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(回答先: 【日刊ベリタ】民主主義が破綻するとき 歴史の警告 (トム・ハートマン) 投稿者 ツチブタ 日時 2003 年 4 月 06 日 01:58:33)
重要な記事だと思うので、全文転載しておきます。
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http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200304051646086
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【コラム】民主主義が破綻するとき 歴史の警告 (トム・ハートマン)
アメリカではその70周年を知る人は少なく、マスメディアでもこれといった報
道はなかった。しかし、ドイツ人は70年前の運命の日、つまり1933年2月27 日のことをよくおぼえていて、全世界の市民がイラク攻撃反対の大きなうねりを つくった平和デモへの参加でその日を祝った。
発端は、世界的な経済危機のさなか、政府が差し迫ったテロ攻撃についての 報告を受け取ったことだった。ある外国の過激思想信奉者が、それまでにいく つか有名な建物への攻撃を試みてはいたが、メディアは泡沫事件と見てほと んど取り上げなかった。だが諜報機関は、その男がいつか大事件を引き起こす かもしれないと警戒していた。(歴史学者のあいだにはいまなお、諜報機関内 部の謀反分子がテロリストに手を貸したのではないかという議論があるが、最 近の研究はそれを否定している。
ところが、捜査官たちの警告は最上層部によって無視された。ひとつの理由 は、政府が別なことに気をとられていたからだ。国のリーダーを自認する男が、 選挙で過半数を獲得できず、国民の大半は彼が権力の座につくことを認めよう としなかった。一部の人にいわせると、その男は間が抜けていて、ものごとをシ ロかクロかで考えるマンガ的な人物であり、複雑かつ国際主義的な世界で一 国を取り仕切る機微が理解できる頭の持ち主ではなかった。南部出身地の政 治風土からくる粗野な物言いと、短絡的でおうおうにして挑発的な国家主義的 言辞は、上流階級の人びとや外国の指導者たち、そして政府およびメディア内 の教養あるエリートたちのひんしゅくを買った。しかも彼は若いころ、オカルト的 な名称をもつ秘密結社に加わり、人間の頭骸骨と肢骨を使う怪しげな入門儀 式を受けていた[1]。
しかし、男はテロリストの攻撃があることを知っており(正確な時間と場所は 知らなかったが)、その場合にどう行動するかをあらかじめ決めていた。国を代 表する建物が炎上していることを側近から知らされたとき、彼は攻撃がテロリス トによるものであると断言し、現場へ急行して記者会見を開いた。
「諸君はいま、偉大な歴史的瞬間をまのあたりにしている」男は焼け焦げた 建物の前で、国中のメディアに囲まれて宣言した。その声は高まる感情に打ち 震えていた。「この炎ははじまりにすぎない。まさしく神の合図である」彼は好 機に乗じ、テロリズムとその思想的支援者たちとの全面戦争を布告したのだ。 彼によれば、そうした支援者たちは中東系で、宗教的信条から邪悪な行為に およぶのだという。
2週間後、悪名高いテロリストとの共謀容疑をかけられた人びとの第一陣を 収容するため、オラニエンベルクに最初のテロリスト監禁施設が建設された [2]。愛国主義がたちまち国中に燃え広がって、かの指導者の旗がいたるとこ ろに翻り、窓に張り出せるよう新聞にまで大刷りされた。
テロ攻撃から4週間もたたないうちに、一躍人気上昇した指導者は、憲法で 保障された言論の自由、プライバシー、人身保護義務を一時停止する立法措 置を強行した。テロと戦い、テロの温床となる哲学を打ち破るというのが立法の 名目であった。それにより、警察が郵便物を検閲し、電話を盗聴すること、テロ 容疑者を訴状も弁護士の接見もなしに投獄することが可能になった。テロの疑 いがあれば、警察は捜査令状なしに人びとの家に忍び込むことが許された。
愛国主義的な響きの「民族と国家の防衛のための大統領令」に対し、法律家 や市民的自由を重んずる人びとから上がった異議申し立ての声を封ずるため、 彼は4年間の時限条項を書き込むことに同意した。つまり、テロリストによって 引き起こされた国家危機が4年以内に解消した場合、国民の自由と権利は回 復し、警察組織の権限もふたたび制約されるという条件である。のちに国会議 員たちは、議決の投票前に法案を熟読する暇がなかったと述べた[3]。
反テロ法が成立するやいなや、彼の国家警察は不審な人間を逮捕し、弁護 士の接見も裁判もさせないまま身柄を拘束する一大作戦に乗り出した。最初の 1年だけで数百人が葬られ、それに異議を申し立てる人びとの声は主流メディ アによって封じられた。メディアは、あまりにも大衆的人気の高い指導者の機 嫌を損ね、近寄らせてもらえなくなることを怖れたのだ。おおやけの場で指導 者に反旗を翻す市民の数は少なくなかったが、新たに権限を強化された警察 の警棒や催涙ガスや牢獄の威力をたちまち思い知らされたり、指導者の演説 から遠く引き離され、声を上げても聞こえない抗議エリアに囲い込まれたりする ことになった。(その間、彼はほとんど毎日のように、公衆の面前で話をする特 訓を受け、声音や身ぶりや表情の操作を学んで、みごとな雄弁家へと変身して いった。)
テロ攻撃から1か月のうちに、一人の政治顧問からの助言を受けて、彼はそ れまで曖昧な意味しかもたなかったある言葉を多用することにした。国民のあ いだに「人種的プライド」を煽るべく、国名を呼ぶかわりに「本土」(The Homeland)と呼びはじめたのだ。レニ・リーフェンシュタール監督による宣伝映 画『意志の勝利』に記録された1934年の演説で導入部分に使われて以来、 この言葉はおおやけに流布するようになった。狙いどおり、人びとの心はプライ ドで膨れ上がり、“われわれとやつら”という敵対感情の種が蒔かれた。人びと は自国こそが“本土”で、他の国々はただの外国だと思い込まされた。指導者 は、われわれこそが“真の民”であり、国益の対象に含まれる価値があると示 唆した。たとえ他人種に爆弾の雨が降り注ごうが、他国で人権が侵害されよう が、それでわれわれの生活が向上するなら、さして気にかけるまでもない、と。
こうした新しいナショナリズムに乗じ、また彼がますます軍国主義を強めること に対するフランスの不満を逆手に取って、指導者は「わが国の国益を優先しな い国際機関など無意味で無用」だと主張した。そうして1933年に国際連盟か ら脱退し、世界規模の軍事覇権を確立するためにイギリスのアンソニー・イーデ ンと二国間海軍軍備協定を結ぶ。
彼の宣伝大臣は一大キャンペーンを仕掛けて、指導者が深い宗教性をもっ た人間で、その動機はキリスト教に根ざしていると、国民に信じ込ませた。彼は 国中にキリスト教を復活させる必要を説き、それを「新しいキリスト教」(New Christianity)と呼んだ。彼の躍進する軍隊では、すべての兵士が「Gott Mit Uns」、つまり「神はわれらとともに」と宣言したベルトの留め金をつけ、大多数 がそれを熱烈に信じていた。
テロ攻撃から1年たたないあいだに、かの指導者は国中の地方警察と国家 公安機関が、テロの脅威に対処する明確な意思疎通と、総合的かつ統一的な 運用を欠いていると判断した。とりわけ、テロリズムや共産主義に傾きやすい 中東系住民と、厄介な知識人および自由主義者が対策課題だった。そこで彼 は、本土安全保障を管轄する単一の国家機関新設を提案した。それまでばら ばらだった1ダースばかりの警察・国境警備・捜査機関などを、一人のリーダー に統括させるというのである。
彼は一番の腹心を新しい組織のトップに据え、本土防衛のための中央安全 保障局と呼ばれるこの組織は、政府の中で他の主要省庁に匹敵する役割を与 えられた。
彼の広報官は、テロ攻撃以来「ラジオと新聞・雑誌は政府の意のまま」と述べ た。中央安全保障局が不審な隣人の密告を大々的に奨励しはじめたため、指 導者の正当性に非を唱えたり、その数奇な経歴に疑問を差しはさんだりする声 は、国民の記憶から抹殺されることになった。この計画は大成功をおさめ、や がて一部の“裏切者”の名前がラジオで読み上げられるほどになった。糾弾さ れた“裏切者”の多くは、指導者に公然と異を唱えた政敵や著名人で、いまや 彼の脅迫と財界同調者の経営支配に縛られて大政翼賛化したメディアは、そ れらの人びとを格好の餌食にした。
権力強化には政府内だけでは不十分と判断した彼は、産業界に手をのばし て連携を図り、最大手企業の元幹部らを政府の重要ポストにつけた。こうして、 本土で暗躍する中東系のテロリストと戦うと同時に、国外での戦争に備えるべ く、多額の政府支出が企業に流れることになった。彼は自分に近い大企業に、 全国のメディアや工業関連会社を買収するよう奨励した。とくに、不審な中東 系住民の所有する事業が狙われた。産業界との結びつきは強力で、ある系列 企業は国家の敵を収容するための大規模な監禁施設建設を巨額で請け負っ た。やがてその数はもっと増え、産業界を潤していく。
しかし、テロ攻撃のあとしばらく平和な時期が続くと、政府の内外でふたたび 異議申し立ての声が高まった。学生による活発な反対運動が起こり(のちに 「白バラ会」と呼ばれる)、周辺諸国の指導者たちは彼の好戦的言辞への嫌悪 感を表明するようになった。彼には何らかの囮(おとり)が必要だった。政府内 で暴露される縁故がらみの企業腐敗や、彼自身の権力基盤をめぐる不正疑 惑、さらには自由主義者たちが盛んに追及した、適法手続きも弁護士や家族と の接見もなく拘禁される人びとへの憂慮から、国民の目をそらす材料である。
メディア操作を得意とする右腕とともに、彼は国民に小規模で限定的な戦争 が必要だと納得させるキャンペーンに乗り出した。ちょうど隣国の一つには、不 審な中東系住民が大勢住んでいた。彼の国のもっとも重要な建物に火をつけ たとされるテロリストとのつながりは、ごく曖昧なものだったが、国の存立と繁 栄になくてはならない資源を擁していた。彼は記者会見を開くと、その隣国の 指導者に対して最後通告を突きつけ、国際社会に大きな波紋を起こした。自衛 のために先制攻撃の権利をもつと主張する彼に、当初ヨーロッパ諸国は非難を 浴びせた。過去においてそんな強硬論は、シーザーのローマやアレキサンダ ーのギリシアのごとき世界帝国をめざす国々だけが主張したものだ、と。
数か月間、ヨーロッパ諸国との激しい議論と裏取引が続いたすえ、最後に彼 がイギリスの指導者と個人的に交渉して、ある約束を取りつけた。軍事行動が はじまったあと、英国のネヴィル・チェンバレン首相はイギリス国民に向かっ て、かの指導者の新しい先制攻撃ドクトリンを認めれば、「われらに平和の時 代」が訪れるだろうと語った。こうしてヒットラーは、戦時指導者がしばしば謳歌 する圧倒的な国民の支持のもと、オーストリアを併合した。オーストリア政府は 転覆され、親独の新しい指導者にすげ替えられて、ドイツ企業がオーストリア の資源を支配しはじめたのである。
侵略を非難する人びとに対し、ヒットラーは演説でこう答えた。
「一部の外国紙は、われわれがオーストリアを強奪したという。私にいわせれ ば、記者連中は死んでも治らぬ大ウソつきだ。私は政治闘争を通じて国民の 大きな愛情を勝ち得たが、国境を越えてオーストリアへ入るや、かつて味わっ たこともないほどの愛が注がれるのを感じた。われわれは圧制者としてではな く、解放者として赴(おもむ)いたのだ」。
彼の政策に異議を唱える人びとに対処すべく、政治的手腕に長けた顧問た ちの助言を受けて、彼と配下の報道関係者は、彼と彼の政策を愛国主義およ び国家そのものと一体化させるようなキャンペーンに乗り出した。テロリストや テロ支援者たちに、国を分裂させたり、国家意志をくじいたりできると思わせな いためには、国としての統一が不可欠だというのが彼らの持論だった。戦時に あっては「一つの民族、一つの国家、一人の総統」しかありえないという理由 で、彼らは国策の批判者を国家そのものに攻撃をしかける人間だと糾弾する、 国ぐるみの一大報道キャンペーンを張ったのである。彼に異議を唱える人間は 「反ドイツ的」ないし「良きドイツ人ではない」とのレッテルを貼られ、国家の英 雄たる兵士たちを支持する愛国心がないために、国家の敵を利する者だと白 い目を向けられた。それは反対意見を封じ、賃金労働者(兵士の大半はこの階 層の出身)と、彼の政策に批判的な“知識人や自由主義者”とを反目させる、 彼一流の効果的手法であった。
にもかかわらず、オーストリアを併合する“小さな戦争”が手際のいい成功に 終わり、平和が回復すると、「本土」にふたたび異議申し立ての声が上がった。 ほとんど毎日のように、共産主義テロリスト細胞の危険をニュースで流しても、 国民を扇動し、反対意見を完全に封じ込めるには十分ではなかった。抵抗者 の失踪、自由主義者やユダヤ人や組合指導者への暴力、産業界において帝 国の富を産出しつつも、中産階級の生活を脅かす慢性的な縁故資本主義の弊 害などが原因で高まる国内の不満から国民の目をそらすには、全面戦争が必 要だった。
それからきっかり1年後、ヒットラーはチェコスロバキアに侵攻する。彼の国は いまや全面戦争に突入し、国家安全保障の名のもと、国内の反対意見はすっ かり封じられた。民主主義をめざすドイツ初の実験はそこで終焉を迎えたの だ。
歴史の回顧を結ぶにあたり、私たちが記憶にとどめるべきポイントがいくつか ある。
2003年2月27日は、オランダ人テロリスト、マリヌス・ヴァン・デア・ルッベに よる帝国国会議事堂(ライヒスターク)の爆弾放火70周年であった。そのテロ 行為が、ヒットラーを一気に正当な国家指導者へとのし上げ、ドイツ(ワイマー ル)憲法の改廃をもたらした。ドイツ人の血をほとんど一滴も流さず素早くオー ストリア併合を達成するころには、彼はドイツ史上もっとも人気の高い大衆指導 者となっていた。その年、世界的な賞賛を浴びた彼は、タイム誌の「マン・オブ・ ザ・イヤー」に輝く。
おおかたのアメリカ人にとって、彼が本土安全保障のために設置した機関 は、その名称 Reichssicherheitshauptamt(帝国防衛省)と Schutzstaffel(親 衛隊)から、悪名高い後者の頭文字「SS」だけで頭に刻まれている。
もうひとつ私たちの記憶にあるのは、ドイツ人が「雷撃戦」(Blitskrieg)と呼ば れる激烈な戦闘形式を編み出したことだ。それは一般市民に凄まじい犠牲をも たらすいっぽうで、国家指導層にとってはきわめて満足度の高い「衝撃と畏 怖」の効果を生み出した。アメリカ防衛大学出版局が1996年に刊行した『衝 撃と畏怖』の執筆陣は、そう記している[4]。
当時を振り返り、アメリカン・ヘリテージ・ディクショナリー(1983年版)は、ヒッ トラーがドイツ最大級の企業群と提携し、戦争を権力維持に利用することによっ て、ドイツ民主主義が変質した結果生まれた政府の形態を次のように定義して いる。「ファシズム:(名詞)極右独裁の統治システム。国家と企業上層部の癒 着に、好戦的ナショナリズムが結びついて生まれるのが典型」
経済的・政治的危機に直面するいま、私たちは世界大恐慌の被害がドイツに もアメリカにも等しく襲いかかったことを忘れてはなるまい。けれども、1930年 代を通じてヒットラーとルーズベルトは、それぞれの国力と繁栄を回復させるた めに、まったく異なる道を選んだ。
ドイツの選択は、政府が企業に肩入れし、社会の最富裕層に恩恵を与え、公 共部門の大半を民営化し、反対意見を封じ、憲法で保障された諸権利を人びと から奪い、戦争の継続と拡大によって繁栄の幻想を生み出すことだった。アメ リカは最低賃金法を可決して中産階級を力づけ、企業の権限を抑えるために 独占禁止法を実施し、企業と最富裕層への増税を行ない、社会保障制度を創 設し、国家社会基盤建設と芸術振興と森林再生の計画を通じて最終雇用を確 保した。
合州国憲法がまだ健在である限りにおいて、今回の選択も私たちしだいだろ う。
訳注
[1] ヒットラーは若いころからオカルティズムに興味をもち、さまざまな秘教組織 にかかわったとされる。その中にはいわゆる悪魔崇拝の結社もあった。ただ し、「頭蓋骨と肢骨」の儀式を行なったのがどんなグループだったか訳者には 不詳。いっぽうブッシュ大統領は、エール大学在学中に文字どおり「Skull & Bones」と呼ばれる学生秘密結社に入団した。19世紀に遡るこの秘密結社 は、父ブッシュ大統領も含む会員を通じ、米国社会上層部に大きな影響力をお よぼしてきた。やはりこの結社に属していたブッシュ現大統領の祖父プレスコッ トは、ナチスに軍需物資を流す事業で財をなしたといわれる。
[2] 最初に建設された強制収容所のひとつ。
[3] 9・11直後にアメリカ連邦議会で成立し、同種の内容で各種の基本的人権 を制限する「愛国者法」(USA Patriot Act)についても、政府からの法案提出が ぎりぎりまで引き延ばされたために、国会議員から同様の不満が出た。
[4] ハイテク兵器を駆使したイラク攻撃緒戦の計画は、この著作にもとづいてい る。
【トム・ハートマン】 Thom Hartmann
1980年代のドイツで暮らし、働いた経験をもつアメリカ人。著書に UnequalProtection、The Last Hours of Ancient Sunlight ほか多数。
When Democracy Failed: The Warnings of History
by Thom Hartmann
http://www.commondreams.org/views03/0316-08.htm
(翻訳:星川 淳/TUP=ベリタ通信)