を復活させようとした。
しかし、『竹内文書』はその成立年代があまりにも古すぎること、またそこに書かれていた皇統系譜が『古事記』『日本書紀』のものと大きく異なることや、太古日本を描写した内容があまりにも衝撃的なものだったため、時の権力者から「偽書」という不名誉なレッテルを貼られてしまった。『竹内文書』の原文は動物の皮をなめしたようなものに神代文字で書かれており、その成立年代は不明である。その神代文字で綴られたものがなぜ竹内氏に読めたかというと、彼の先祖にあたる平群真鳥という五世紀後半の人物が、漢字カナ混じりに書き改めていたものが存在していたからである。
一般に平群真鳥とは、武内宿禰の孫の当たる人物で、大和朝廷の大臣にまでなり権勢を振るったが、仁賢天皇の皇太子(後の武烈天皇)と真鳥の子・鮪が影媛という女性を争ったのがもとで、仁賢天皇の死後、武烈天皇の勅命を拝した大伴金村に親子共々殺されたとされる。
だが、これは『日本書紀』の表面が伝える歴史である。本当は真鳥は、雄略天皇(在位四五七〜四七九)の勅命により、皇統系譜を抹殺しようと企むものから隠すとともに、後代の人が読むことができるように、当時輸入された漢字を用いた文章に書き改める特命を担って姿を隠したのだという。
その後、真鳥の子孫は代々皇統系譜を密かに守りながら、紙が傷むとそれを書き写し続けたのである。そしてこの真鳥の子孫が、巨麿の出た竹内家なのである。
5世紀後半と言えば、『古事記』が書かれるよりも二百年以上も前である。神代文字で羊皮紙のようなものに書かれた原典ともなれば、いつの時代のものだか想像もできないほど古いものだったであろう。
しかし、残念ながら竹内巨麿が公開したこれら『竹内文書』の原典を我々はもう見ることができない。それらは太平洋戦争の祭、東京大空襲によって焼失してしまったからだ。そのため、現在我々が『竹内文書』について知るには、戦前に巨麿氏や一部の研究家によって写筆された資料に基づく『神代の万国史』(皇祖皇太神宮刊)と焼け残ったご神宝類に頼るしかない。
太古の地球は天皇を中心とする、地上の楽園だった!
『竹内文書』の記録は宇宙の創成から始まり、地球の誕生、人類の誕生、そして天皇を中心とした世界統治や天皇による天地の祭祀の方法などが、『日本書紀』に洗脳された日本人には信じがたいスケールで展開されている。
その内容は、天皇一代ごとにまとめられているが、全体は大きく四つの時代に分けることができる。
第一期 天神七代 宇宙創成から地球降臨まで
第二期 上古二五代 スメラミコトによる地球統治、超古代文明の黄金期
第三期 ウガヤ不合七三代 スメラミコト統治の揺らぎに伴い、天変地異が頻発
第四期 神倭朝 神武天皇から今上天皇まで
世界中の人類はすべて、他の天体?(天界)から降臨したスメラミコト(=天皇)を源とする兄弟だった。人々はスメラミコトの指導のもと、現代とは比べものにならない、高度な文明社会を営んでいた。誰もが健康で、青春は長く、環境汚染するものなどなにもない。欲しいものはなんでもそのへんの元素からつくり出すことができるので、生きるために働くことも不要であった。また、食べるために他の生物の命を奪う必要もなかった。人間はその生命を謳歌し、スメラミコトの御神力を喜ぶために生きていた。
まさに地上の楽園、世界に戦争や差別というものは存在せず、ひとりひとりが己の役割を全うする平和な社会だったという。
そして、太古の日本はスメラミコトの住まう地ということもあり、文化の中心にして世界の<親国>であった。スメラミコトは<天空浮船>という飛行船に乗り、一代に一度は世界各地を巡幸し、世界の人々の生活を見て回った。
スメラミコトの務めは天地の神を祭ることであり、実際の政治はスメラミコトによって任命された民王が行う。
つまり、スメラミコト中心の世界といっても、それは明治の頃に考えられていたような天皇による親政ということではない。もっと壮大かつ慈愛に満ちた世界だったのだ。
地球に降臨した当初、天皇は自らの皇子皇女十六人を世界各地に派遣し、統治させていた。その皇子皇女の子孫は、白・黒・赤・青・黄という肌の色にちなんで<五色人>と呼ばれた。これが現代に繋がる人種ごとの肌の色の違いのもとになっているのである。
竹内巨麿が再興した皇祖皇太神宮というのは、その名が示す通り皇祖と皇祖直系の先祖を祀るための宮で、皇祖傍系である人類(=五色人)の先祖を奉祭するためには別祖大神宮が設けられ、世界中の人々は死んだ後は必ずこの別祖大神宮に祀られることが定められていたという。
墜ちていった楽園の悲しみ
さまざまな智慧が天皇の詔によって各地に伝えられ、人類はエコロジカルな文明のもとで信じられないほどの長寿を誇っていた。上古の時代では在位年数が億万年を数えた天皇の記録もある。『竹内文書』における天皇の在位年数記録の合計が地球生成史より永いのに疑問を持つ方もおられるかもしれないが、スメラミコトは他の天体(天界)から降誕されたのだし、そもそも宇宙の創成の瞬間から続く存在なのだから、これは当然のことなのである。
しかし、この長寿も上古から不合と時代が経つに従いどんどん短くなり、神倭朝になると、初代の神武天皇でも二百年にも満たないほど短くなってしまう。現代人にとっては、二百歳というのは驚異的な長寿だが、超古代の歴代天皇と比べるとカゲロウのようなはかなさといえるだろう。
では、なぜこうした寿命の短縮が起こったのだろうか。最大の原因は度重なる天変地異による環境の変化と考えられる。『竹内文書』には「万国土の海となる」と表現されるような地球規模の天変地異が何度もあったことが記録されているからだ。
天変地異の起こる間隔は段々短くなり、不合六七代天皇の御代の記録には、ムー、アトランティスという名で今に伝えられているミヨイ、タミアラの二大陸が太平洋に没したという記録も登場する。
そして超古代文化の中心地であった日本もついには天変地異に見舞われてしまう。古代日本に超古代の高度な文明の痕跡が残っていないのはこのためである。
なぜそんな事態になってしまったのか。それは天皇の失墜を願う陰の組織の、魔術力と陰湿なほどに粘り強く進められた陰謀によって、正しい祭祀のあり方が少しずつ変化してしまい、宇宙エネルギーの調和が乱されたためなのである。
なぜ真の皇統系譜=『竹内文書』は隠されたのか
神武天皇が御代の記録には、天皇が天空浮船に乗って世界巡幸を行ったとあるので、かろうじて当時まで残っていた超古代文明の利器もあったと考えられる。しかし、新たなものを作る技術は、そのときすでに失われてしまっていたのだろう。例えば、現代でも自動車があれば運転することはできる。だが、そのことと何もないところから自動車を作る技術とは、まったく別の問題であるようなものである。つまり、超古代文明の利器が残っていたとしても、それはあくまでも先の文明の遺産にすぎず、もはや自由に活用できる文化ではなくなっていたのである。
そこで日本復興策として行われたのが、文化の逆輸入であった。もとをただせばすべて日本から出たものなのだが、それが本国で失われてしまった以上、諸外国に頼るしかなかった。そのとき日本が最も頼りにしたのが、隣国の朝鮮と中国であった。古代日本の文化が、まるで中国から朝鮮を通ってもたらされたもののように見えるのはこのためである。