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小室直樹著「国民のための経済原論II アメリカ併合編」を書評する。(5)
(承前)。
2・3「プラザ合意」についての続き@
8、竹下登は、実は、既にこの時点で、日本の最高権力者(「国王」)であったのだ、と副島隆彦は言う。
以下、副島隆彦著「テロ戦争と日本の行方」から長い引用を行う。
副島隆彦です。今日は、2000年10月26日です。
(略)
全ての謎は、日本国王(王権簒奪者)竹下登が、この6月19日に死去した時に氷解した。
竹下登が、田中角栄を「王殺し」(regicide)にかけたのは、今から16年前の1985年2月7日である。この日が、竹下登の「創政会」旗揚げの日である。「創政会」は後に「経世会」に名を変える。竹下登は、この日、角栄から、日本の王権を奪い取った。だから角栄は、この日から20日後の2月27日に、脳梗塞(脳出血)で倒れて、二度と権力者の座に返り咲く事はなかった。この日から、角栄王朝が倒れて竹下王朝がはじまる。竹下王国とも呼ぶべきか。
そしてそれが、今年2000年の6月19日の竹下の死去と共に終わったということである。(略)
(略)
なぜ私が、すべての話をここに結実させるか、というと、それは、極めて簡単な一つの重要な事実を証拠とする。
竹下登が島根の実家で死んだその夜、通夜の席に、何処からともなく、二人のアメリカ人が現れた。
それは、ブッシュ政権(1989年から1992年まで)で国務長官を務めたジム・ベイカーと、それからジョージ・ブッシュ元大統領そのひとだった。この二人の大男が、夜の闇の中から忽然とお通夜の席にヌーっと現れて、竹下にコンドーレンス(弔辞)を述べた。私は、このとき、一気にたくさんのことが分かった。
(略)
私の頭の中でそれまで整理しきれなっかった多くのことが、このときひとつに結ばれた。謎は大きく解けたのである。この謎解きの話は、そのまま、角栄発病と同じ年(1985年)の7ヶ月後の9月22日の「プラザ合意」につながる。なぜあの時、日本は、あれほどの円高を、一気に呑んだのか。その謎が同時に解けた。
あのニューヨークのプラザ・ホテルでのG5(あの時はまだ、米、英、仏、伊、日の5ヶ国の中央総裁・蔵相会議だった)で、「ドイツのマルクと日本の円については、為替の変動を放置する。各国政府は介入しない」という秘密合意(当時)が成立したのかが、分かった。
あの時の首相は、第二次中曽根内閣の中曽根康弘であった。そして、そのときの大蔵大臣が、竹下登である。だから彼らが、プラザ合意の当事者である。日本の円は、あのとき、1ドル260円だったのが、130円にまで急騰した。日本の円は、2倍に跳ね上がったのだ。
このとき、日本国民が、@預貯金と、A債券と、それからB生命保険の掛け金の積み立て、として預けていたお金で米国債に投資されていた資金が、大きな打撃を受けた。なぜなら、これらの日本国民の「虎の子」の資金は、いわゆる「機関投資家」と呼ばれる大銀行・証券・生保によって、預り金の20%を限度にして米国債に投資されていたからである。
このとき日本国民の資金(金融資産)がどれくらい減少したのか、正確な数字は誰も把握していない。日本政府(政治家のトップたちと大蔵省)は知っていただろう。しかし、どれほどの為替差損を出したか、どの新聞にも発表されなかった。あそらく、20兆円ぐらいがあのとき、消えてなくなったはずだ。いやアメリカに献上されたのだ。
中曽根と竹下は、このとき連携している。元々、仲のよい二人ではない。中曽根と竹下は、田中角栄殺しを、アメリカの後押しを受けて、実行に移したのである。
だから、その2年後の1987年10月20日に、5年続いた中曽根の政権は、中曽根の裁量で、竹下登に移った。しかし、日本国の最高実力者(国王)の地位は、角栄が倒れた1985年2月27日から竹下が握っていた。 中曽根康弘はアメリカの忠実な手下というだけのことであって、表面だけの最高実力者である。
(略)
その国で一番大きな権力を持つ者のところへ、金も集まるようになっている。これは、一国の政治なるものの本質であって、絶対に変わらない真理のひとつである。だから、逆から言えば、その国で一番資金が集まる者が、その国の最高権力者である。だから、2000年6月までのこの15年間は、竹下登が日本国王だったのだ。
(略) 1985年のプラザ合意のとき、日本政府は(中曽根と竹下)は、アメリカ政府と何を秘密合意したのか。それは、80年代のレーガン政権下の厳しい財政赤字を助けたということである。兆円高による為替変動を計画的に起こして、巨額の日本国民の資金を吹き飛ばして、アメリカにくれてやったというか、貢いだのである。
それが、アメリカから見れば、日本国王・竹下登に対する深い恩義となる。それが、ブッシュとベイカー二人を、島根の竹下のお棺の前に、ぬーっと闇から出現させた理由である。歴史的な政治家たちの大きな動きは、こういうところで露出する。
(p.206-211)
(略)
80年代レーガン時代の日本の対応は大きく次のようなものだ。「日本は軍事力はないけど、経済力がある。この経済力(金融資産)で、西側自由主義陣営の一員として、ソビエト包囲網とソビエト共産主義打倒のために協力を惜しみません」というものであった。そのために、私たち日本国民の預貯金や、生保や、厚生年金の積み立て金が、米国債を買うように仕向けられた。大蔵省が、長年に渡って機関投資家を指導して、資金をアメリカに流出させることで、このアメリカ支援政策を実行し続けた。日本はアメリカの属国だからこうするしかないのだ。日本は、ソビエト連邦の崩壊(1991年12月)に、金融・経済力で大きく貢献したのだ。
(p.215)
私は先に、『そこに「経済と政治は分離し得ない。車の両輪のようなものだ」という爆弾が投げ込まれれば、その破壊力幾ばくぞやと、固唾をのんで凝視している。』と書いた。
これがその「爆弾」である。
私のかねてからの考えでは、戦後いままでの日本においては、大きく二つのタブーがあり、第一のタブーは「戦争について語ってはならぬ」というものであり、それ有るが故に必然的に形成されざるをえなかったもうひとつのタブーがこの「米国債投資の為替差損について語ってはならぬ」ということである。
そしてこの二つのタブーこそがまさにこの「爆弾」が破壊しようとしているものである、と私は思う。
破壊力が顕れるのはまだまだこれからだろうが、私たちはこの「爆弾」が「燃料気化爆弾」や「デイジーカッター」などよりはるかに強力・巨大なものであると認じ、その整備、強化に努めるべきであろう。
(今日は、2003年3月20日です。
また、戦争が始まりました。
願わくば、諸氏におかれましてはよろしくこの「爆弾」のことを念頭におかれて、この度の戦争についても熟考されんことを。
・・・ということで、この稿を、予定を繰り上げて急遽アップしておきます。
老婆心ながら一言。この度戦争を仕掛けたこの「モンスター」をここまで育てたものは、ある意味で我々日本人であり、最高権力者を「国王」としてしか戴くことのできないこの日本という国なのである。)
http://www2.ocn.ne.jp/~megami-k/
副島隆彦学問道場
http://www.soejima.to/