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(回答先: Re: なんとでも言えますよ。 投稿者 極東民 日時 2003 年 5 月 22 日 05:23:14)
極東民さん、こんにちわ。
朝鮮半島が分裂した政治的道義的責任は、日本も負っていると思っています。
※ 参照書き込み
『朝鮮半島を見捨てた日本は偉そうなことを言えない』
( http://www.asyura.com/2002/ishihara1/msg/284.html )
朝鮮半島が「韓国」と「北朝鮮」に分裂した直接の責任は米国と李承晩政権にあります。
(分割占領後の米ソで取り交わされた合意(昭和20年12月末のモスクワ協定)は、3年ほどの国連信託統治後に自由選挙を行なって統一政府をつくり独立させるというものです。しかし、米国はモスクワ協定を反古同然に扱い、自由選挙では左派政権が樹立する情勢が続いたため、米国と李承晩政権は分断国家を選択しました。それが、米軍撤退後の「朝鮮戦争」(北朝鮮が統一を目指し南進)につながっていきます)
敗戦直前の朝鮮半島における日本軍は、敗色が濃くなった昭和20年に入って、南部を対米戦、北部を対ソ戦に備えるかたちの配置になり、南部は朝鮮軍司令部、北部は第17方面軍司令部が統括していました。
(ソ連の対日参戦密約が行なわれた2月のヤルタ会談を受けての措置だと思われる。朝鮮北東部にソ連との国境線がある)
北部の第17方面軍が関東軍総司令部の指揮下に入ったのは、ソ連が対日参戦した8月9日からです。(それまでは大本営の指揮下)
(朝鮮駐留部隊は、関東軍部隊よりも先に昭和18年から南方に転じ始め、昭和19年には一般師団が0にまでなりました)
米ソによる朝鮮半島の分割占領は、既定方針ではなく、日本の降伏を受けて急遽決まったことです。
日本政府が、ポツダム宣言受諾意向を連合国に通達したのはソ連参戦後の8月10日です。(朝鮮のある層はこの情報を傍受していたにも関わらず、独立に動くことはありませんでした)
そのため、トルーマン大統領は、日本政府がポツダム宣言を受諾するや(8月15日)、スターリン首相にソ連の占領地域を38度線以北に限定するよう申し入れました。
(日本軍との地上戦はできるだけ避けたいと考え、満州と朝鮮での戦いをソ連に委ねたにも関わらず、日本政府が思わぬ早さで降伏したため、朝鮮半島の分割占領に切り換えたというものです)
準備がなかった米軍が38度線以南に進駐し始めたのは、ソ連軍が朝鮮に進攻してからおよそ1ヶ月後の9月8日です。(沖縄駐留軍の一部を転用)
この間の南部朝鮮は、朝鮮総督府と建国準備委員会(呂運亨委員長)で秩序が維持されていました。
建国準備委員会は日本人保護と秩序維持を目的に朝鮮総督府の誘いで結成されましたが、米軍と朝鮮総督府の関係が生まれた後は対立するようになりました。
このため、米軍先遣隊がソウルに到着した9月6日には、建国準備委員会が「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言しました。(10月になって米軍政庁が否認)
米国の朝鮮南部に対する占領支配政策は、現在のイラク占領支配政策を考える上でたいへん参考になると思っています。