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江戸幕府とブルボン王朝
教養大学講義録 第117号
徳川綱吉(1646-1709)とルイ14世(1638-1715)は、ほぼ同時代の人物である。ルイ14世が即位したのは1643年で、綱吉が将軍職に就いた1680年よりかなり早いが、ルイ14世も親政を始めたのは、1661年からである。この二人に共通していることは、規律を失った財政支出の拡大により先代で築き上げられた政権の経済的基盤を危うくしたことである。
ルイ14世がいかに奢侈であったかは、いまさら説明するまでもない。ベルサイユ宮殿の建設(1682年完成)と連日連夜の社交会、スペイン継承戦争(1701-1713年)に代表される一連の戦争事業などにより、ブルボン王朝は、ルイ14世が死去した頃には、歳入1.45億リーブルに対して、国債残高30億リーブルという巨額の債務を抱え込むことになる。
他方、綱吉も、広大な神社造営、臣下へのばらまき、様々な催し物など、戦争こそしなかったものの、金に糸目をつけぬ消費活動により、幕府の財政を大幅な赤字にした。綱吉と言えば、生類憐れみの令で有名だが、綱吉は特に犬を大切にし、飼い犬をけがさせた者を罰したため、飼い犬を捨てる者が続出した。そこで幕府は、各地に犬小屋をつくって10万頭を養うはめになる。犬小屋の工事費用だけで20万両を使い、さらに「お犬様」の養育費として1匹あたり奉公人の給料に匹敵する額を支出した。こうしたばかばかしい浪費のおかげで、1708年(綱吉が死去する前年)には、幕府の歳出が、歳入60-70万両に対して、倍以上の140万両となり、財政は破綻寸前となった。
いずれの場合でも、巨額の財政支出がハイパーインフレをもたらした。江戸幕府もブルボン王朝も、破産寸前になり、それが遠因となってブルボン王朝は1789年のフランス革命で滅亡する。しかし江戸幕府は1868年まで存続した。何が両者の明暗を分けたのか。なぜ、日本では、フランスのような市民革命が起きなかったのか。フランスほどブルジョア階級が成長していなかったからなのか。あるいは、日本人はお上意識が強くて、権力に従順だったからなのか。
日本はフランスほどブルジョア階級が成長していなかったからという説明は、江戸時代の日本が農村社会だったという偏見に基づいている。当時の日本は、大坂・江戸を中心に、フランスと比べても遜色のない商業経済が発達しており、革命の担い手としてのブルジョア階級が不在であったわけではない。
日本人はお上意識が強くて、権力に従順だったから、自らの手で革命を起こすことはしなかったという民族気質に基づく説明はいかがなものだろうか。今でもフランスでは、国家官僚は日本の官僚以上に権力を持っており、ENAへの信仰は、日本人が抱く東大法学部への信仰以上である。そもそも江戸時代の被支配者階級は決して権力に従順ではなかった。幕府の経済運営がうまくいかなくなると、打ちこわしや一揆が各地で起きた。もし幕府の経済政策がきわめて不適切なものでありつづけるならば、そうした民衆の反抗が大きくなって、革命となったかもしれないのである。
この点に注意して、以下、財政危機に対するブルボン王朝と江戸幕府の対応の違いを見ていくことにしよう。
1715年にルイ14世が死去した後、ルイ15世が5歳でフランス国王に即位した。財政再建の任にあたったのは、摂政オルレアン公フィリップ2世であった。彼は、知り合いのスコットランド出身のギャンブラー、ジョン・ローが提案した、それこそギャンブル的な案に乗った。ジョン・ローは、1716年に600万リーブルの資本金で銀行を設立することを許可され、金と兌換できる銀行券を発行し、それで集めた金で、価格が下落していたフランス国債を買い始めた。国債残高は膨大であるから、国債をもっと回収するためには、さらに新たな資本を作って、銀行券を追加発行しなければいけない。そこで彼は、ミシシッピー会社を立ち上げ、金鉱開発など、当時フランスの植民地であったルイジアナ(ミシシッピー川流域)で有望な事業を行うと発表し、会社の株価を吊り上げた。1718年には、彼の銀行は国立銀行(バンク・ロワヤール)となり、1719年には、ミシシッピーの特許事業を拡張し、1720年の1月には、彼の会社の株価は当初の36倍にまで跳ね上がった。国債残高は半減し、金利は低下し、インフレは沈静化した。しかしその代わり資産価格の異常な高騰、すなわちバブルが発生したのである。
バブルは、いつかははじける。ミシシッピーでの金鉱開発事業がでたらめであることが暴露され、株価は暴落した。人々は銀行券を金に変えようとバンク・ロワヤールに殺到したため、バンク・ロワヤールは支払い不能に陥ってしまった。1720年の12月には、ジョン・ローはブリュッセルに亡命し、フランス経済は深刻な恐慌に陥ってしまった。このデフレから脱却するためにブルボン王朝がとった手段は公共事業としての戦争だった。ポーランド王位継承戦争(1733-35)、オーストリア王位継承戦争(1740-48)、七年戦争(1756-63)といった積極財政は、確かにリフレ効果はあったものの、財政逼迫というもとの問題を再燃させ、1789年の破局に向かっていく。
では、江戸幕府は、綱吉の死後、どのようにインフレと財政再建の問題に立ち向かったのか。1709年に綱吉が死去したあと、家宣(1709〜1712)、家継(1713〜1716)の二代にわたって、実際に政治を担当したのは新井白石だった。新井白石は、倹約によって支出を切り詰め、インフレの原因となった貨幣改悪(元禄・宝永の改鋳)を始めた勘定奉行荻原重秀を罷免し、金銀の比率を、幕府創設当初の慶長小判の水準に戻した(正徳・享保の改鋳)。元禄・宝永の改鋳では、金銀貨の流通総量が年平均で約5%増加したが、正徳・享保の改鋳では、逆に約2%減少した。要するに、緊縮財政と金融引き締めにより、インフレを抑制したわけである。
1716年に家継が死去すると、吉宗がいわゆる享保の改革を始める。享保の改革の前半は、新井白石のディスインフレ政策の継続だった。しかし、やがて物価、特に幕府の重要な財源であった米の価格が下落し始め、デフレの弊害が出てきたので、1736年には、改鋳によるリフレ政策が採られることになった(元文の改鋳)。元禄・宝永の貨幣改悪が、改鋳差益の獲得による財政支出の増大を動機としていたため、悪性インフレ(経済を停滞させるインフレ)を惹き起こしたのに対して、元文の改鋳は、改鋳差益の収得を犠牲にして、貨幣流通量の増大だけを目指したため、良性のインフレ(経済成長を伴うインフレ)をもたらした。この改鋳は、江戸時代でも最も成功した改鋳で、景気回復により、1758年には、江戸幕府の財政は最高の黒字額を記録した。
ブルボン王朝は、積極財政(戦争)により、デフレから脱却しようとして財政規律を失い破滅した。一方江戸幕府は、金融緩和により、戦争をすることなく、そして財政再建をも同時に行いながら、デフレからの脱却に成功し、200年以上もの太平の世を実現した。デフレからの脱出と財政再建という二つの重い課題を背負っている今の小泉内閣にも、江戸幕府の知恵を参考にしてもらいたいものだ。
http://www.nagaitosiya.com/lecture/0118.htm