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週刊現代ONLINE
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【衝撃スクープ】なぜ、中国政府は真相を隠すのか
【4月6日死亡】ILO局長の家族が怒りの告白
「息子はSARSで死にました」
インタビュー 小池政行(日本赤十字看護大教授)
中国・広東省から瞬く間に世界へ広がった新型肺炎SARS。当初、中国政府は外聞を恐れて患者を隠した。しかし北京で、国際機関の要職にあったフィンランド人ペッカ・アロー氏がSARSによって死亡したことがきっかけで、中国政府の欺瞞は明らかになった。母親が明かすアロー氏の無念の「SARS死」。
辛すぎる「最後の言葉」
「不思議ですね……」
4月6日にSARS(重症急性呼吸器症候群)のため北京で亡くなったILO(国際労働機関)技能開発局長、ペッカ・アロー氏の母親、ピルコ・アローさんは私にそう語り始めました。
「ペッカの声を最後に聞いたのは、私の80歳の誕生日、3月28日でした。ペッカは北京からヘルシンキに電話をかけてきたの。そのときはとても元気な声で、私に『おめでとう』と言ってくれたわ。
それから彼がSARSに感染したと分かったのが4月2日、そして5日(北京時間6日未明)に亡くなってしまった。本当にあっという間でした。電話をくれた時の、『アイティ(お母さん)、オンネア(おめでとう)』という言葉が、私が聞いた息子の最後の言葉なのです。
いつまでも、いつまでも、『オンネア』という言葉が、息子の最後の言葉として私の心の中に残ってゆく……。この気持ちは誰にもわからないわね」
こう語るピルコさんの机の上には、数多くの弔電が積み重なっていました。
ピルコ・アローさんの自宅をたずね、インタビューを行ったのは、フィンランド大使館勤務の外交官であった小池政行・日本赤十字看護大学教授である。ピルコさんは、息子の死以来、殺到した取材を断り続けていた。しかし、小池教授が、かつてフィンランド中央労働組合SAK国際部で活躍していたペッカ局長の知己であったことから、インタビューが実現することとなった。
4月19日の夕刻、フィンランドの首都ヘルシンキの、目の前に海を見渡すマンションで、アロー氏の母親、ピルコさんに会うことができました。
ピルコさんは、アジア系ウラル・アルタイ民族のフィンランド人によくいるように、小柄で、まるで日本人の年老いた母親のような面影を持つ人でした。ただし、ピルコさんは、単なる年老いた婦人ではありません。彼女は社会民主党の国会議員として、経済発展と高度福祉社会の実現のために長く政界で活躍してきた人です。
母親としての怒りや、無念さをあからさまに言葉にしないピルコさんの悲しみの深さ、複雑さ。むしろそのことのほうが私には悲痛に思えました。
「ペッカは、ヘルシンキで1950年6月29日に生まれました。エネルギーに溢れて、人間が好きで好きでたまらないという子だった。そういうところは彼の父親の血を受け継いでいます。
まだ交換留学制度が珍しかった'60年代に、彼は自ら応募して米国に渡りました。国際的な仕事をしたいと一生懸命でしたからね。
ヘルシンキ大学法学部を卒業後、法律家として職を得、'84年には製紙化学産業組合の国際団体ICEFの副書記長になりました。
このとき、インド・ボパールの化学工場による大規模な汚染事件があって、何千人もの死者を出しました。あの子は危険を顧みずに、長く現地に滞在し、真相究明と対策に奔走しました。後に“僕は地獄というものを見たよ”と言っていたものです。
'92年に、ペッカはハンガリーの首都ブダペストのILO駐在代表になり、'98年からは、現職である技能開発部門を担当する局長になりました。
彼は、インドでは大規模な化学汚染の被害にあった人々を救い、東欧では労働者に市場経済で生きる道を教育してきました。そして、最後の場所となった北京へは、工業化の進む国々の雇用問題を検討するフォーラムを開催するために訪れました。彼は最期まで世界中の労働者のために働き続けたのです」
隣の席の乗客から感染した
ペッカ局長は4月1日に精密検査のため、北京の病院に入院しましたが、その前の3月28日の時点で40度を超える高熱を発していました。4月3日に北京のフィンランド大使館の職員が2分間だけペッカ氏と電話で話をしましたが、一言『とても具合が悪い』と、力尽きた様子で語ったということです。
「ジュネーブで留守を守っていたペッカの妻のミリアには、彼が病院に入院してから毎日、北京にいたILOの人から連絡があったそうです。ミリアの話では、28日に体調不良を訴えた時に、すでにペッカは、
『これはSARSだ』
と言っていました。そして、
『僕は北京に来るバンコクからのフライトで感染したのではないだろうか。自分の隣に座っていた人の体調は、尋常でなかったんだ』
とも言っていたそうです。
ペッカが自ら疑っていたとおりでした。3月23日11時5分のバンコク発北京行きのタイ国際航空614便が、ペッカが乗ったフライトでした。彼の席は窓側の12A。その隣の通路側12Bに座ったのは40歳代の中国人ビジネスマンだったそうです。この人がSARSに感染していたのです」
彼の感染の経緯については、フィンランドの代表紙『ヘルシンキ・サノマット』の取材で、より詳しい事情が判明しています。
私は記事を書いた記者に話を聞きました。ペッカ局長にSARSを伝染うつした中国人ビジネスマンは、現在は危機を脱して回復に向かっているそうです。さらに、この中国人ビジネスマンにSARSを感染させたのは、3月15日に香港から北京に飛んだ中国国際航空112便に乗り合わせ、彼の隣に座った72歳の中国人だということも取材で明らかになっています。
WHO(世界保健機関)北京事務所代表アラン・シュヌーア氏は、この中国国際航空112便が一つの大きな感染源だったのではないか、と疑っています。
移送便の離陸35分前に死亡
母親のピルコさんは、こう語りました。
「ミリアはペッカの妻であると共に優秀な職業病専門医でもあるのです。ミリアは職場環境や汚染からくる疾患、職場内の感染症対策などについて広範な知識を有する専門医ですから、様々な状況を聞き取って、夫の言葉が真実かどうか判断したと思います。
ですから私も、ミリアがペッカの様子や病状、そして感染源について話してくれた言葉を聞いたときに、ペッカが感染したのは、フライトで隣り合わせた中国人ビジネスマンからだと確信しました。
北京に赴く前に滞在したバンコクで、ペッカがどのような人々に会ったか、それは分かっていません。でも彼はバンコクで、タイの政府関係者などとの公式行事をこなしていたはずです。あの子があえて体調が悪い人のもとを訪れる必然性は何もありませんでした」
実はペッカ局長を緊急にヘルシンキに移送する計画もありました。移送のための特別機を送る計画をILOは立てていたのです。中国時間の6日午前2時に、この特別機はウィーンから離陸する予定でした。しかし離陸予定時間のわずか35分前、彼が午前1時25分に亡くなったことにより、すべてが手遅れとなってしまいました。
「ペッカは、中国がぜひにと北京に呼んだ人物でした。中国がどうしても開催したいと考えていた『雇用問題国際フォーラム』の準備のために、彼は北京に行かなければならなかったのですからね。中国政府は、ペッカがSARSを持ち込んだやっかい者だとは思っていないはずです。でもこの点は、きちんと確かめているわけではありません。
ペッカが入院して、亡くなるまでは本当にあっという間で、妻のミリアさえもペッカの話を十分には聞けなかったから……。
中国政府は、ペッカの感染について、どのように調査し、対応していたのか。その是非については、 私はコメントする立場にありません。私は中国政府や息子の所属していたILOから直接の連絡を受けていませんからね。
そのことをコメントできるのはジュネーブのILO本部で、中国側の対応については、ILOに聞くべき質問なのではありませんか。
私がお話しすることができるのは、彼から最後に聞いた言葉だけです。そして、おそらく才知、気力ともいまが最高の状態だった息子を突然失った私の悲しみ、驚きを察してください」
ピルコさんは、自分は中国政府の対応について言うべき立場でないということを何度も強調しました。
しかし、フィンランドの国営航空フィンエアーは、皮肉にも、近くヘルシンキ‐上海路線を開設することになっており、同国の携帯電話会社のノキアは、中国をアジア最大の市場としています。
元国会議員として、率直な気持ちを吐露することで、こうした国家的企業の先行きに悪影響を与えたくないという自制心が働いているのは明らかでした。
隣に座った中国人ビジネスマンがSARSであったことや、その人物の追跡調査が明らかになったのもペッカ氏の死亡の後でした。
中国政府の閉鎖的な対応
「いま、ミリアはILO本部があるジュネーブ近くの仏領内に住んでいます。残されたミリアにはペッカとの間に3人の子供がいますが、二人はもう大学生だし、もう一人も英国ウェールズにあるアトランティックカレッジにいますから、彼女はひとりぼっちになってしまいました。
ミリアは一人で住むのはつらいと言って、この復活祭が済んだらヘルシンキに戻って住むことを考えているの。でも私たちは一緒には住まないと思います。フィンランドでは、老人は連れ合いが亡くなれば一人で住むか、ホームに入るのが普通ですからね。ミリアはフィンランドで職業病専門医としてまた働くことになると思います」
別れ際にピルコさんは、もう一度言った。
「まだ2週間にしかならないのよ。なにを見ても、ペッカはそのときどうしたとか、ペッカはこんなことを言ったとか、あぁこれはペッカがくれたものだったとか、あらゆることが彼の思い出に繋がってしまうのです」
いとまをつげて、私は玄関に向かいました。ドアをくぐり、もう一度ふりかえると、ピルコさんは静かにうなだれて、放心したように視線を床に落としていました。そのあまりに侘しい姿を、私は一生忘れないでしょう。
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4月20日、中国政府は北京市でのSARS発症患者の数を40人から346人へと修正発表した。
なんといままでの8倍強、さらに疑似患者402人を含めるとじつに20倍の患者数となる。日本の厚生労働省にあたる中国衛生省の朱慶生次官は、記者会見で、
「患者が70ヵ所近い病院に散在しているうえ、連絡の不備があり、人民軍病院の患者数が含まれていなかった」
などと語った。
しかし、これが言い逃れであることは明らかだ。この会見で、朱次官は上司である張文康衛生相と孟学農北京市長が責任を問われて更迭されたことも発表した。
前出のWHOのシュヌーア氏は、こう語る。
「ペッカ・アロー局長の感染経路について調査が直ちに行われなかったこと、また行われてもすべてが直ちに関係当局に知らされなかったという中国政府の閉鎖的な体制が、今回の深刻な状況をもたらしたのだ」
4月22日現在、SARSの感染者は全世界で4092人、中国では2158人と2000人の大台を突破した。中国政府が都合の悪い情報を隠蔽しようとしたことで、いかに多くの人間が落とさなくてもよい命を落としたことだろう。