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「混血児の悲劇」政府次元の対策作りを 朝鮮日報 05.05
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2003/05/05/20030505000014.html
金ブウォン(56)さんは忠清(チュンチョン)南道・天安(チョンアン)市でフォークリフトを運転し、80歳になる母と妻、2人の子供と共に生活する平凡な「混血家長」だ。
パールバック財団の金スンモク代表は「肌の色さえ同じだったら、普通の人と変わらなかったであろう彼の人生は、混血児の中では最も成功した模範例といえる」とした。安定的な職業と仲睦まじい家庭、一人前に育った子供を持つ混血児はそういないということだ。
彼は1947年、パーティーで出会った米軍副士官の父と、釜山(プサン)の大きな織物屋の娘であった母の間に生まれた。「私の母は誰かが私を不思議そうに見つめる度に『この子は拾ってきた子だ』、『代わって私が面倒見ているだけ』と言っていました。本当に悲しくて恨めしかったんです。」
中学生になってからは母の下を離れ、母方の叔父さんの末っ子として入籍した。20歳になった年に、叔母さんとうまくいかず、家を出で、京畿(キョンギ)道・富川(プチョン)市にあった混血児の寄宿舎入りをした。彼は「私1人の力で生き抜くために、軍に志願し入隊、ベトナム戦争にも参加した。本格的な職業訓練も一生懸命受けた」とした。
長い間連絡の取れなかった母も、6年前から共に暮らすようになった。母は詐欺に遭った後遺症で痴呆症を煩い、彼の助けが必要な状態であった。
「混血児としての苦痛も大きかったでしょうが、そういう混血児を生んでしまった親の心もさぞかし痛かったことでしょう。この人たちも一種の犠牲者です。年を取って子供を育てる中に、かすかながらそんな母を理解するようになったのでしょう。」
夕食時、受けた質問にだけ簡潔に答えていた彼であったが、「重要なのは外見ではなくて、心です。混血児自らが萎縮し、他人の視線を気にしながら生きるとすれば、それはもう死んだも同然です。そう思いませんか」と、むしろ記者である我々を慰めた。
国際化、グローバル化が叫ばれる今日も混血児の悲劇は終わっていない。1980年代半ば、米国が期限付きで移民法を修正し、混血児3000人余りを受け入れたが、このうちの大半は米国定着に失敗して帰って来てしまった。また、「お母さんと別れたくない」という理由でこの地に残った彼らの悲しい歴史はその子孫にも受け継がれている。
パールバック財団が2001年、財団に所属する混血児を調べたところ、義務教育である小中学校にも通えない混血児は全体の26.9%にものぼっていた。混血児1世の場合、83%がシングルマザーによって、残りの17%は祖父母や知人によって育てられており、両親と暮らしている児童は一人もいなかった。
同財団の金スンモク代表は、「単一民族を強調する韓国社会が、混血人を暗黙的に『あってはならない出生』として認識付けたことは事実だ。就職も水商売や飲食店などがやっとで、その子孫たちも貧困から抜け出せない場合が多い」と語っている。
混血児にとって大きな力になってきたパールバック財団の学費と生活補助金も、今年からは完全に途絶えた状態。金代表は「韓国がOECDメンバー国になったため、米国本部からの後援金の支給が中止された」と話した。韓国の社会福祉共同募金会から毎年支援されていた資金も、ひとつの団体に3年以上支援できないという規定によって中止になった。
金代表は「ドイツは終戦後、米国とSOFA(在韓米軍地位協定)を締結した時、混血児が成人になるまでの費用をドイツと米国が半分ずつ負担することにした。これ以上、韓国政府は悲劇的な歴史の証人である混血児を見捨ててはいけない」と話した。
取材も終盤に差し掛かった頃、混血児の世話をしている社会福祉士の李ジヨンさんから電子メールが届いた。痴呆になった母親(57)と暮らしている白人系混血児のコンヒ(10)ちゃんに関する内容だった。
「コンヒちゃんは毎日『お母さん、死なないで。お母さんが死にそう』と言いながら泣いています。学校で『米国人めっ!』とからかわれては泣いて帰るコンヒの肩を、温かく撫でてくれるお母さんがいなくなったと思うと悲しくなります。神様がいるのならコンヒを助けてほしいと思いました。こんな幼い子がなぜこのようにつらい目に遭わなければならないのでしょうか。」
許仁貞(ホ・インジョン)記者
張準城(チャン・ジュンソン)記者