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平安後期に壮大な高層本殿 出雲大社
大仏殿しのぐ48メートル
巨木3本束ねた柱出土
伝承を裏付け
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本殿が国宝に指定されている出雲大社(島根県大社町杵築東)の境内遺跡で、平安時
代後期(11〜13世紀ごろ)の本殿を支えた柱の根元部分(柱根)が出土した。柱根は
丸太3本を束ねた形状で、直径は計3メートル。当時の本殿は東大寺大仏殿(高さ46
メートル)をしのぎ、国内一の高層建築だったとする伝承を裏付ける画期的な発見だ。
出雲大社の歴史的意義や建築史、宗教史の見直しを迫る超一級の史料。同町教委が4月
28日発表した。
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柱根は江戸時代の延享元(1744)年に造営された現在の本殿と拝殿の間の深さ約1.6メー
トルの地中から上部が姿を現している。
束ねられた丸太はすべて杉材で、断面は円形に近いだ円形。丸太はそれぞれ直径1.35
メートル、短径1.1メートル。露出部分の長さは約1.2メートルで、周囲のたい積層か
ら、当時1.7メートル以上は地中に埋められていたと推測される。柱上部を覆っていた
地層から出た土師器(はじき)から、平安後期の遺構と判明した。
平安の文人、源為憲の書物「口遊(くちずさみ)」は、高層建築の順を「雲太(出雲大社)
和二(東大寺大仏殿)京三(平安京大極殿)」と表現。出雲大社を当時国内最大の高層建
築と記述した。
また、出雲大社は本殿が現在の2倍に当たる18丈(48メートル)に達した、との言い伝
えが残っており、研究者からは今回の発見で「本殿48メートル説」がほぼ裏付けられ
たとする見方も出ている。
江戸時代の国学者・本居宣長が書物「玉勝間」で紹介した金輪造営図(かなわのぞうえ
いず)は、平安期の出雲大社の建築様式を図示。丸太3本を金属の輪で束ねて太くした
巨大な柱9本を田の字形に並べ、高床の本殿を支えた姿が描かれている。
見つかった柱根は、金輪造営図や現在の本殿との位置関係から、大社町教委は屋根の
棟木を支えた「宇豆(うず)柱」と推測する。
柱の間隔から当時の本殿の間口は17メートルで、金輪造営図より2メートル、現在よ
り5.4メートル大きい。現在の出雲大社本殿の宇豆柱の太さは0.9メートル。東大寺大
仏殿は柱の太かった鎌倉時代でも1.5メートルという。
発掘調査は、拝殿の地下室建設に伴い、大社町教委が昨年9月に開始。昭和32、33年に
も、隣接する境内で出雲大社が調査していた。
椙山林繼(すぎやましげつぐ)国学院大日本文化研究所教授、渡辺貞幸島根大教授ら6人
の委員による調査指導委員会の初会合を5月の連休明けに開き、具体的な調査区域など
を決める。
町教委と出雲大社は、本殿の中央部を支えた「心の御柱(みはしら)」が八足門の石段
西端付近にあったとみており、発掘に意欲を見せている。
出雲大社祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)。古くは杵築(きづき)大社と呼ばれ、
創建時期は明らかではないが、日本書紀の斉明5(659)年の記事が文献上の初見とされ
る。
記紀神話では、朝廷が大国主命から国を譲り受ける代償として、広大な宮を築いたと
の経緯が語られる。
現在の本殿は延享元(1744)年に造営され、高さ約24メートル(8丈)。
縁結びの神様として知られ、全国から年間約230万人の観光客が訪れる。
【写真】出雲大社境内から出土した巨木3本を束ねた柱=島根県大社町杵築東
−4月29日(土)山陰中央新報より転載−
古代末に壮大な高層本殿 大仏殿超え48メートルの
島根県大社町の出雲大社境内から、巨木三本を束ねて一本とした
直径約三メートルの巨大な柱が出土した。本殿の高さ十六丈(約四
十八メートル)とする同社の伝承を裏付け、古代日本に仏寺以外の
高層建築が実在したことを示す。同町教育委員会が二十八日、発表
した。
平安時代末に建造された同社本殿の棟持ち柱の一本とみられる。
太さはうち一本でも古今の木造建造物中最大で、三本を合わせる構
造とともに類例がなく、日本建築史の見直しを迫る発見。
659年 斉明天皇が出雲国造に命じて神宮を造らせる(日本書
紀)。出雲大社の起源か
970 当時の書物「口遊(くちずさみ)」に「雲太、和二、京
三」として、出雲大社本殿が奈良の東大寺大仏殿より高いとの記述
1031 社殿転倒。以後約200年間に6、7回の転倒と造営
を繰り返す
1744 現在の本殿造営
当時の技術を使い、現代の労働条件で建設した場合、一日最大千
人、延べ十二万人を投入して六年の歳月を要する大プロジェクト。
総工費は約百二十二億円に上り、大型ビル建設に相当する。
復元チームのメンバーだった同社広報室の林章部長は「最先端の
研究で実現可能と結論付けたので、あると信じていた。やっぱり出
たか、という思いだ」と、今回の発見を喜んでいる。
文献資料や現在の本殿などをもとに、高さ四十八メートルの本殿
を図上に再現。記録によると、本殿は平安中期から二百年間に七回
も倒壊したとされるが、太い柱に支えられ、コンピューター解析の
結果「柱の金輪がしっかりしていれば、戦前の耐震基準相当の耐震
性があった」という。
もう一つの疑問だった建築技術だが、最大で二百三十五トンの柱
を垂直に立てるのも「ロクロ」と呼ばれる伝統的なけん引装置を使
えば可能という。
十四階建てのビルにも相当する巨大な木造建築が、古代日本で可
能だったのか。日本史のなぞだった古代の出雲大社の姿に建築技術
者の視点で挑み「延べ十二万人、六年で建設できた」と結論付けた
のがゼネコン大手の大林組(本店大阪市)だ。
同社は一九八八年、社内の技術者を集めたチームを結成。柱の太
さ約三メートル、階段の長さ約百九メートルなど、出雲大社の宮司
家に伝わる「金輪造営図」を中心に、一年をかけ復元のシミュレー
ションに取り組んだ。
坂井秀弥・文化庁文化財調査官の話 こんな大きな柱が残ってい
て驚いた。柱の周りを石で固めた技法もほかに例がないのでは。平
安時代になって巨大な本殿が現れたわけではない。この地域は弥生
時代から宗教センターの性格があり、そういう伝統が本殿建設時ま
であったのだろう。風土記で「大社」と記されていることからも、
突出した存在だったのではないか。
宮本長二郎東北芸術工科大教授(建築史)の話 今回の発見で金
輪造営図の信ぴょう性が極めて高くなった。出雲大社の記録や柱の
規模からも本殿が十六丈(四十八メートル)あったことは確かで、
高さをめぐる論争に決着がついた。出雲大社本殿のように田の字形
に柱を配置する総柱構造は弥生時代以降に九州から山陰地方にみら
れ、古墳時代に豪族居館に用いられており、これが祭殿へと移り変
わったのだろう。東大寺の最も太い柱でさえ一メートルほどだが、
三本の柱を束ね、直径が三メートルを超える柱構造はこれまで例が
なく、出雲独特ではないか。
出雲大社 祭神は大国主命(オオクニヌシノミコト)。古くは杵
築(きづき)大社と呼ばれ、創建時期は明らかではないが、日本書
紀の斉明五(六五九)年の記事が文献上の初見とされる。
記紀神話では、朝廷が大国主命から国を譲り受ける代償として、
広大な宮を築いたとの経緯が語られる。
現在の本殿は延享元(一七四四)年に造営され、高さ約二十四メ
ートル(八丈)。
縁結びの神様として知られ、全国から年間約二百三十万人の観光
客が訪れる。
(了) 000428 1700
[2000-04-28-17:00]