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川路聖謨とプチャーチン〜 幕末名外交官の激突 国際派日本人養成講座
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投稿者 てんさい(い) 日時 2003 年 5 月 18 日 03:22:44:KqrEdYmDwf7cM

■■ Japan On the Globe(293) ■ 国際派日本人養成講座 ■■■

人物探訪: 川路聖謨とプチャーチン
〜 幕末名外交官の激突
 通商と国境策定の問題を激しく論じ合う二人の間に
ひそかな共感が芽生えていった。
■■■■ H15.05.18 ■■ 38,248 Copies ■■ 815,505 Views ■

■1.プチャーチンあらわる■

 嘉永6(1853)年12月14日、長崎の港に4隻の大船が停泊
していた。中央に陣取るのはロシア使節プチャーチンの乗る旗
艦「パルラダ号」。左右52門の大砲で港全体を威圧していた。

 午前11時、パルラダ号から6艘のボートが降ろされた。随
伴艦からは祝砲が放たれ、快晴の空のもとで長崎の港を囲む丘
陵にいんいんとこだました。

 やがてボートが次々と波止場につき、軍楽隊を先頭に武装兵、
ロシア使節と士官、水兵らが二列縦隊で続き、ラッパ・太鼓に
合わせて行進を始めた。隊列は西役所の前でとまり、使節と士
官は日本側の役人に案内されて対面所に入る。そこには4人の
幕府高官が応接掛として待ちかまえていた。

 応接掛次席の勘定奉行・川路聖謨(としあきら)は、使節プ
チャーチンを60歳ぐらいと見た。髪は茶色で髭をたくわえ、
ゆったりとした表情から、高位の人物であると察せられた。

 その川路を随行秘書官で作家のゴンチャロフは「45歳くら
いの、大きな鳶色の眼をした、聡明闊達な顔付の人物」と後に
書き残している。

■2.ロシアからの国境策定、通商要求■

 川路聖謨の父・内藤吉兵衛は日田(大分県)の幕府代官所の
小吏であり、その地で聖謨も3歳まで過ごした。その後、父は
念願かなって幕府の徒士(かち、騎乗を許されない徒歩の軽格
の武士)に採用され、江戸は牛込北御徒町に移り住んだ。

 その後、聖謨は小普請組(無役の旗本御家人)川路三左衛門
光房の養子となり、家督を相続して18歳から幕府に出仕する
ようになった。その後、実力を求められて次々と引き立てられ、
幕府三奉行の一つである勘定奉行にまで栄進できたのは、聖謨
自身夢想だにしていなかった。

 嘉永6年6月にペリー率いる米国艦隊が来航し、通商要求を
聞き入れない場合は戦争になるだろうからと、降伏の際に使う
白旗を送るという露骨な砲艦外交を展開した[a]。回答を受け
取るために来年に再び来航する、と言い残してペリーが去った
のが6月12日。そのわずか1ヶ月後の7月18日に今度は4
隻のロシア艦隊が長崎に入港したのである。

 ロシアからの国書には、樺太・千島の日露国境を定め、日本
との交易を開きたい、という要求が記されていた。幕府老中た
ちは応接掛として、西丸留守居役・筒井政憲、川路聖謨他2名
に長崎に下るよう命じた。

■3.困難な綱渡り■

 長い泰平の時代に衰退した日本の防備力では、戦乱と技術革
新で鍛えられた欧米諸国の敵ではなく、戦いとなればアヘン戦
争で英国に蹂躙された清国の二の舞になることは明らかだった。

 一方、識者の間では開国・通商は世界の大勢として避けられ
ないと考えられていたが、鎖国論の根強い国内世論を慎重に導
きながら進めなければ、どのような混乱が起こるやもしれなか
った。まして領土問題で寸土でも譲歩したら、国内の攘夷派が
憤激して争乱は必至だろう。外国との戦争か、国内の争乱か、
一歩踏み誤れば亡国に至る、そういう困難な綱渡りを川路らは
迫られていた。

 ロシア使節と日本側応接掛の会談は、まず相互の挨拶から始
まり、ついで昼食に移った。ロシア人たちは初めて見る日本の
食事にとまどいの色を見せたが、おずおずと口に入れると思い
がけないおいしさに眼を輝かせた。

 食事後、プチャーチンが即刻協議を始めることを提案した。
長崎にて5ヶ月も待っていたので、すでに予定の日限も過ぎ、
速やかに協議をまとめ、帰国しなければならないというのであ
る。それに対し川路は、国境策定は両国にとってきわめて大事
なことであり、慎重な話し合いが必要であるとして、日を改め
ての協議を主張した。何度かのやりとりの後、主張を曲げない
日本側にプチャーチンが折れて、ロシア側は引き揚げた。

 3日後の17日、日本側が答礼としてロシア艦を訪問。川路
は、もしそのままロシアに連れ去られたら、ロシア皇帝に直談
判しようと決心していたが、幸い訪問は穏やかな空気の中で無
事に終わった。18日にはプチャーチンを西役所に招いて、幕
府からの回答書を手渡し、第一回協議を20日に開くことで合
意した。こうした儀礼の間にも、筒井や川路はどう交渉を進め
るかについて、綿密な打ち合わせを繰り返していた。

■4.協議始まる■

 20日、朝からの激しい雨をものともせずにプチャーチンは
随員を伴って9時過ぎに西役所につき、協議が始まった。幕府
からの回答書には、鎖国政策には固執せずに協議には応じるが、
通商を容認するかどうかは、朝廷の意向を伺い、諸大名の考え
も質す必要があるので、3年から5年待って欲しい、との趣旨
であった。以後、数度にわたる協議は紆余曲折があったが、お
おむね次のように進んだ。

 3、5年待てとははなはだ常識を欠く、と不快そうに眉をひ
そめたプチャーチンに対して、川路は、文化3(1806)年と翌年
にロシア艦が樺太、択捉、利尻を襲って、放火、略奪、番人拉
致を行い、8年には国後島に来航したゴロブニンを日本側で抑
留した事実を指摘した上で、こう続けた。

 それ以来50年近く、貴国からは絶えて音沙汰もなく、
気の長いお国柄であると思っておりましたのに、3、5年
お待ち下されと申し上げておるのを待てぬとは、何分にも
合点がゆきませぬ。

 川路の揶揄まじりの発言に、プチャーチンはかすかに顔を紅
潮させて、蒸気船の発明で世界は著しく狭くなり、時勢が急速
に変化した、などと苦しそうに述べた。

 ロシア船が薪、水、食料を絶やして日本の港に入った折りに
日本側はどう対応するのか、とプチャーチンが聞くと、川路は
どの国の船であろううと、無償で提供すると答えた。有料にし
て欲しいとのプチャーチンの要請に対しては、筒井が伏してい
た眼をあげて「それではとりもなおさず貿易のきっかけを作る
ことになる。あくまで協定を結ぶことが先決で、そのような事
は大事の前の小事であり、論じない方がよろしい」と一蹴した。

■5.さてもさても不法なことを申される■

 国境に関しては、川路はゴロヴニンの著書に日本側との間で
択捉島は日本領という協約を結んだとある事実を挙げ、さらに
日本の番所も設けられているので、わが国の所領であることは
いささかの疑いもない、と断言した。プチャーチンは、ゴロヴ
ニンはロシアの正式の使節ではなく、その著書を協議の参考に
することは承伏しかねると反論した。

 樺太の国境問題では、川路は実地調査をするのが前提であり、
それには数年を要するので、この会談で決定するのは不可能で
ある、と主張した。プチャーチンはその意見に理解を示したの
で、川路はさらに、樺太のロシア守備隊が現地調査に赴く日本
の役人に無礼な行為を働かぬようプチャーチンから命令書を出
すことを要求し、了解を得た。

 プチャーチンは日本役人を調査に至急派遣する事を要求し、
来年の3、4月頃までに赴かぬ場合にはロシア人を樺太全島に
移住させる、と主張した。この言葉に川路はにわかに色をなし、

 さてもさても不法なことを申される。(樺太の)アニワ
湾付近はわが国の古くからの確実な所領であるのに、勝手
にその地に植民するなどと乱暴なことを申される。そのよ
うなお気持ちであるなら、協定などむすべるはずはなく、
協議は一切無用である。

 プチャーチンはしばし黙っていたが、真意は速やかにこの問
題を解決したいからであり、御気分をそこねられたことをお詫
びする、と言った。

■6.敬意と親愛の情■

 川路はプチャーチンと話しているうちに、アメリカ使節ペリ
ーが終始、武力を背景に恫喝的な態度をとり続けたのとは対照
的に、川路の主張にもよく耳を傾け、日本の国法国情を尊重し
て冷静に協議を進めようという姿勢を見てとった。そしてひそ
かにプチャーチンに対して敬意と親愛の情を抱き、日記に「こ
の人、第一の人にて、眼ざしただならず。よほどの者也」と記
した。

 一方、プチャーチンの秘書官ゴンチャロフは川路をこう評し
た。

 川路を私達はみな気に入っていた。・・・川路は非常に
聡明であった。彼は私たち自身を反駁する巧妙な弁論をも
って知性を閃かせたものの、なおこの人を尊敬しないわけ
にはいかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰まで
が----すべて良識と、機知と、炯眼(けいがん)と、練達
を顕していた。

 協議はあくる年1月4日まで続けられ、条約締結は当面拒絶、
択捉島は日本領、樺太は実地調査の上で再協議という日本側の
主張の線で決着した。唯一、日本が他国との通商を結んだ場合
には同条件をロシアに許すという事で、プチャーチンは満足し、
北方の地を巡回した後に再び来訪すると言い残して、8日に出
港していった。

■7.大地震■

 2月にはペリーが再び来航し、日米和親条約が結ばれた。通
商は認めないが、下田・函館を開港し、そこでの物品の購入は
認められた。川路はわが国の信義のためにも、同様の内容をロ
シア側に許す必要があると老中阿部政弘に上申して、許可を得
た。

 プチャーチンは10月14日、新鋭の「ディアナ号」で下田
にやってきた。すでに英仏との間でクリミア戦争が勃発してお
り、ディアナ号は英仏艦の攻撃に備えて臨戦態勢をとっていた。
筒井、川路らが江戸から駆けつけ、協議は11月1日から始め
られた。

 翌2日午前8時過ぎ、大地震が襲った。川路が泊まっていた
寺では樹木が折れ、塀がすべて倒れた。津波が来るとの警報に
川路らは裏手の山に駆け上った。海面が盛り上がって、田畑や
家並みに襲いかかり、その上に大きな船が投げ出された。津波
が引くと下田の町は消滅し、あたり一面、泥に覆われていた。

 ディアナ号も何度も回転し、左右に大きく傾き、沈没こそ免
れたものの、船の背骨にあたる龍骨が折れ、浸水が激しかった。
水兵たちが交替で排水に努めて、なんとか沈没を免れていた。
そんな中でも、ロシア側は海に投げ出された老女と水主2名を
救助し、手厚い看護をして川路らに感銘を与えた。

■8.善良な、博愛の心にみちた民衆よ!■

 ロシア側の要請により、ディアナ号を20里ほど離れた戸田
(へだ)村の砂浜で修理することとし、11月26日朝に下田
を出港したが、途中で風が強くなり、激浪の中で船は沈下し始
めたので、プチャーチンは退避を命じた。逆巻く激浪の中をデ
ィアナ号から降ろされたボートは浜辺を目指した。浜辺でそれ
を見つけた日本の漁師たちは波の中をボートに泳ぎ着き、その
太綱を掴んで引き返した。浜に待ちかまえていた大勢の男女は
太綱でボートを引き寄せた。この救助作業により500人の乗
組員全員が無事救助された。

 司祭ワシーリイ・マホフはこの時のことを次のように航海誌
に記した。

 善良な、まことに善良な、博愛の心にみちた民衆よ! 
この善男善女に永遠の幸あれ。末永く暮らし、そして銘記
されよ----500人もの異国の民を救った功績は、まさし
く日本人諸氏のものであることを!

 ディアナ号はまだ波の上に浮かんでおり、プチャーチンの要
請に応えて、百艘もの漁船、荷船で曳航しようとしたが、その
途中で突然の風雨に襲われて、ついに沈没してしまった。

 プチャーチンはこの不運にもくじけずに、戸田村で50人乗
り程度の洋船を建造し、それで迎えの船を呼びに故国に戻るの
で、資材や大工道具を提供して欲しいと日本側に要請した。

 日本側は資材と大工のすべてを無償で提供する事とし、近隣
の船大工40人がロシア人の指示に従って、洋船建造に取り組
んだ。日本人大工は洋船の設計・建造が和船とまるで違うこと
に驚き、ロシア人は日本人大工の優れた技量に感嘆の声をあげ
た。この中の棟梁の一人、上田虎吉は後に洋船の国産化の中心
人物となる。

■9.国は違候へども、志に於いては兄弟の如く■

 洋船建造の間も、プチャーチンは下田で川路らと談判を続け
た。激しい協議の結果、千島列島については択捉島以南は日本
領、樺太はこれまで通り国境を定めないが嘉永5(1852)年まで
に日本人と蝦夷アイヌ人が居住した土地は日本領とする、通商
はアメリカと同様にいまだ認めず、ただ函館または下田でロシ
ア領事駐在を認めることとした。これらはほぼ日本側の主張に
沿った妥結だった。

 故郷を遠く離れて11年間も極東海域でさすらい、さらに船
を失いながらも、なおも祖国の国益のために尽くすプチャーチ
ンの姿に、川路は真の豪傑だと感じ入った。

 使節格別の人物なる事も相知れ、且つ各主君の為に忠を
尽くさんと思ふ処は同じなれば、国は違候へども、志に於
いては兄弟の如く睦くも存ずる事に候。

 協議の場では激しく言い争っても、それは互いの主君ひいて
は祖国への忠誠を尽くさんがためであって、その志においては
兄弟のように親睦の情を覚える、という。第一級の外交官どう
しの共感が二人の間に育っていた。

 戸田村で建造されていた洋船は3月15日に完成し、プチャ
ーチンは謝意を込めて村の名から「ヘダ」号と名付けた。16
日、プチャーチンは日本滞在中の幕府の好意を深く感謝する書
簡を送り、23日に出港した。川路は交渉が終わって、すでに
下田を離れていたが、長く激しい談判を続けてきたプチャーチ
ンにもう二度と会うことはあるまいと思うと寂しい思いをかみ
しめつつも、航海の無事を祈った。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(149) 黒船と白旗
ペリーの黒船から手渡された白旗は、弱肉強食の近代世界シス
テムへの屈服を要求していた
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog149.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 吉村昭、「落日の宴 勘定奉行川路聖謨」★★★、講談社文庫、
H11
2. 松本健一、「日本の近代1 開国・維新」★★★、中央公論社、
H10

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■前号「AIDSとSARSの温床」について

シンイチさんより
 私は今から12年くらい前に北京に行ったことがありますが街
の汚さに唖然とした覚えがあります。大通りは一見綺麗に見え
ますが、少し裏通りに入ると今にも抜け落ちそうな汲み取り便
所や舗装されていない土埃の舞う路地など立ち入るのを躊躇し
てしまう雰囲気がありました。

 北京駅も薄汚く、線路には無数の食べた後のスイカの皮で埋
まっていました。列車で地方の都市に行っても、石炭の煤煙で
街がスモッグでかすみ煤煙の臭いには閉口しました。こんな所
に長くいると体に悪いだろうなと思いました。さらに内陸の砂
漠地帯に行くと、煉瓦を積み上げただけの粗末な家におそらく
電気もない状態で暮らしているのが痛々しかったです。

 私が一番嫌だったのは、どこでもかしこでも唾、痰を吐きま
くる事です。モラルという言葉は中国にはないのでしょうか?

登さんより
 今回No.292の編集後記で、伊勢編集長の次のコメント
がありました。

 マスメディア、日教組、進駐軍の共通点は、事実を隠そ
うとする所で、SARSを蔓延させた中国政府にも共通し
ています。

 戦後のから現在に至る日本を歪めているのは、朝日新聞をは
じめとするジャーナリズムが昭和20年進駐軍の言論統制に自
ら屈し、その検閲コードにしたがって自己検閲を行ない、日本
の歴史と伝統の解体、無力化をねらった対日占領政策の一翼を
になった事実、しかも彼らの報道の核が現在もその延長線上に
あることを隠していること、あるいはまったく言及をしないで
いることです。

 極東軍事裁判史観を総括し、清算し、克服しない限り、日本
の戦後はずっとつづくと思います。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 躾とは身を美しくすることですが、それはSARSにも効き
そうですね。

 読者からのご意見をお待ちします。本誌への返信で届きます。
掲載不可、匿名・ハンドル名ご希望の方はその旨、明記下さい。
欄掲載分には、薄謝として本誌総集編を差し上げます。

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