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*以下転載
■さて本日は欧米、いや世界の本質を知るために…
2003.4.16
さて本日は欧米、いや世界の本質を知るために、欧米社会の建前を検証しよう。あのナチズムは今だにヨーロッパで、逆卍型のマークであるハーケンクロイツを持つこと及び、関連する組織を作ることを、法律で禁止している。アメリカなどで起こる、いかにも悪そうな暴走族のような格好をして、ナチスだ!とやっているのは、反対にユダヤ社会から、反ナチズムの宣伝としてお金が出ているという。一方、最近ロシアで見られるナチズムは、禿げ頭にして一見いかつい連中が、インタビューアがマイクを向けると、見事な思想をしゃべる本物である。日本でいう右翼のイメージと、ヨーロッパでいう右翼とは、かなりイメージが違う。彼たちは頭を坊主にしたり、過激な態度をとるが、普段は銀行員であったり、学生であったり、鍛冶屋のおやじであったりの一般人で、大まじめな思想を持っている者達だ。もっとも日本も最近変わって来ている。 先のフランス大統領選に、極右のルペンが20パーセントも得票を取ったり、イタリアでは既にムッソリーニが再認識され、極右が与党の政権に入っていたり、ヨーロッパ各地で極右が台頭して来ているが、この極右思想は言葉にしてこそ出せないが、ナチズムそのものなのである。ヨーロッパに住んだことのある人なら、意外にヒトラーを肯定する人達が多いのに驚かされる。そして皆、大きい声では言えないがという前提が付く。あの敵対した国々や、私がいたイギリスでさえもそうである。我々には理解しがたい問題だが、彼らはいくら管制をしかれていても、心の奥底に確固な何かがある。日本ではヒトラーが悪党極まりないと表現をされると、潜在的に何の経験も無いので、ああそうなのかと、テレビが言うがまま素直に受け入れてしまう。しかし彼らのコメントをメディアリテラシーして、ビデオに映るヒトラーを歓待する大衆を見ると、何かが違うと感じてしまうだろう。やらせでないのが一目瞭然で分かるからだ。ベルリンが陥落したときも、残っていた老人たちが銃を取り、最後 まで活躍したという。これをNHKだと、大衆を騙し洗脳したとなる。 ヒトラーとナチスって何なのだろう。これを理解すれば、今回のイラク問題も良く見えてくる。 ヒトラーはオーストリア生まれである。ドイツの国境に面したブラウナというころで生まれた、オーストラリア人だ。しかし元々ドイツとオーストリアは、同じゲルマン民族であり、かつてプロシア共和国と言われたときは同じ国家であった。悲劇的に分断された国だったのだ。後に祖国を統一するという悲願を、達成したのがヒトラーなのである。 第一次世界大戦でヒトラーは伍長として戦い、大変勇敢だったとヒトラー批判の本でも認めている。ある日イギリス軍のガス弾に目をやられ、入院中に終戦となってドイツは負ける。彼はそのとき極端に泣き崩れ、まわりの人によほどの愛国心者であったと言われている。画家を目指していた彼は、目指す大学にも落ち、落胆を味わた人物であったが。戦争でも破れ、目が治って戦後細々と絵を売って生計を立てていた。ドイツはベルサイユ条約で、ものすごい賠償金を取られ、インフレに悩まされていた最悪の時代である。ヒトラーはある日ナチス党に入党する。まだナチス党員は十名位しかいなかったが、彼の秀でた才能はこのときから発揮され出した。その天才的な思想と弁舌振りから、すぐに幹部となって行く、当時のナチスの演説場所はビヤホールであった。夜になりヒトラーの演説が始まると、たちまち人々が集まったという。ひとつの政治ショーであった。後に天才的な宣伝家でヒトラーの右腕と言われた、ゲッペルスによるナチスの宣伝手法は、現在の政治の原型にもなっている。 何年も前だが、自民党の誰が出したか忘れたが、ヒットラーの選挙戦略という本が出ているくらいなのだ。 ナチスの戦いは共産党との戦いであった。当時ドイツにおける共産思想は、惨憺たる状況の国内情勢において物凄い勢いであった。今みたいに武器携帯を禁止にする時代ではなく、各団体が民兵を持っていた。ナチスは突撃隊を持ち、最終的には350万人にまで膨れ上がる。もちろんまだ大きくない最初のころはそんな数ではない。ある日ヒトラーが演説している時、共産軍が入って来て銃撃戦となる。ヒトラーは誰が一番勇敢に戦っていたかを、銃弾飛び交う中、みじろきもせず見ていたという。 何と言ってもヒトラーが世に大きく出たのは、ミュウヘン一揆という革命を起こしたときからだ。この革命は失敗に終わり、ヒトラー以下ナチス党員は捕まってしまうが、当時ドイツを揺るがす大変な事件である。圧巻なのはその裁判からだった。ドイツ中が注目する中それは始まった。ヒトラーは弁護士を付けず、すべて自分で弁護をする。そしてそれは全ドイツにラジオ放送されていた。弁護というよりも法廷はヒトラーの独演会となり、そのあまりにも見事さに、最後には傍聴者が皆、ハイルヒトラーと絶賛したという。死刑にもなるところ、4年という刑だった。裁判後裁判長は、大変な奴が現れたと絶句したという。拘置はホテルみたいな特別待遇で、しかも一年あまりで出てきたが、その中で口述でヘスという部下に書かせた、「我が闘争」という本は、世界のベストセラーになった。当時のベストセラーは今でもそうかもしれないが聖書である。それを抜いてのものだったのだ。その後、最後までナチスのバイブルとなり、生涯公約を通した政治家ということで、何かメジャーの本に も掲載されている。ヒトラー思想は実は、チベット仏教に大きく感化されている。ハウスホーファーという人が、ヒトラーに思想的影響を与えた大学教授である。彼のお父さんはゲオポリテクスを書いた人で、仏教にも詳しく、日本にも来たことのある人物である。昨年だったかチベットの当時のダライラマに、ヒトラーからベンツが送られていたことを、テレビでやっていた。 多くの人がヒトラーは選挙によって勝ち上がってきたという事実を知らない。野蛮で軍事的な押さえつけで、政権を取ったと期待するだろうが、大きな間違いである。ナチスによる当時の斬新な選挙方法は、飛行機による移動や、サブリミナル手法や、大画面でのビデオ宣伝や会場演出など、あらゆることをやって勝ち上がって行き、特に裁判以降は絶大な人気をはくしたのだった。時の大統領ヒンデンブルグや長老達は、ナチスをあまり認めずにいたが、当時共産党の台頭に頭を痛める情勢に、ヒンデンブルグ以下の黒幕が反共に期待し、連立政権であった与党から、ヒトラーを首相に任命したのだった。ある本には、このとき彼らは竜の尻尾を踏んでしまったことに、気づいていなかったとある。 戦後ヒトラーの部下たちは野蛮で馬鹿でなどと、ボロクソに表現されているが、実際は各自が天才的に優秀であったという。メディアリテラシーは、ヒトラーは三着しか軍服を持っていない、質素な人間であったことにも、いやその軍服の生地は最高級だったと反論し、さすがにいいかげんにしろとまで言われたことがあった。 政権を取ったナチスは、次々と政策をこなして行く。800万人いた失業者を、一年で50万人にした。ナチスの正式名称は、国家社会主義ドイツ労働者党である。国民がシャベルを持って、アウトバーン(高速道路)を建設したり、自動車を生産したり、ますます充実していった。あのフォルクスワーゲンはヒトラーのデザインだという。ナチス政権時は留置場に一人も囚人がいなかったともいう。どおりでゴッチさんの思想が解るような気がする。
もちろん共産党はナチスに敗北した。戦後有名な日本の左翼の先生が、同じく左翼の学生たちに言ったという。「日本の右翼は決して君たちの敵ではない。しかしもし日本に当時のナチスがいたなら、君たちは簡単に打ち負かされるだろう。何故ドイツであれほど優秀だった共産党(プロレタリア)が、プチブル(中産階級)のナチスに敗北したのか理解出来ない」と。
圧倒的な国民のナチス指示の中、ヒンデンブルグ大統領が亡くなり、ヒトラーは大統領と首相をかねた、総統という地位に就く。この後また問題が起こる。かねてより燻っていた国防の要である軍隊と、ナチスの民兵である突撃隊との衝突である。突撃隊隊長レームは古くからヒトラーと共に行動し、ヒトラーに唯一「おい、おまえ」で呼べる人物であった。突撃隊350万人、対するドイツ正規軍50万人、レームは第二の革命を軍隊相手に戦おうとした。いくらヒトラーが止めても聞かなかった。ヒトラー側は突撃隊の暴走に、細心の注意を払っていた。盗聴まで仕掛けていたのである。ある日ついに革命を実行しようと、突撃隊の幹部百数十名が湖のほとりのホテルに集まり、作戦を練っていた。そこへ急襲したのが、ヒトラーの命を受けた、当時まだ一万人くらいしかいなかった、親衛隊の中の精鋭部隊である。彼らは突撃隊幹部を殲滅させた。この気にドイツ軍もヒトラーに忠誠を誓うようになり、突撃隊もよりヒトラー管轄となって、全ドイツ武装の統括を終える。オーストリアを選挙によって統合し、悲願を達成したドイツは、ポーランドのズデーデンランドへ進行する。この地はポーランド国境に面した地方で、住人はほとんどがゲルマン民族であった。冷遇されていた彼らは、ドイツ軍が入ってくると涙して向かえたという。時のイギリスの総理大臣チェンバレンは、急遽ドイツへ飛び、ヒトラーと和平を結ぶ。戦争を回避したとチェンバレンはイギリスで、ヒーローとなるが、ドイツはポーランドの首都ワルシャワまで進行してしまう。ズデーデンランドまでは国際社会はドイツの動きを認めたが、イギリス、フランスはポーランドまでは容認しなかった。ドイツへの宣戦布告が始まり、空爆が開始される。ヒトラーにとってこれはショックであった。彼の戦いは対共産党と、かつてのドイツの領土復活であり、イギリスとは戦争をしたくなかったのだ。その後ドイツはチェコに介入し、ロシアと激しい戦いとなる。
ユダヤ問題は実はヒトラーの個人的影響ではない。物の本によると、可愛がっていた姪がユダヤ青年とデートしていたのを嫉妬し、ヒトラーが怒ると自殺したとされる事件があったとされ、本当に姪は自殺したのだが、これを根に持って政権を取ってから弾圧をしたとある。この時が本日の歴史が動いたです。現在のタブーとは当時の全ヨーロッパが、非ユダヤの思想であったということである。彼たちは世界で差別を受け、冷遇された民族であった。ドイツのヒトラーだけの思想ではなかったことだ。現代でもユダヤ人を嫌う人は多く、ヒトラーの他の政策は正しかったが、何も殺すことは無かったのでは、という人達が多いのである。私達には理解出来ない問題なのだ。600万人を虐殺したとあるが、ガス室はそんなに大きくは無い。またドイツ国内にも食料がなく、ほとんどの人が餓死だという。といって事実は実際に隔離され人々が殺されたことであり、私達は決して肯定してはならない。先の数字はドイツからユダヤ人がいなくなった数字である。各地へ逃げた人々も、アメリカ以外では冷遇され続けた。イギリスは逃げて来たユダヤの人々を、コルシカ島に幽閉したのは有名である。アメリカは既にユダヤ社会が構築されていた。日本と戦争をしたあのルーズベルトもユダヤ系である。
ヒトラーはその思想を少年のうちから固めようと、ヒトラーユーゲントというものを作る。ユーゲントは英語で言えば、ユースのことだ。私のタイガーユーゲントは、ヒトラーユーゲントとは関係ない。私の思想である。タイガーユースじゃおかしいもんね。日本の東京裁判に対して、ドイツではニュウベンブルグ裁判が行われたが、日本のなんとなく巻き込まれた戦争というよりも、彼たちは確信して戦争を追行した。裁くなら裁けという態度であったという。ドイツの戦死者は日本の戦死者より多い。やらされてやる戦争は、士気がなく今度のイラクのようになる。一方意志の基に戦われるものは、その国の誇りを培うものである。やられて解るでは遅すぎるのだ。
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