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(回答先: 「イスラムの教義で経済が構築できる」と主張したことはありません 投稿者 あっしら 日時 2003 年 4 月 27 日 19:25:56)
一般的でないテーマと考えますから新スレッドは避けつつ、深くなるので最初の書き込みへのコメントとしますが、以下で言及した内容は、最後の「経済論理や剰余価値説について(http://www.asyura.com/0304/dispute10/msg/145.html)」に関するものです。(遅延陳謝。つまらない雑用に巻き込まれて、2日ほど休んでおりました。)
「資金市場」と「剰余価値」の言葉を用いたのは、議論においてできるだけ通用性の高い概念を選ぶ意図です。資金市場の需給(資金の限界生産性)と並べて産業資本から金融資本に分与されるべき源泉である剰余価値の減少との説明を加えものです。いずれも利潤の消失から利息低下を説明すべき理論ですが、限定的な有効性しかありません。(「経済」を話題にすると語句の通用性で苦労します。「利潤」も通用性が低い言葉ですね。)
「資金市場」も、今日の管理通貨制度と国債によって国家債務が流通する下では、特定の市場参加者の主体的意図に左右されます。市場として著しく歪んだもので、市場原理によって現象を説明することができません。「国家を借金漬けにする利息獲得手法は、資金需給の市場法則などで説明することができない」はこの意味で理解します。
「利潤の源泉を労働者の超過労働搾取に求めた「剰余価値」理論は誤りです」とのご意見ですが、現代の認識としては賛成します。剰余価値学説のうち、労働力の価値(再生産コスト)と賃金を等置する部分は、賃労働に従事する者が急速に増加しつつあるという非常に限られた場面でしか有効でないと考えています。本源的蓄積段階(マルクスの用法です)の西洋史の記述としては有効でしょうが、19世紀末以降の説明としては、少なくとも先進国では成立しません。産業革命を変則的にしか経験せず、「大商人」による蓄積から直接に出発した日本などでは、歴史的な現象を説明することも困難です。
余談ですが、マルクスを金融資本の手先とするあっしら氏の論は荒唐無稽とは考えておりません(歴史上の人物の主観的意図にはあまり関心がありませんが..)。マルクスが資本論第1巻で活写した現象は著述から起算しても数十年前の19世紀初頭のもので、死後刊行物である2巻以降の金融資本の描写は著しく生彩を欠きます。もっとも、宇野のように資本論(副題は「政治経済学批判」)を「定常近代経済システム記述学」に転化させた者の責任、マルクス理論をドイツやロシアなどの後進国に推広しようとした第2インターの影響などの分析が必要と考えております。
なお、「経済現象そのものから新しい経済システムの創生ないし挫折が観察できる」は、政治勢力の消長を含めた意味です。たとえば、資本市場の世界化を唱える政治勢力に抗すべくもないのは、「経済現象」と考えております。ネオコンは、ファシズムと同様に、必ずしも金融資本の利益をストレートに反映したものではないと考えますが、コストを犠牲にしても世界市場のメリットを追求する政治勢力として一定の現実性を持ちます。あらゆる財貨(ただし労働力を除く)と通貨の市場の国際化を試み、これに反対する政治体制の転覆を企図しています。ネオコン主唱者は、当然のように北朝鮮の政治体制の破壊にも手を伸ばすでしょう。しかし、よりコストを重視し、ドル垂れ流しの国際ファイナンスを利益とする勢力に阻まれることもあります。