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『森田実氏:2003.4.1 「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[1]』
( http://www.asyura.com/0304/hasan25/msg/182.html )に続くものです。
『森田実氏:2003.4.3 「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[3] 』
( http://www.asyura.com/0304/hasan25/msg/244.html )
『森田実氏:2003.4.5 「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[5]』
( http://www.asyura.com/0304/hasan25/msg/300.html )
『森田実氏:2003.4.7 「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[7] 』
( http://www.asyura.com/0304/hasan25/msg/327.html )
『森田実氏:2003.4.9 「日本再生の道」研究――『老子』を知れば道は開ける[9] 』
( http://www.asyura.com/0304/hasan25/msg/379.html )
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やたらに法律ばかりつくっていては社会はダメになる
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「すべて形あるものが役立つのは、形無きものがそれを支える役割を果たしているからだ」(老子)[福永光司訳『中国古典選10/老子』、朝日新聞社刊、より引用]
「『無』のはたらきがあるからこそ、『有』が役立つ」(『中国の思想Y/老子』、徳間書店刊)、「『有』が人に与える便利さは、まったく『無』が決定的働きをするからだ」(『老子訳注』、東方書店刊)という言い方もある。
老子は「無」の方を決定的なものと見る。
福永訳『老子』が例に挙げているのは、車の空洞、陶器のなかの空間、住宅の空間の三つの「空」である。室町時代の能芸の巨匠・世阿弥は「するわざ」に対する「せぬひま」が面白いと言った(福永訳『老子』)。
老子はここで哲学的意味を論じているのだが、「無」と「有」の関係は、人間の行為についても言い得ることである。福永訳『老子』には次の明の董其昌(とうきしょう)の絵画論が引用されている――「山水を画くには虚実を明らめなければならぬ」
芸術の面だけでなく、人間の社会的活動にも同様のことが言えると思う。国民と政治の関係は、単に形あるものだけの関係ではない。形ある関係以上に形なき関係の方が大切だと言って過言ではない。国民と指導者の間の空間にこそ意味がある。この空間を埋めるのが指導者の崇高な徳である。指導者に徳がなければ、国民と政治との関係は廃れる。
米国で教育を受けた最近の若い政治家は、老子的な「無」の世界が理解できないだけでなく、関心すらない。若い政治家は、国民と政府との間の「空」を理解できないため、やたらに法律をつくりたがる。何か事が起こると、すぐに「法律をつくろう」である。その結果、法律は次々につくられるが、しかし、それは社会を自縄自縛の状況に追い込むだけである。社会がよくなることはない。不自由のみが拡大し、社会からおおらかさが失われる。
サミュエル・ジョンソン(英国の詩人・批評家、1709〜84)は言う――「腐敗した社会には多くの法律がある」。腐敗した社会では法律ばかりつくられる。しかし、それによって社会がよくなることはない。社会の活力は低下し、住みにくさと不自由が拡大再生産される。大切なのは強制よりもおおらかさである。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C0547.HTML