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種脱相対について
愚鈍凡夫
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種脱相対の語彙
まず、蓮祖の遺文とされるものの中で脱益という語彙は44ヶ所存在するが(資料:「創価学会版日蓮大聖人御書全集」)、その内訳は、「御義口伝下」2ヶ所、「百六箇抄」40ヶ所、「本因妙抄」2ヶ所である。しかし、これらはいずれも偽書である。
石山教学では、脱益仏(本果妙の教主釈尊)とは法華本門寿量品の教主釈尊を指し、本已有善の衆生に成道の法を授ける仏で、末法の本未有善の衆生には無縁の仏とする。そして、末法の世では脱益仏に供養しても功徳はないとするのである。
それに対し、本門寿量品の文底に独一本門を建て、この寿量文底独一本門の教主釈尊(下種仏・本因妙の教主釈尊)だけが、唯一末法の衆生を救済できるとする。
しかし、蓮祖の真蹟遺文に脱益、若しくは脱益仏の語彙はない。
これは、種脱相対の考え方自体が日蓮仏法にはないということではないか。飽くまでも、本迹相対が蓮祖の考えで、その点、天台仏法を継承しているのではないだろうか。
「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」(「観心本尊抄」)
ここに「種」と「脱」の語彙が存在するが、これは、末法の衆生の初発心の機根と釈迦牟尼在世の衆生の仏道修行に於ける最終段階の機根が共に円機であるとの意味である。更に言えば、本已有善の衆生は一品二半(従地涌出品後半部、如来寿量品長行、分別功徳品前半部)の信解によって成道するが、本未有善の衆生は法華経の題目の信受によって成道するということである。従って、この文証は種熟脱の三益の上から衆生の機根を述べ、それぞれに応じた成道の法を示したものである。決して種脱相対の意味ではないのだ。
時機相応の修行ならば、行法は違っても共に成道するとの意味である。
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種脱相対を破す
妙法蓮華經化城喩品第七に曰く、
「一一の沙弥等の度する所の諸の衆生、六百万億恒河沙等の衆有り、彼の仏の滅度の後、是の諸の聞法の者、在在諸仏の土に、常に師と倶に生ぜん」
とあるとおり、結縁を結んだ仏と衆生は有縁の国土に様々な境涯をもって常に倶に生まれるのである。
分かりやすく言えば、それぞれの国土の衆生はそれぞれ有縁の仏がいるということであり、その仏の化導によって成道するということである。
一世界に一仏、これが仏法の鉄則なのだ。たとえ同じ国土で成道した菩薩たちも、衆生を化導する国土はそれぞれ別々なのである。
「阿難、一世中に二如来有らんは終に是のことわり無し。一世中に一如来有らんは必ず是のことわり有り」(「中阿含心品多界經第十第四分別誦」)
なのである。更に倶舎論には
「一界の中に唯一の如来のみ有れば、便ち深く敬重せしめうればなり」(「阿毘達磨倶舍論卷第十二分別世品第三之一」)
とある。
日蓮正宗が唱える久遠元初は、法華経とは相容れない発想である。再度述べるが、一世界二仏ではなく一世界一仏が仏法の鉄則なのである。故に、娑婆世界有縁の仏は釈迦牟尼仏一人なのである。
「ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる、親も親にこそよれ釈尊ほどの親師も師にこそよれ主も主にこそよれ釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ」(「南条兵衛七郎殿御書」)
との通りである。
「阿逸多、是の諸の大菩薩摩訶薩の無量無数阿僧祇にして地より涌出せる、汝等昔より未だ見ざる所の者は、我是の娑婆世界に於て阿耨多羅三藐三菩提を得已って、是の諸の菩薩を教化示導し、其の心を調伏して道の意を発さしめたり」(「妙法蓮華經従地涌出品第十五」)
このように久遠実成の証明者として大地より涌出してきたおびただしい数の菩薩たちは、全て釈迦牟尼仏の弟子なのである。上行菩薩も例外ではない。
そもそも「久遠元初」の発想は、中古天台(天台密教)の発想であり、この中古天台の本覚論を取り込んで完成したのが日蓮本仏論である。
一念三千即自受用報身如来とは、中古天台の骨格を成す理論なのである。
一帖抄に曰く
「一念三千即ち自受用身。自受用身とは出尊形佛の文を以って、此の道理を以って報身の正意と為すと習う也。」
上古天台に密教の本覚思想を取り入れた中古天台は、蓮祖によって破折されている。
「日蓮は真言禅宗浄土等の元祖を三虫となづく、又天台宗の慈覚安然慧心等は法華経伝教大師の師子の身の中の三虫なり」(「撰時抄」)
このように破折された理論を取り入れることは、明らかに宗祖不敬である。
石山が口伝書、相伝書といっているものは所詮、他山からの流用に過ぎない。
参考までに富士宗学要集一巻の記述をここに列挙すると、
本因妙抄 日時師(疑義あり)、日辰師(要山)、日我師(保田)
百六箇抄 日辰師(要山)、日我師(保田)
産湯相承事 日山師(保田)
御本尊七箇相承 日山師(保田)
本尊三度相伝 日源師(石山蔵)
寿量文底大事 日山師(保田)
ご覧のように、本尊三度相伝以外は他山のものである。石山に伝えられてきたものではない。偽書を掻き集めたり、創作したりして日蓮本仏論の依文としているのだ。
南無妙法蓮華経即事の一念三千、事の一念三千即自受用報身如来、自受用報身如来即日蓮大聖人、日蓮大聖人即戒壇之本尊などと、まるでこじつけの連想ゲームのようである。
故意に混乱させるようにしているのだろうか。この連想ゲームの行き着く先は、正宗の場合は法主本仏論であり、創価の場合は池田本仏論、凡夫本仏論である。
蓮祖を久遠元初の自受用報身如来と持ち上げておいて、自分たちもちゃっかり便乗しているようなものである。
以上のことから、種脱相対はあり得ないのである。