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今日、中国社会における不平等問題の診断書と処方箋に関して、「権利の平等」を重視する自由主義的見解を持つ人々と「結果の平等」を重視する新左派との間での対立は激化している。
自由主義が主張しているのは、市場経済に基づいた財産の分配方式であり、人々が均等であることを保証するものではない。その目的は、人々が積極的に財産を作り出すための自由、公正競争の制度環境をできるだけ提供することである。自由主義の主張によれば、人々が絶えず新しい財産を作り出すよう促し、財産の増加によって、貧困を解決する一方、財産の分配は、特権あるいは強制的な平等ではなく、財産を作り出したものこそが、財産を正当に所有するという原則で行うべきであるという。「権利の平等」という見方は、財産権の平等を最も重要な平等の一つと考え、そして市場経済は平等の実現、権威と特権に対抗する最も強大な、取って代わることのできない天然の力であると見なしている。
これに対して、新左派は、結果の不平等だけを批判し、中国の経済生活の中におけるルールの不公正と彼らが一所懸命に弁護しようとする旧い体制との深いつながりについて論議しようとしない。そして、彼らは私有財産権と自由市場経済を結果の不平等の最大の源泉と見なし、その公有(国有)制による代替を一貫して主張してきた。要するに、不公正なルールによって、分配での不公正を「是正」しようとしている。
現在の中国社会では、確かに深刻な分配上での不平等が存在している。それは、単に人々の収入の格差ではなく、むしろ不公正な手段によって、富を獲得する方法が大量に存在していることを指しているのである。厳格に言えば、機会平等の下で、正当の所得によって形成された収入の格差は、不公正な分配ではない。しかし、今日の中国では、民衆に極度に憎悪されているのは、職権・地位を悪用した不正行為や賄賂などを通じて、強引に財を奪いさばいていた新しい特権階級である。これに対して、何百万の普通の労働者達はレイオフと失業を余儀なくされ、その最も基本的な生存権すら保障されていないのである。社会の富は、勤勉に働き、困難を乗り越えて事業を起こす人々、さらに法律を誠実に守った経営者達にではなく、むしろ特権を握る人達と汚職し不正を働く人々、職権を濫用して背任行為を行う人々の手に落ちている。正義感の人ならだれでも現在の中国社会の中、下所得層の人々のつらい現状を無視することができず、貧富格差の現状に心を痛めずにはいられない。この点に関して、自由主義者の見解は新左派と共通している。しかし、分配上の不公正は、人々の注目度が高いからと言って、自動的に解決されるものではない。重要なのは、その問題の存在をいかに重視するかではなく、むしろその原因を正確に求めることによって、解決するための有効な方法を探ることにある。しかし、原因の究明にあたって、自由主義者と新左派のこうした社会現象の病因に対する診断書は、完全に異なっている。
新左派は、中国における貧富格差、分配不公正問題の元凶は市場化改革の行き過ぎにあると判断している。市場メカニズムを実施した結果、貧しい人々がますます貧しくなり、成金達がますます金持ちになるという二極分化が進んでいる。さらに経済危機、権利と金銭の不当取引、生産の無政府状態、分配の不合理性などがもたらされ、特権階級の特権がより拡大する一方、大衆が奴隷の立場に転落してしまうと考えている。こうした新左派の主張に対して、自由主義者はまったく事実無根であると反論している。中国における深刻な分配の不公正現象は、決して市場経済の結果ではなく、むしろ権力者が権利を悪用し、巨額の不正利益を手に入れた結果であると主張している。それは長期にわたって、実行されてきた計画経済の体制及びそれに対応した政治制度が深く関わっており、言い換えれば、市場経済改革が十分かつ徹底的に行われず、残存している計画経済と現在の政治体制が生み出した金権取引の結果であると考えている。
中国では、貧富の格差及び分配の不公正は長く存在していた。計画経済、公有制ないし国有企業自体には、深刻な社会的不公正が潜んでいるのである。1950年代には、「地主を打倒し、土地を分配せよ」、「私営企業の改造」ならびに「社会主義改造運動」といった相次いだ運動の結果、本来、土地を持っていた数億の農民や、個体経営者、工商業者が無産階級に追いやられたのである。国家が築き上げた農村部と都市部との障壁こそ人々の身分の不平等と分配上の不公正を作り出したのである。戸籍制度は、都市部と農村部間における不平等、不公正を制度的に容認したのである。こうして、労働者と農民間が社会地位における大きな格差、幹部と普通の民衆との待遇の面における明らかな格差、幹部内部での厳しい階級化など、こうしたすべては、社会主義体制の結果に他ならない。
経済改革を経ても、これまで強制的に奪われた人々の私有財産の殆どは、元の持ち主に戻されておらず、普通の人々の財産権もいまだに法律上の認知を受けていない。これだけではなく、多くの人々は、その一生の最も貴重な時間と精力を国家のために費やし、大量の財産を蓄積してきたにもかかわらず、本来彼らに所有すべき公有財産に関する権利について、まだ明確に認められていない。一方、公有財産の所有権が曖昧であることと、政治体制改革が立ち遅れていることによって、官僚の権力が監視されず、権力を握る一部の人は平然と地位を悪用してレントシーキングを行い、ほしいままに公有財産を奪い、巨額の不当な財を手に入れることができた。例えば、いくら企業が経営不振に陥っても、経営者は依然として私利を蓄えていた、権力を握っている人達は、新しい「改革」の措置が実施するたびに、不平等な競争条件と環境を利用し、許認可権、株、そして土地の取引を通じて、多額の不正収入を手に入れた。また、権利と金銭の不当な取引、汚職賄賂、脱税などのあらゆる手段によって、国有資本を蚕食している。その結果、多くの財産は事実上、官僚達の個人的な財産に変えられたのである。
中国の都市部の労働者達はかつてある程度の福祉と保障を享受していた。しかし、それは人口の80%を占める農村人口のこのような権利が剥奪されることを前提にしたものである。それは、農業製品と工業製品の価格差を通じて、富を農村部から都市部に移転したり、また戸籍制度を通じて、農民達を彼らが所有していない土地へ永遠に束縛したりすることによって、獲得したのである。近年、農民達があまりにも多くの負担を強いられることで、農村部の貧困状態は悪化する趨勢を見せている。過酷で雑多な重税の項目は数え切れず、各レベルの政府機関が、農民達から徴収する税金の種類は数百にも上る。あまりにもひどい税負担に苦しんた末に、自殺に追い込まれた記事は、常に報道されている。
過去の五十年間、まず私有財産が公有財産として没収され、そして改革の名のもとで、公有財産が再び個人的なものとなってしまった。こうした財産の再分配を通じて一体、だれが最大の利益を受けたのか、誰が最も犠牲を強いられたのであろうか。そして、このような不公正かつ不平等な分配を作り出した責任者はだれであろうか。その答えはもはや自明である。しかし、新左派はこうした問題に対して、一貫して見て見ないふりをして、正面からの回答を避けようとしている。こうして、もし彼らは中国のこれまでの五十年間における社会不公正の主要な原因に触れなければ、社会公正を語る資格が一体、どこにあるであろうか。
今日、中国社会における不公正問題の本質は、国家権利という従来の公のものが、各レベルの官僚達に私利あるいは集団利益を図るものとして悪用されていることにある。こうした問題だらけの制度による腐敗が原因で、社会不公正が生まれたのである。何千万人の人々が、最も基本となる食事と衣服というニーズでさえ満たされていない一方で、一部の官僚は簡単に汚職を通じて何億元もの財を手に入れている。こうした問題は、実に深く考える必要がある。なぜ現在の体制はこれほどの問題を抱えながらも、いまだに措置が行われていないのか。現在の社会不公正はまず、経済と政治体制改革が市場経済の発展より遅れていることに由来している。一方、経済改革では、いまだに国有企業において、有効なコーポレートガバナンスを形成しておらず、しかも行政権力に支えられている各業界における独占体制が依然として維持され、民営企業の発展が抑制された結果、市場メカニズムの発育だけでなく、収益の分配も歪められてしまったのである。
従って、今日の中国において、貧富の格差を作り出した根本的な原因は、決して市場経済の行き過ぎと競争にあるのではなく、むしろ行政権力、独占及び既得利益層が、市場の発展、自由、公正競争の形成を防げていることにある。分配の不公正、貧富格差といった問題の根源は政治制度にあり、決して新生の市場経済でもなければ、普通の民衆がようやく享受し始めた有限の財産権と経済の自由に求めるべきでもない。中国の政治制度を変えない限り、社会不公正の解決は不可能であり、単純に分配を公正にしようと呼びかけても意味がない。新左派は、社会不公正を作り出したこうした制度原因に対して、知らないふりをしているだけではなく、逆に旧い制度のツケをいまだに少数派であり社会において不利な立場にある自由主義者に押し付けようとしている。このことは、自由主義者にとって、受け容れ難いものである。
「効率優先」の発展主義的現代化路線は貧富格差と分配の不公正をもたらしたもう一つの元凶であり、従って、こうした政策路線を徹底的に放棄しなければならないと、新左派は主張している。しかし、主義主張の違いによって効率に対する理解は根本的に異なるため、「効率」の中味を問わず、漠然と効率優先を批判し、効率と公平を対立させることは、問題の解決に役立たないのである。計画経済及びそれを支えるイデオロギーは、市場という「見えざる手」による調節よりも、大きな政府が行政命令ですべてを統括することで、最高の効率が実現できるという認識の上に成り立っている。このような個人の発展権利を国家の発展権利に変えようとする発展主義は、決して自由主義の立場ではなく、むしろ自由主義が力を尽くして反対してきたものである。自由主義者によると、一人一人の自由と権利を尊重した政治と経済制度こそが、公正な制度であり、最も効率的な制度になりうるのである。計画経済の下では、個人の公平と国家の効率を同時に求めることができないという矛盾が存在している。しかし、自由市場経済、そして憲政民主の政治体制を実施することによって、初めて効率と公平との間の対立を緩和することができるのである。
新左派は、中国社会における貧富の格差の問題を分析する際、人々の利益に最も関心を示し、彼らこそ人民の福音であり、人民の利益の最大化が自らの使命であると、人々を説得しようとしている。同時に、彼らは、貧しい人々の利益を殆ど考えないことを根拠に、自由主義者を批判している。彼らは、自由主義者達が社会共通認識や民主の味方ではなく、むしろ最も優位に立った社会勢力の味方として、経済自由と財産権を一生懸命に守ろうとしていると考えている。また、新左派は、財産権と経済の自由が、お金持ち達の権利であり、貧しい人々と無関係であると考えている。従って、自由主義者達がひたすら財産権と経済の自由を主張しているのは、お金持ち達の味方で貧しい人々を圧迫しようとしているという。
自由主義が貧富の格差の存在と貧しい人々の利益を常に無視するという新左派の指摘は、完全に的が外れている。逆に、自由主義は、人々の不幸と苦しみに対して非常に同情しているが、決して今日の旧い左派のように、「革命」の名のもとで気分良く様々な特権を享受しながら、社会の下層部の民衆達に実現できそうもない約束をするなどは、一切しない。自由主義者は「あらゆることを貧しい人の利益から考えよう」のような人々を煽るスローガンをひたすら叫ぶより、貧しい人々を助けるもっとも有効な方法に最も関心を示している。自由主義者達は、貧しい人々を救済する名義で、暴力的手段によって貧富の格差を無くそうとすることにも、膨大なユートピアの計画によって社会の様々な問題を完全に無くそうとすることにも反対している。そのようなことを実施することにより、かつては貧民であった一部の人々が新たに権力を握っても、社会の貧困と貧弱が本当に制度的に解決されることが決してありえないことは、歴史が度々証明してきたのである。仮に国家の暴力機関を動員し、財の再分配を強制的に行おうとすると、金持ちの財産を簡単に奪うことができても、あらゆる貧しい人々を豊かに導き、長期にわたってそれに留めさせることは不可能である。国家の強制的な手段を通じて財を再分配した結果、国家が大な行政機構となり、最終的にすべてが一極に集中した権力によって統一的に分配が行われる軍隊のような存在になってしまうことが避けられないであろう。
(出所)「自由主義与公正:対若干詰難的回答」、『当代中国研究』2000年第4期 より抄訳
※和文の掲載にあたり同誌より許可を頂いている。
2002年11月25日 中国経済学欄掲載 「私の非主流派経済学入り宣言」:http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/021125gakusya.htm
も併せてご覧下さい。
劉軍寧 Liu Jun Ning
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北京大学政治学博士。中国社会科学院政治学研究所副研究員、ハーバード大学客員研究員を歴任。現在、中国文化部所属の中国文化研究所において、研究活動を展開している。
http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/030411gakusya.htm